子どもはそうやって徐々に、恐怖や不安、寂しさなどのリアルな感情を封印する術を上手に身につけていきます。そして、だれかを頼ることをあきらめ「自分の面倒は自分で見よう」という決心を固めていきます。
「だれかを頼る」ということは、その相手に自分を預けるということです。それは、不測の事態がいつでも隣にあり、余裕のないおとなしかいない家庭で暮らす子どもにとっては、自分の身を危険にさらす行為とイコールです。
感情に無頓着で人に頼れない子ども
子どもが、安心して生きていくためには、ある程度の一貫性と秩序が必要です。だから、おとながそれを子どもに与えることができない場合、子どもはどうにかしてそれを手に入れようと、自らさまざまな工夫を始めます。
たとえば、おとなの代わりに日常生活をオーガナイズする「責任を負う役割」を担ったり、どんな状況でもすべてを受け入れることができる「順応者」になったり、自分はさておき、傷ついた妹弟などを慰める「なだめ役」になったりします。
中には、おとなにも分かりやすい問題行動を取ることで「自分は安心してくらせていない」と警鐘を鳴らすことができる子もいますが、そうはできない子どもも多いのです。
見かけ上の役割はいろいろですが、そこに共通してみられる特徴があります。
「自分の感情に無頓着である」ということ。そして「人に頼ることがとても下手である」ということです。
子ども本来の姿は見えなくなる
ところが皮肉なことに、「責任を負う役割」だったり、「順応者」だったり、「なだめ役」だったりする子どもの姿は、おとなからは「しっかり者で、聞き分けのいい、おとなを助けてくれる子ども」に見えます。
おとな側の「子どもは元気で、苦労なく育って欲しい」という願いや、「もうこれ以上の難問を抱え込みたくない」という無意識もはたらくのでしょう。過酷な日々の生活を考えれば、無理からぬことです。
しかし、一見、問題のない子どもの姿は、実は子ども奥底に隠れている“おとなに甘え、守ってもらう存在”である本来の姿を見えなくしてしまいます。
アルコール依存の家庭で育った子どもたちの抱える問題に注目し、アメリカでその治療・研究・予防に当たってきた社会心理学博士クラウディア・ブラック氏は、その著書『私は親のようにならない』(誠信書房)の「まえがき」で、次のように述べています。
「多くの子供たちが、予測不能で混乱した生活の中で虐待されて暮らしながら、『元気なよい子のように見える』ことも、世界中に共通したことだと思います」(続く…)