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子どもにとって、親は神に等しい絶対的な存在です。

人間の赤ちゃんは「生理的早産」とも呼ばれるほど、とても未熟な状態で産まれてきます。
たとえば人間以外のほ乳類の赤ちゃんの多くは、産まれた直後から自分の足で立つことができます。
そして、生後1年もたてば、自らの空腹を満たす術も身につけます。

ところが人間の赤ちゃんはそうではありません。産まれた直後に立つなんてもってのほか。食事も排泄も、外界から身を守ることも何一つ、自分一人ではできません。生きていくために不可欠なことのすべてをだれかに頼らなければ1日たりとも生きてはいけないのです。

しかも、今、何をして欲しいのか、何を必要としているのか、自分がどんな状態なのか・・・それらを伝えるための手段は「泣く」ということだけです。
赤ちゃんは、その泣き声から、自らが必要としていることをくみ取り、かなえてくれるだれかに頼らなければ生き延びることはできません。

さらに成長し、立てるようになってからも、自らの力で生きていくための能力を手に入れるまでには、10年以上もの長い年月がかかります。その間、子どもの毎日、人生、未来はすべて親(養育者)に握られています。

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親に愛してもらえないということは死を意味する

だから人間の子どもは、親(養育者)の愛を得ようと必死になります。親に愛してもらえない、親が顔を向けてくれないということは死を意味するからです。

こうした事実を踏まえたとき、「愛を感じられなかった」と語るA子さんのストーリーは重みを増します。
10代半ばで「人の顔色を見て生きることに疲れた。すべてを終わりにしたかった」と、家族殺人を思いついた中学生の想像を絶する痛みも、伝わってきます。

自分を偽ってでも愛されたかった親。何ものにも代え難いほどに大好きな親。そんな親から「逃げ出さなければ死んでしまう」と思ったA子さん。家族全員を殺して「すべてを終わりにしたかった」という中学生。彼女たちの辛さ、切なさはどれほど大きなものだったでしょう。

「親の目線」に立ってしまいがちな虐待

虐待を論じるとき、私たちはしばしば「親の目線」に立ってしまいがちです。
「子どもがどんなふうに感じていたか」より「親がどんなつもりでその行為をしていたか」に注目してしまうのです。

だから「しつけだと思って」子どもを殺してしまったり、暴力をふるうなどの極端な例だけを虐待(不適切な養育)だと思い、A子さんたちのようなケースが当てはまるかもしれないとは、まるで考えません。

端的に表しているのは、少年審判です。

2006年6月に高校1年生(当時)の長男が、「テストの点数が悪かったことがばれたら父親に殺される」と思い、自宅に放火し、義母や弟妹などを結果的に殺害するという事件がありました。世に言う「奈良放火事件」(『奈良放火事件から考える』参照)です。

この少年に対しては、世間も裁判官も同情的でした。少年の同級生の保護者らが呼びかけて嘆願書が集められ、裁判長は「保護処分」の決定をしました。
父親からの暴力が明らかだったため、裁判長は「正当なしつけの限度を超えた虐待というべきもの」と判断したようです。

一方、奈良放火事件のちょうど1年ほど前に「板橋区管理人夫妻殺害事件」は違いました。事件を起こした高校1年生(当時)が、必ずしも殴る蹴るなどの暴力を受けていたわけではなかったため、両親の対応は「虐待に当たらない」と判断されたのです。
この少年に対して裁判長は「それでも親はあなたを愛していた。そのことを分かってほしい」と説教し、懲役12年を言い渡しました(『家族はこわい』参照)。(続く…

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私たちの社会は、「親は子どもを愛するもの」という幻想を抱いています。
もし、そこに疑いを抱いてしまったら最後。多くの人が「自分の親も無償の愛を注いでくれた人ではなかった」という現実に直面しなければならなくなってしまうからです。

多くの人が自らの感情にはふたをして「いろいろ辛いこともあったけれど、親は自分のことを思ってくれていたんだ」と、自らを納得させます。そうして、かつて親が自分にした残酷な仕打ちは「なかったこと」あるいは「ありがたいもの」にして、親と同じように子どもに接します。

だから、子どもが親や社会への反抗とも取れる事件を起こしたりすると、

「親は出来る範囲で、その親なりに子どもを愛してきていたのに、愛を感じられない子どもの方にこそ問題がある」

と、子どもを責めます。

心理の専門家のなかにも、事件を起こした少年たちに対して「(親に)愛があるのに、子どもに届いていない」などと言う人もいます。

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大切なのは「子どもの視線」に立ったかかわり

はたしてそうでしょうか?

