子どもたちよ、もっと怒れ!
前回のブログで「2025年は、日本が子どもの権利条約に基づく国連審査に向け、6回目の日本政府報告書を提出する“はず”の年。それにむけ、何より集めたいのは子ども自身が書く『子ども報告書』」と書きました。
これがなかなか難航しています。
『子ども報告書』難航の理由
ひとつは、子どもたちがめちゃめちゃ忙しくなったこと。第3回の日本政府報告審査に参加した子どもたちとは、渡航費用を稼ぐためにバザーをやったり、長い休みがあるときには合宿したり、だれかのうちに集まって夜な夜な「あーでもない、こーでもない」と雑談交えて話合う、などをやってきました。
が、前回(第4・5回)の子どもたちとはようやく数回の合宿ができただけ。学習会と称して数ヶ月に1度集まって、報告書の内容を深める話し合いをもつことさえままなりませんでした。
忙しい子どもたち
今回(第6回)の子どもたちはさらに忙しくなっています。
現在、どうにか集まれている子たちは小学生。それでも予定を合わせるにはなかなか苦戦しています。
中学生、高校生ともなると、部活に塾に習い事、さまざまな検定試験やらそれらに向けた勉強などが目白押し。「興味があるので行ってみたい」と連絡をくれる子はいるものの、何らかの予定が入ってしまって結局は参加できず、ということを繰り返しています。
怒らない子どもたち
話を聞いていると、親への不満、教師への不満、学校への不満・・・いっぱいあるのに、「じゃ、それを報告書にしてみようよ」と言うと、そこで止まってしまいます。
帰りの会が最短で終わるよう壁にかけたストップウォッチでカウントダウンされること、教師が「気に入らない」と思う子を標的のように攻撃すること、やりたくもない受験にひっぱり回されること・・・どれもこれも変なのに、「先生ガチャは仕方がない」「親ってそういうもの」と、達観している感じです。
自殺や自傷の増加にもつながる
批判したり、反論したり、何かを変えていこうと熱くなるのは「スマートじゃない」という様子も見て取れます。
怒りはとっても大切な感情です。理不尽なことをされたとき、不当に扱われたとき、自分を守らなければいけない状況に追い込まれたときに、不可欠です。
怒りを忘れ、去勢された子どもたちは生きるエネルギーも萎えて行きます。それが、10代の自殺を増加させ、20代の自傷・自殺未遂最多の現状につながっていると思います(『東京新聞』25年2月16日。
そとに向けることができない、表現すること、いや、気づくことさえできなかった怒りは、自分に向かうしかありません。
子どもたちよ、もっと怒れ!