その人たちは、PTSDの診断基準を満たしてはいませんでした。べつに大事故に巻き込まれたとか、拷問を受けたとか、奴隷にされたというような、ある意味わかりやすい命の危機に瀕した経験は持っていなかったのです。

私の知っている限り、なんらかの性的被害を受けている人は一定数いましたが、「必ずしも性的な被害を受けていた」というわけではありません。

共通点を挙げるとすれば、「本来、最も安心できるはずの家庭が、危険きわまりない場所であった」ということ。そして「だれよりも自分を守ってくれるはずの親(養育者)が、その人を最も脅かす存在であった」ということでした。


子ども時代に救われることはまれ

過酷な環境で生きる子どもが、子ども時代に救われることはまれです。ほとんどの場合、成長し、おとなになってから、メンタルクリニックやカウンセリングルームのドアを叩きます。

対人トラブルや、依存症、生きづらさを抱えながら。

ときには「人格障害」とか「躁うつ病」などの診断名を持っていたり、「アダルトチルドレン」という特徴を掲げていたりします。

複雑性PTSDと重なる人物像、予後

あえて彼・彼女らの人物像を記すとしたら、自己肯定感が低く、自尊心が無く、他者を信用できず、感情のコントロールが困難というようなことになるでしょうか。しかし一方では、「だれかを信じたい」、「自分を大切にして欲しい」と、強く願っています。

それが故に、自分を傷つけるような相手まで信じたり、頼ったりしてしまい、心根が純粋なために同じような被害体験を繰り返し、また傷つくという負のスパイラルに陥っていたりします。

目立つのは、「安全感の無さ」です。安全で無かったという生い立ちを見ていけば当然のことなのですが、つねに不安定で心安まることが無く、そのために対人関係にも困難を来しています。

たとえ「今は安全」な場所にいたとしても、こうした状態から抜け出すことはとても難しく、長引きます。人物像も、予後も、複雑性PTSDと重なります。

そんなふうに考えると、件の結婚発表会見に同席した精神科医でNTT東日本関東病院の秋山剛医師が、「インターネット上での誹謗中傷やいじめ、不特定多数の人からの言葉の暴力でも起こりえる」と、「長期にわたり誹謗中傷を体験された結果、複雑性PTSDと診断される状態になっておられる」と述べたことに、すんなり同意できない気持ちがします。

もちろん、インターネット等による誹謗中傷が人を追い込むことは知っています。

実際、2020年5月には、フジテレビの恋愛リアリティー番組「テラスハウス」に出演していたプロレスラーの方が、会員制交流サイト(SNS)上で非難された後、遺書のようなメモを残して亡くなりました。

また、最近では、2020年11月に東京都町田市の小学6年生が自殺したのは、学校で配布されたタブレット端末のチャット上でのいじめが原因であるとのニュースも話題になっています。

ただの推測に過ぎないけれど

しかし、こうしたネットいじめの犠牲者は、さまざまな理由でなかなかSOSを出せず、周囲もその窮状に気づけていないという場合がほとんどです。

それは秋篠宮家の長女にも当てはまることなのでしょうか。

具体的な症状などもよく分からないなかでは、ただの推測に過ぎませんが、彼女を追い込んだのは、「顔も見えないだれかによる誹謗中傷」などではなく、「愛する人にいつ会えるかも分からない」不安と、それを「本当に理解してくれる身近な人がいない」という孤独だったのではないかという気がしてなりません。

もう一つの疑問

さらにもう一つ疑問があります。もし、複雑性PTSDなのだとしたら、「結婚されることで、誹謗(ひぼう)中傷と感じられる出来事がなくなれば改善が進む」(秋山医師)というような、「危険な環境から脱すれば自然と良くなっていく」ものではないということです。

幼い頃に過酷な環境で生き延びてきた人たちが、親から解放され、自分の力で生きられるおとなになってからも長い間苦しみ続ける姿を見てきた者として、まるで納得がいきません。

心からお祝いしたい

本当に複雑性PTSDなのか、それともそうではないのかはさておき、どうしてひとりの成人女性が、愛する男性と一緒になりたいというだけのことなのに、こんなにも大騒ぎするのか。

まず、そのことが私には大いなる謎です。

百歩譲って、相手の男性やその家族が何らかの問題を抱えていたとして、それが何だというのでしょう。2人がそれで納得して、家族の問題も含めてどうにかやっていこうとしているのですから、素晴らしいことではないですか。