仕事に疲れた親が子どもの声を無視してしまうとき、子どもの将来を考えて勉強を強要するとき、世間で通用する良い子にしようとして暴力をふるうとき・・・親は子どもを愛しているのでしょうか?

そうしたやり方でしか子どもへの思いを伝えられない親にではなく、その愛を受け取る感受性がない子どもの方に問題があるのでしょうか?

確かに、親の側にも大変な事情はあるでしょう。疲れていたり、将来への不安があったり、世間のプレッシャーを感じていたりして、うまく子どもと向き合えない現実もあるとは思います。

しかし、だからといってこうした親の振る舞いを「愛情あっての行為」と呼んでしまうことには抵抗を覚えます。

子どもの成長を促すのは「おとなの都合」を強要するのではなく、「子どもの視線」に立ったかかわりのはずです。

学齢期前からの道徳教育

ところが、今度は、今まで以上に小さな子どもたちを「おとなの都合」に合わせるための施策が始まっています。
昨今の子どもたちの状況に業を煮やした政府は、幼稚園教育要領を改定し、学齢期前からの道徳教育を強化しました。

今までの幼稚園要領では、
「相手の気持ちに気づくことで、子どもが自分の気持ちたり調整したりできるようになる」
ことを目指してきました。対して改定版では、まず
「きまりは絶対なもの」
という大前提に立って、
「それを守らせるためには自分の気持ちを抑えて相手と折り合いをつけなくてはならないとの意識を育てる」
ことを目指すというのです。

それでなくとも幼稚園か保育園いずれかの低い設置基準に基づいて設置ができる認定こども園ができ、小学校に入学後、教師の言うことにおとなしく従えない子どもの問題(小一プロブレム)などが言われる中で、幼小連携が進んでいます。

従来から行われきた子どもの思いや感じ方を大切にする内容ではなく、政府の方針に合わせた保育・子育てを実現する仕組みが着々とつくられているのです。

小さな頃からきまりを押しつけられ、おとな社会に合わせて振る舞うよう強いられた子どもは、今よりももっと、自分の思いや願いを素直に表現することができなくなるでしょう。
いつでも親の顔色をうかがい、自分を殺し、ルールに従おうと頑張ったあげくに疲れ果て、親や社会、もしくは自分を破壊するところにまで追い込まれる子どもが増えるだけです。

子どもをそんなところへと追い込む関わり方は虐待(不適切な養育)と呼ばれてしかるべきです。

もうすぐ終戦記念日です。

毎年この時期になると、戦争や原爆に関するテレビの特番や新聞・雑誌の特集などを目にする機会が増え、自然と平和について考えさせられます。

そして目を覆うばかりの惨状や悲惨な戦争体験、戦後の過酷な環境を生き抜いてきた方々の苦労などに、本当に心が痛みます。

しかし、その一方で「二度とあの悲劇を繰り返さない」と、式典などで述べている政治家や、戦時中と比較して「今の日本は平和である」と言う人々の発言に腑に落ちないものを感じているのも事実です。
こうした意見を聞くたびに思います。

「戦争さえなければ平和なの?」と。

分かりやすい暴力がなければ平和?

確かに、今、私たちの頭上に爆弾は落ちてきません。
戦闘機が飛んでいたりはしないし、徴兵されて戦地に送られるということもありません。体制に反することを言ったり、やったりしても、だれかを傷つけたりしない限り捕まることもありません。

かたちの上では、「言論の自由」が保障され、民主的な社会をつくっています(真実はどうなのかについては異論もありますが、それはまたの機会に)。

でも、こうした目に見えやすい、分かりやすい暴力や支配さえ無くなれば、平和だと言っていいのでしょうか?

