『家族』はこわい(4/6)
この少年に対し、事件を担当した栃木力裁判長は懲役14年を言い渡しました。
おそらく裁判長は、辛い体験、親への愛憎半ばする思い、そうした少年が語る“事実”、を「改悛の情が見受けられない」と判断したのでしょう。
判決要旨を読むと、この裁判長は、父がゲーム機を壊したことは「勉学がおろそかになることを心配していた」ためと考え、奴隷のようにこき使われ、放ったらかされていた毎日は「不適切な養育とは言えず、両親に募らせていた不満や恨みは極めて身勝手なもの」と思っていたことがよく分かります。
こうした判決や判決要旨もさることながら、私が怒りを覚えたのは、判決朗読後に裁判長が少年にかけた次のような言葉です。
「ご両親なりに愛情を持って育てていたと思います。あなたには、そのことに気づいて欲しいと思います」(『朝日新聞』2006年12月2日)
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「両親の愛情」という幻想
父親が少年にしたことは、紛れも無く人間の尊厳を叩き潰す行為です。もし、親子ではない、おとな同士の関係のなかで、同様のことをしていたら、当然罰せられていたでしょう。
一方、母親はどうでしょう。父親の暴力に対して無力で、生きていくだけで精一杯。少年の気持ちを考える余裕もなかった母親は、少年に愛情ある接し方が出来ていたと言えるでしょうか。
少年の両親を責めるつもりはありません。おそらく両親も、きちんとした愛情を親から受け取っていない、かわいそうな人たちだったのだとも思います。そういう意味では、両親が、少年にこうした接し方しかできなかったのは、当たり前とも言えます。
しかし、だからと言って、この両親の養育態度を「愛情を持って育てていた」などど、言っていいはずがありません。
もし、そんなことが許されてしまえば親が子どもに対して行なう、どんな残酷な行為も「愛情」という言葉をかぶせることで「子どもがありがたく受けるべきこと」へとすり返られてしまいます。
行為者が、ただ「親だ」というだけで、子どもがされた残酷な“事実”が、「両親の愛情」という幻想に置き換えられてしまうのです。(続く…)