そもそも問題の無い家族などこの世に存在するのでしょうか。

3年以上も誹謗中傷され、見知らぬ人からも結婚に反対されながら、宙ぶらりんで3年以上も愛する人と会えないままだったのに、ずっと思い続け、さらには海外で2人でやっていこうというのですから、本当にすごいことです。

何度も心がくじけそうになったことでしょう。ちょっとやそっとの強さでは守り切れない愛だったと思います。ようやくたどり着いた結婚を心からお祝いしたいと思います。

デニクロ

ここのところ、虐待についての講座や研修をさせていただくことが続いています。
児童相談所の虐待対応件数が20万件を超えているせいなのでしょうか。それとも、おとなになってからも虐待が大きな傷跡を残すことが、理解されてきたせいなのでしょうか。
いずれにせよ、多くの人が虐待に関心をっているような気がします。

しかし、それでも、「何が虐待にあたるのか」についての理解はなかなか深まっていません。
殴る、蹴る、というような明らかな身体暴力や、ご飯を食べさせない、不衛生な衣服のままにさせるという典型的なネグレクトでないと、それが虐待であるとは思いにくいようです。

研修の中でも、「はっきりした虐待歴は無いのに、どうしてここまでの生きづらさを抱えているのか」とか、「被虐体験があればもっと共感的に寄り添えるのだが、そうでないと“わがまま”と感じてしまう」といった類いの意見がありました。


背景が分かると楽になる

デニクロ

支援の仕事をしていると、思いが伝わらなかったり、善意を悪意で捉えられたり、何をしても裏切られる、無力化させられるというような方に出会うことがあります。

「どうしてこんなことを言われなければならないのか」
「支援者だって傷つくということが分からないのか」

など、嘆きたくなることがあります。
そういうときに、その方の背景や生きづらさの根底にあるものが理解できると、支援者自身が救われることにつながります。

「これだけ裏切られてきたんだから、なかなか他人を信用できないよね」
「たくさん力を奪われてきたという辛さを、支援者を無力化することで表現しているんだよね」

そんなふうに思えると、今よりずっと楽になります。

知識が助けてくれる

人間の発達や、発達心理学、子どもの権利条約などの知識が、手助けになることもあります。

発達(develop)の語源を紐解けば、dis(否定を表す接頭語)+ velop(包む)です。つまり、「生来持っている能力や可能性を表出させる、包みを開き発展させる」ということです。
人間として生まれたからには、人間として必要な能力の種をすべて持って生まれてきています。たとえば、共感能力、基本的信頼感、自己肯定感、自律心などです。

私たちは子どもに対し、さまざまな能力や知識を外から何かを教え込もうとしますが、そんな必要は無いのです。

デニクロ

植物を見ればよく分かります。ひまわりは、ひまわりの花を付ける、バラはバラとして咲く、サボテンはサボテンとして生きるための“もと”を全部、種の中に持ってこの世に誕生します。

ただし、ひまわりがひまわりとして、バラがバラとして、サボテンがサボテンとして立派に成長するためには、それぞれが必要とする、それぞれが持っているニーズを満たされる必要があります。

サボテンにじゃぶじゃぶと水をやったら、枯れてしまいます。虫の多い環境ではバラは大輪の花を付けませんし、日陰でひまわりは育ちません。

それぞれの植物が持っている特性に合わせた環境や土壌が必要です。植物の特性を無視しして、人間の都合に合わせて育てようとしたら、植物は美しい花を見せてはくれないでしょう。


その子のニーズに応えることが大事

デニクロ

人間の子どもも同じです。
近年の発達心理学は、周囲のおとなが、ひとりひとり違うその子どものニーズに適切に応え、安心感や安全感を持つことができたかどうかが、自己肯定感や基本的信頼感、共感能力などを備えた人格の完成のために不可欠であることを明らかにしています。

また、子どもの成長発達のための英知が詰まった子どもの権利条約は、発達心理学が言う「調和の取れた人格」となるためには、「幸福、愛情及び理解ある家庭」が必要であると謳っています。

つまり、「たとえ何もできないちっぽけな自分であっても、ここにいていいんだ」という感覚を持つことができ、「求めれば周囲は助けてくれる」と信じることができる環境で育てば、子どもは、持って生まれた能力を開花させ、発展させることができるのです。