暴力があふれる家庭・家族

たとえば前回の「『がんばらなくてもいい!』・・・そんな新しい社会へ(8)」でも書いた通り、日本の家庭・家族には暴力があふれています。

つい先日、厚生労働省が発表した2010年度に全国の児童相談所(児相)が対応した児童虐待の件数は5万5152件で、初めて5万件を突破しました。この20年間に5倍にふくれあがり、前年度より1万件以上増えました。

そこには、虐待死やネグレクトが大きく報道される中で、人々の関心が高まり、SOS通報が増えたということもあるでしょう。しかし、相談の現場にいる者として、子どもへの無関心・子どもという存在が理解できないことによる虐待やネグレクトは確かに増えているという実感があります。

さらにその背景をみれば、安定な仕事にしか就けなかったり、福祉や教育までも、お金で買わなければならなくなったり、将来の見通しが立てられなかったりする社会の中で、多くのおとなが余裕を失い、子どもとの関わりで何が大切なのかが分からなくなってしまっている実態があると思います。(続く…

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日本は、13年連続で年間の自殺者数が3万人を超えるほど、生きていくことが大変な国です。
ここ13年間の自殺者数を合わせると約40万人にも上ります。これはなんと、第二次世界大戦で亡くなった民間人の半分もの数字です。

そして、特定非営利活動法人・自殺対策支援センター・ライフリンクによると、未遂者はその10倍。つまり、毎日1000人もの人が自殺を図っているのが日本の「自殺の現実」だと言います。

さらに同ホームページには、日本の自殺者数は交通事故死者数の5倍以上、自殺死亡率はアメリカの2倍でイギリスの3倍、イラク戦争で亡くなった米兵の10倍とも載っています。

果たして戦争がないからといって、今の日本が平和だと言っていいのでしょうか?


ストレスが高まると虐待者になりやすい

興味深い研究報告があります。日本よりも自殺率の低いイギリスとアメリカで編集された60以上の研究報告書をもとに、虐待の世代間連鎖の発生率を予測したイギリス人のオリバー氏によるものです。

同氏は、子ども時代に虐待を受けた者が親になったときに虐待を行う傾向を報告し、その確率は三分の一に上るとしました。そして、普段は問題ないけれども、精神的ストレスが高まると虐待者となりうる者が三分の一いると見積もりました(『いやされない傷 児童虐待と傷ついていく脳』/Martin H Teicher監修・友田明美著/診断と治療社)。

つまり、多くの人が自殺するような、全自殺者の58%が無職であるような、最も希望に溢れた盛りであるはずの20代・30代の死因1位が自殺であるような、精神的ストレスの高い日本という国で、虐待数が増加するのはいわば当たり前ということです。

子どもをあまり養育しない親

ところで同書は、「母親によく養育されなかったラットは、ストレス脆弱性が生じる上に子どもをあまり養育しない」とも記しています(7ページ)。
このラットの研究結果は、最近、巷を賑わせる子どもをネグレクトや暴力で子どもを殺してしまう親の姿と重なります。

昨今、虐待によって亡くなる0歳児が増えていますが、日本医師会は母親が妊婦健診を受けていないなど、妊娠中に胎児に関心を払わないという事実を指摘しています(『日本経済新聞』2011年2月19日)。

また、子どもを虐待死させてしまった親が、「しつけのつもりだった」と語る場面もよく目にします。

たとえば2010年1月には東京都江戸川区で継父が「素直に謝らないので暴力がエスカレートした。しつけの範疇と思っていた」と小学1年生の男児を死亡させました。そして同年12月には埼玉県でベビーシッターの女性が「しつけの一環で叩いた」と5歳女児を死亡させています。
今年3月には岡山県で高校生の長女の手足を縛って浴室に監禁し、低体温症で死亡させた母親が「いい子に育てるためにしつけていた」と無実を主張しています。

