さとり世代(4/10)

2019年5月29日

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「オウム真理教」と聞くと、それだけで、なにやら得たいの知れない、恐ろしいイメージを持つ方もいらっしゃることと思います。

その信者の方々に対しても、「あんな凶悪事件を起こすような教えを信じていた凶悪な人間」「マインドコントロールされ、自分の頭でものを考えられない人間」「親子の絆など、人と人とのつながりを否定する冷酷な人間」・・・そんな印象を持っている方も、けっこう多いのではないでしょうか。

イメージとは真反対

でも、実際にはまったく反対です。

私がお会いした、多くの信者の方々は、人とのつながりを求めるがあまりに傷つき、多くのことを考えすぎてしまうからこそ生きづらく、結局は争いや暴力を肯定している社会(世界)を憂えているからこそ、今の世の中をうまくわたっていくことができず、現世を捨てて出家していました。

でも、それでも現世への思い、現世に残してきた家族や恋人や大切な人たちへの思いが絶ちがたいからこそ、世の中から距離を取った世界で、日々修行をし、そうした煩悩を断ち切ろうともがいていらっしゃいました。

何ものにも執着しない、何も求めない「無」の境地である「さとりの境地」を目指し、極限まで自分を追い込もうとされていました。

私にも盛んに修行を勧め、「さとりを開くことがいかにすばらしいことか」と説いてくださった方々もいっぱいいらっしゃいました。

「さとりの境地」はすばらしい?

しかし、私には(大変申し訳ないのですが)、彼らが修行をしてまで目指す「さとりの境地」がそんなにすばらしいものには感じられませんでした。

悩みも苦しみも悲しみもない、傷つけたり、傷つけられたりすることもない、何も欲しない世界がどうしてすばらしいのか? そんな世界が「幸せ」と呼べる世界なのかが、私には分かりませんでした。

もちろん私だって苦しみは嫌ですし、傷つけることも、傷つけられることもしたくはありません。すべて満たされた状態で、何の悩みもなく、楽しい思いだけをして生きて行けたらどれほど苦労はないかとも思います。

でも、大切なものを失えば、悲しみに暮れるのは当然ですし、だれかを心から愛すれば傷つくことはありますし、何かに打ち込めば自分の至らなさに悩むことは避けて通れません。
「ああもしたい」「こうありたい」と思うからこそ、人生は豊かで、生きていく甲斐のある、キラキラしたものになるのではないか、と思うのです。(続く…

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