不適切な養育の結果

もし、目の前にいる人が共感能力が無かったり、自己肯定感が低かったりして、周囲を信用できず、自ら生きて行く能力が無いように見えるのだとしたら、それはその人が、愛情や理解のある家庭で育つことができなかったということです。

その人が必要とするニーズに応答してくれるような環境ではなく、幸福感を持って生きてこれなかったということです。

たとえ明らかな虐待に見えることが無くても、その生育環境は、その子どもにとって不適切な養育であることには違いないのです。

「そうは言っても、今さら子ども時代をやり直すことなどできない」
「本人が変わる努力をしなければ」

そんな声が聞こえてきそうです。

脳は変化する

デニクロ

ところで、これも最近、さかんに言われていることですが、虐待を受けると脳が変化します。

たとえば、体罰を長期かつ継続的に受けた人たちの脳は、前頭前野の一部である右前頭前野内側部の容積が平均19.1パーセントも小さくなります。
また暴言にさらされてきた人たちの脳では、スピーチや言語、コミュニケーションに重要な役割を果たす大脳皮質の側頭葉にある「聴覚野」の一部の容積が増加すると言われています(公益社団法人日本心理学会HP「体罰や言葉での虐待が脳の発達に与える影響」)。

こうした虐待が脳に与えるダメージが強調されがちですが、最近の虐待と脳に関する研究では、脳に可逆性、回復力があることも証明されてきています(『児童青年精神医学とその近接領域』57(5)「子ども虐待とケア」)。


猫の脳も変化していた

デニクロ

考えてみれば、その事実を私も身近なところで体験していました。
保護猫たちです。

我が家にやってきた野良猫たちは、みんな最初は警戒心バリバリです。「人なんか信用するか!」「きっと自分を追い出すんだろう!」といきり立っています。

しかし、数ヶ月、長くても数年で、猫は変わっていきます。お腹を出して日向でくつろぎ、人間の膝に乗ってきて「撫でて」とねだります。

間違って人間の足が当たったりしても、「にゃっ!」と不満を表明し、一瞬逃げ去ったりしますが、呼べばすぐに戻ってきます。

「自分がここを追われることはない」と確信し、「周囲は安全だ」と思っているからこその態度です。

日々の関わりが重要

ここで重要なことは、「猫(の脳)は、自然に変化したわけではない」ということです。関わる人間が、「ここは安全だよ」「ここにいていいんだよ」と、日々、示し続けたからこそ、猫は変わったのです。

人間も同じではないでしょうか。
本人がいくら努力しても、本人の力だけではどうにもなりません。幸福や愛情、理解ある環境が用意されて、はじめて可能になることです。

「これから」は変えられる

確かに子ども時代はやり直せませんが、「今、このとき」「これからの未来」は、いくらでも変えていくことができます。

その事実は、私たち支援者にも大きな力になります。

安倍晋三元首相の襲撃事件以降、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)をめぐる問題が次々と明るみに出てきました。

そのひとつが信者である親からの特定の“教え”に基づく子どもへのしつけ・教育方針等に関する問題などです。

信者を親に持つ、いわゆる宗教二世の人たちが「児童相談所や警察に訴えても、宗教を理由に対応してもらえなかった」などと発言し、その苦しかった子ども時代が世に知られることとなりました。


国の通知

こうした中、22年10月6日、厚生労働省は全国の自治体に信仰を理由にした行為でも児童虐待に当たる行為はあり得るとの通知を出しました。
「保護者の信仰に関連することのみをもって消極的な対応を取らず、子どもの側に立って判断すべき」と明記し、適切な判断と対応をとるよう求めたのです。

信仰が理由であっても、①身体的暴行を加える ②適切な食事を与えない ③重大な病気になっても適切な医療を受けさせない ④言葉による脅迫、子どもの心・自尊心を傷つけるような言動を繰り返す――といった行為は、児童虐待に該当する可能性があると例示。虐待にあたるかどうかは、子どもや保護者の状況、生活環境などに照らし、総合的な判断を呼びかけたました(『朝日新聞』22年10月7日)。

また、同日、文部科学省も、「児童生徒の心のケアを図る必要があると考えられる事案があった場合には(中略)、スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーと共にチーム学校として、教育相談に取り組むこと」といった通知を出しました。