かわいがってもらえなかった者の悲劇

いずれも精神的ストレスの高い社会で、親にきちんとかわいがってもらえないままおとなになってしまった場合の悲劇を感じます。

愛情あふれる養育を受けられなかった彼・彼女たちは、おとはとは違う子どもという無力な存在の特性や特徴に思いをめぐらすことができず、その存在をストレスに感じ、かわいがり方も分からずに、おとなの都合に合わせよることがしつけだと疑わないまま、その幼い命を奪ってしまったのでしょう。(続く…

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こうした報道を目にするたびに、精神的ストレスの高い社会で、養育能力を育めないままに親になってしまった悲劇を感じます。

おそらく愛情あふれる養育を受けられないままにおとなになった彼・彼女たちは、おとはとは違う子どもという無力な存在の特性や特徴に思いをめぐらすことができず、思い通りにならないその存在をストレスに感じ、かわいがり方も分からずに、「おとなの都合に合わせること」がしつけだと疑わないまま、その幼い命を奪ってしまったのでしょう。

おとなが子どもにすることはすべて愛情?

以前、このブログの「『家族』はこわい」の回でも書いたように、そもそも日本社会は「おとなが子どもにすることはすべて愛情である」という考えに毒されています。

その典型が、「『家族』はこわい(4)」で記した裁判長の意見です。

“恐ろしい父”に虐待され、“不幸な母”にネグレクトされた少年が父母を殺害した事件(2005年)の判決で、担当した栃木力裁判長は懲役14年を言い渡し、「それでもご両親なりに愛情を持って育てていたことを分かって欲しい」と語りかけました。

これが日本の“常識”を決める機関であり、正義の砦である司法のスタンダードな考え方なのです。

民法等を改正しても・・・

だから、止まらない虐待の増加に対応するとして、今年5月に行われた民法等改正でも親から子への懲戒権は削除されませんでした。
「しつけもできないという誤解が広がる」などと言うのが、削除に躊躇した人たちの意見です。

改正にともない、かろうじて「子どもの利益のために行使されるもの」との文言が盛り込まれたことを評価する人たちもいますが、「しつけのつもりだった」と虐待する親が少なくない事実を考えれば、この文言が虐待防止にどれほどの効力を発揮できるものなのかは、かなり疑問です。

国連からも追求された懲戒権

この懲戒権については、昨年5月に国連「子どもの権利委員会」(inスイス・ジュネーブ)で行われた子どもの権利条約に基づく第3回日本政府報告書審査では、委員の方から鋭い質問が浴びせられていました。

委員のひとりは「日本には子どもの虐待を容認する法律がある」と指摘したうえで、「しつけと指導と虐待はどう違うのか説明せよ」と、日本政府団に迫りました。

しかし、残念ながら日本政府団からは的確な返事はありませんでした。いえ、「いったいどこの省庁が応えるべきなのか」も分からず、無言になっていたというのが正確でしょう。
政府団の人たちは、お互いに顔を見合わせながらマイクを譲り合うような感じでした。

何しろ懲戒権との関連では法務省、指導との関連では文部科学省、虐待との関連では厚生労働省が管轄。
すべてを包括して「子どもへの対応の在り方」を考え、応えられる仕組みそのものが、日本にはないのです。(続く…

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ところで、この8月、今回の東京電力福島第一原子力発電所事故で放出されたセシウムの量が、広島に投下された原爆の168倍にもなることが報じられました。

これについて経済産業省原子力安全・保安院は、
「原爆は熱線、爆風、中性子線による影響があり、原発事故とは性質が大きく違う。影響を放出量で単純に比較するのは合理的でない」(『朝日新聞』8月27日)
と述べていますが、私のような素人にはその危険性がどの程度のものなのか分かりません。

確かに、ただ単純に「原爆より原発の方が影響が大きい」と言うのはうかつな気もします。

分からないからこそ怖い

でも、
「実際の危険性がどの程度あるのか分からないからこそ怖い」
というのが、原発の影響を大きく受けている地域の方々の思いなのではないでしょうか。

震災後に福島県郡山市を訪れたとき、「子どもたちに集団避難を!」と、郡山市を相手にした仮処分の申し立てについて聞く機会がありました(こちら)。

地元で聞いた話によると、郡山市では、今も1時間に1.02〜1.03マイクロシーベルトの空中放射線量が観測されているそうです。福島県の子どもの約45%に、甲状腺被爆も確認されています。(『朝日新聞』8月18日)

