野田市小学4年生虐待死事件について考える(2)
多くのおとなが“しつけ”や“体罰”を容認しているにもかかわらず、こうした虐待事件が起こると、加害者へのバッシングが吹き荒れることが、いつも不思議です。
「自分がやっている体罰は『子どものため』なのだから良いことである」
「自分はけがや死に至るまでは殴っていない」
ということなのでしょうか。
スプリットした考えは危険
「虐待して子どもを殺すような親と自分は違う」というスプリットした考えは非常に危険です。
完璧に「善なる人間」も「悪なる人間」も、この世にはいません。聖人君子のような人だって追い込まれれば罪を犯すことがありますし、悪行を重ねてきた人が命を救うことだってあります。
それは状況や関係性、その人の育ちなどによって揺れ動くものです。
その事実を無視して、受け入れがたい罪を「自分とは違う突然変異で生まれた怪物のせい」のように考え、その個人の特性や人格になすりつけてしまうことで、社会が持っている問題が見えなくなってしまいます。
「虐待の連鎖」
「虐待の連鎖」という言葉が世間に浸透してから久しくなります。
「虐待する親は、かつて被虐待児だった経験があり、その負の連鎖が続いていってしまう」ということですが、野田市小学4年生虐待死事件の親はどうだったのでしょうか。
報道によると父親が子どもにたびたび暴力をふるったり、冷水を浴びせたりおり、虐待親であることは間違いありません。
母親については、「夫である父親からDVを受けていた」とかばう向きもありますが、子どもを暴力から救わず、その死に荷担したという意味では、やはり虐待親です。
両親もまた虐待児であったはず
つまり「虐待の連鎖」を念頭において考えれば、この両親もまた、子どもの頃に虐待されていたということになります。
孤独で寂しく、だれにも救ってもらえない無力な子ども時代を自らの力で生き延びるしかなかった犠牲者ということになります。
かつて私たちの社会が放置し見捨てた子どもが、無力な子どもをなぶり殺すおとなへと成長したわけです。