通知への違和感

こうした通知に違和感を覚えた方も多いのではないでしょうか。

厚労省が例示した①は身体的虐待、②と③はネグレクト、④は心理的虐待にあたります。どこから見ても立派な? 児童虐待です。
それなのに、何をもとに、どう「総合的に」判断するのか。

文科省の通知もまた、しかりです。
「子どもの心のケアを図る必要があるときに、チーム学校として取り組む」などというのは、あまりにも基本的な話です。

大切なことは、こんな中途半端な、「とりあえず、何かやりましたよ」というアリバイづくりのための通達を出すことではありません。

明らかな虐待行為であるのに、子どもの心や体が傷ついているのに、「宗教」や「家庭内問題」という理由で、もっと言えば保身に走って、おとなたちが看過してきたことを猛省すること。
「○○虐待」とネーミングが付き、世間が騒ぎ、お上が「認定」しないと動かない、そんな行政の姿勢を変えること。

その二点が、重要なのではないでしょうか。

私のクライアントさんの中にも

私のクライアントさんの中にも、宗教二世の人が何人もいました。旧統一教会の方ばかりではありませんが、その過酷さは同じでした。

「深刻な“宗教虐待” ガスホースで親からムチ打ち 宗教2世が苦しみ語る」(『AERA dot.』22年11月1日)という記事を目にしたとき、「もしかしてあのクライアントさんでは?!」と、顔や名前が思い浮かんだほどです。

「だれも救ってくれない」という信念

私が出会ったときには、すでに成人されていました。しかし、子どもの頃に負った傷は、そのときも生々しく血を流し続けていました

多くの場合、「だれも救ってくれなかった」という子ども時代によって、「人は信用できない」「分かってくれる人などこの世にいない」という信念を持っていました。

子どもの頃は、うかつにだれかを信じて、それ以上傷ついたりしないために役立ったその信念。それが、他者と親しくなることを邪魔し、孤独にさいなまれていました。

過酷な子ども時代の影響

一方で、「支配される」ことに慣れているためか、自分を食い物にするような他者を拒絶できず、いいように利用されたりしていました。

過酷な子ども時代の経験が、パートナーをつくったり、だれかとほどよい距離で付き合う、ということを困難にしていたのです。

虐待とは、殴ったり、蹴ったり、罵詈雑言を浴びせることだけではありません。

親に頼り、愛されなければ生きられない子どもに、親の都合や考えを押しつけ、子どもの人生を支配することです。

昨今、話題の塾や習い事に連れ回し、受験を強いて「優秀な子」に仕立て上げようとする、教育虐待はその典型例です。

今年7月、2008年に秋葉原(東京)で17人を殺傷した罪で刑が執行された加藤智大死刑囚も母親から激しい教育虐待を受けていたと報道されています。

そんな彼は獄中で、自身の親について、子ども時代について、「親は力で支配しがち/屈辱に耐える毎日」とラップで表現しています(『週刊文春オンライン』22年8月11日)。

「子どものため」と支配する親

「子どものため」にと、破綻した夫婦生活にしがみつく親もまた、同様です。

子どもはそんなふうに「自分のため」に頑張る親に「申し訳ない」と思い、ときに「感謝」し、かわいそうな親の人生を変えたり、幸せにしたりする役割を背負わされます。

親を愛するがゆえに、せめて「不幸で、かわいそうな親」の期待に応えて、親を喜ばせたいと思ってしまうのです。

こうして、子どもの生きる目的は「親の期待に応えること」であったり、「親を幸せにすること」になってしまい、自分らしい人生を生きることができなくなってしまいます。

こんなふうに子どもの人生を支配すること。子どもから、その人生を奪うこと。それは紛れも無く虐待と呼ばれる行為です。

虐待を無くす唯一の方法

宗教虐待、教育虐待、スポーツ虐待・・・そんなネーミングは、本来どうでもいいのです。そんなことをしても、虐待は絶対に無くなりません。

「子どもが自分の思いや願いを安心して出し、持ってうまれた力を伸ばし、幸せだと感じながら他者と一緒になって自分らしい人生を生きられなくすること」

「それはすべて虐待なのだ」という認識を子どもと関わるおとなが持つこと。それが、虐待を減らす唯一の方法なのです。