その事実が、今後、どんなふうに健康に影響してくるのかは、現時点では分かりません。国が言うとおり「問題ないレベル」なのかもしれませんし、「あまり問題のない人もいる」のかもしれません。

しかし、事故直後の情報が少ない中で「直ちに影響はない」と連呼した政府や学者たちの意見を信じ、最も放射線量が多かった時期に乳幼児を連れて何時間も外で給水車に並んだという母親に、今さら「国の示す安全基準を信じてください」と言われても、それは難しいように思いました。(続く…

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また、農産物の放射線量を測りもしないで県産のものを給食に出す郡山市教育委員会に対しても、多くの保護者が不信感を抱くのは当然のように感じました。

今、郡山市のほとんどの子どもは給食で出された県産牛乳を拒否しており、弁当を持参している子も多いと言います。

親たちの不信感と失望、そして罪悪感

「何が安全で何が危険か分からない」、「将来、影響が出たらどうやって保障してくれるのだろうか」、「『原発は安全』と言い続け、リスク管理もしてこなかったうえに、大事な情報も“後出し”してくるような国(行政)を信じていいのか」・・・放射線量の高い地域で子育てをしている親たちは、そんな不信と裏切られた失望の中にいました。

そして、結果的に安全神話に乗っかるかたちとなり、子どもに大きなリスクを負わせてしまった親の罪悪感が、住み慣れた土地や学校を離れ、家族バラバラになってまで、「子どもたちの集団疎開を!」という声に結びつき、当事者である子どもたちを不安に駆り立てているように感じました。

「何歳まで生きられますか?」と問う子ども

8月17日には東京・永田町の衆議院議員第一会館で、福島県内に住む小中学生が政府の原子力災害対策本部や文部科学省の担当者らに、直接、次のように訴えかけました。

「私はふつうの子どもを産めますか? 何歳まで生きられますか?」(『朝日新聞』8月18日)

子どもたちにこんなセリフを言わせてしまう日本という国を、本当に「平和な国」と呼んでもいいのでしょうか。「戦争がないから平和なのだ」と、言ってしまっていいのでしょうか。(続く…

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宮城県でも同様の気持ちになりました。

私が訪問した地域は地震と津波の爪痕がくっきりと残る宮城県北部。
そこには原発の影響とはまた違う、震災の影響が色濃く見られまました。

はしゃぐ子どもたち

宮城県では主に学校にある学童保育にお邪魔し、その指導員の方や教育関係者の方にお話を伺いました。

通学途中に出会う子どもたち、学校の入り口ですれ違う子どもたち、学童保育で遊ぶ子どもたち・・・みんな、楽しそうにはしゃいでいました。
子ども同士でじゃれ合い、くったくなく笑う姿を見ていると、まるで何事もなかったかのように思えるほど平和な、日常の風景でした。

学童保育にお邪魔すると、訪問者であるおとな(私)を見つけ、「おやつを分けてあげる」と、無邪気に話しかけてきました。「折り紙しよう!」「切り絵を教えてあげる」と、楽しそうに誘ってきました。

子どもの笑顔の奥に

しかし、そうした子どもたちの笑顔の奥に、命からがら津波から逃げたこと、親や姉弟を失ったこと、家が流されてしまったこと、未だに避難所で暮らしていること・・・。いくつもの恐ろしい体験が横たわっていました。

何も語ろうとしない子どもたちに変わって、おとなたちが教えてくれる子どもの壮絶な体験は、福島での事情とはまた違った意味で筆舌に尽くしがたいものがありました。

驚くほど“いい子”だった

ところが、そんな大変な思いをしたというのに、子どもたちのことを話してくれたおとなたちは口々にこう言いました。

「震災の後、子どもたちはほんとうに驚くほど静かで、“いい子”でした」(続く…

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地震、そして津波からの避難。やっとたどり着いた避難先では、ホッとしたのもつかの間。水は瞬く間に建物の1階を飲み込み、大勢の人々が巻き込まれました。

それを目撃してしまった子もいます。押し寄せる濁流と共に、流れ込んで来た遺体に遭遇したという子もいます。水の難は逃れたものの、冷え切った体で低体温症を起こし、亡くなっていく方を見てしまった子もいます。

しかも停電です。灯りも食べ物も無い暗闇に降り積もる雪。体を寄せ合って暖を取る、親しい人の安否さえ分からない長い夜を子どもたちは過ごしました。

「もう3月だというのに、あの日は午後からものすごく冷え込んで、暗くなるのもものすごく早かった」と、現地の方々は口をそろえました。

率先して働く子ども

それなのに、子どもたちはパニックに陥ることも無く、泣き出すことも無く、とても落ち着いていたのだそうです。

いつもはなかなか言うことを聞かないやんちゃな子まで、きちんとおとなの指示に従い、少ない食べ物を欲しがろうともせず、差し出されるとみんなで分け合って、ただじーっとしていたのだそうです。

そしてライフラインが復旧しないまま避難生活が始まると、おとなよりもずっと率先して水くみをしたり、トイレ掃除をかって出たりしたそうです。また、そうやって、おとなの仕事を手伝う一方、子ども同士で元気に遊んだりもしていたそうです。

そんな子どもをどう見る?

そんな子どもたちの話を、みなさんはどんなふうに感じられたでしょうか。

かねてより「今の子どもたちは戦争も体験せず、経済的にも甘やかされてワガママになった」と発言してきた識者の方々ならば、「やっぱり自制心や道徳心を育てるには苦労が必要なのだ」と言うかもしれません。

「子どもはおとなほど深刻にはならない」と信じている人であれば、「そんな生活をしていても元気に遊び回れるのだから、子どもというのはすごいもんだ」と話すかもしれません。

「子どもは希望だ」とか「子どもはいつでも前向きだ」と考える人であれば、子どものパワーに感嘆するかもしれません。(続く…

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私は、「アルコール依存症家庭で育つ子どもに似ている」と思いました。

災害という子どもにはあらがえない暴力。それがもたらす、先行きの不透明感や構造性の欠如、不測の事態、おとな(親)の無力感・・・そんな日々は、「マクロ」と「ミクロ」の話という違いはありますが、アルコール依存症の家庭をはじめとする機能不全家族の様子と重なります。

アルコール依存の家庭は、暴力、そして非一貫性と予測できない事態で満ちています。

アルコール依存症の家庭では

たとえば、昨日は優しく物静かだった父親が、翌日は朝から酒を飲み、理不尽な要求を突きつけてきたりします。
いつもかいがいしく家族の世話をしてくれている母が、飲んだとたん、その視界にまるで子どもが入らないかのように振る舞ったりします。

今日が平穏だったとしても、明日も同じ状態が続くかはまったく分かりません。ましてや1週間先、1ヶ月先などはとうてい予測することなどできません。

アルコール依存の家庭では、ついさっきまでの平安は、お酒によっていとも簡単に破壊されます。

辛さを語る場のない子ども

子どもはその辛さを語る場を持ちません。

多くの場合、おとな(親)は家庭の問題が世間に知られることを嫌がり、隠そうとします。アルコール依存でない方の親(多くの場合は母親)は、依存症であるパートナーの言動が何よりの関心ごとになっており、変わらない日々の中で無力感に苛まれています。

そんないっぱいいっぱいの母親の状態が痛いほど分かる子どもは、「母親には自分(子ども)を抱え、安心できる生活を提供する余裕などあるはずがない」と、先回りして理解します。

「ここに私(自分)という重荷まで加わったら、大好きな母親が壊れてしまうかもしれない」という恐怖におびえ、「大好きなお母さんにこれ以上の苦労はかけたくない」と、自分の思いを出さないようにしていきます。(続く…