7月18日午前10時半すぎ、京都のアニメ制作会社「京都アニメーション」の第1スタジオから出火し、従業員ら男女34人が死亡、34人が重軽傷を負うという放火殺人事件が起きました。

2016年7月26日に神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」に元同施設職員が侵入し、入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた事件を超える、平成以降最大の犠牲者を出した事件となってしまいました。

 事件以来、スタジオの外に花束を置き、祈りを捧げる人の姿は止まず、被害者や家族を支援するためのネット募金には、数日で160万ドル(約1億7300万円)以上が集まったと言います。 

 各種報道では、一丸となって数々の名作を残してきたスタッフの尊い命が奪われたことを惜しみ、日本中から、いえ海外からも、亡くなった方々を悼み、アニメ界に与える打撃の大きさが語られています。

薄っぺらな印象論だけが先走っている
 
 この事件でガソリンをまいて放火した疑いのある41歳の男性(容疑者)は、近くの路上で手足や胸をやけどした状態で逮捕され、病院に搬送されました。
 その際、「パクりやがって」と言ったり、「小説を盗まれたから放火した」という趣旨の説明をしたことが報道されるも、「京都アニメーション」(同社)と関係は無く、アニメ会社の八田英明社長は「容疑者が小説を応募して来たことはない」と話しています。
 容疑者は何らかの理由で逆恨みの感情を抱いていたのではないかとも言われていますが、本人が重体ということもあり動機はいまだ闇の中です。

 そうしたなか、容疑者が2012年には茨城県坂東市でコンビニエンスストアに押し入り現金を奪ったとして強盗などの疑いで逮捕・起訴され懲役3年6か月の実刑判決を受けていたこと。生活保護を受けていて、精神的な疾患があるため訪問看護を受けたこともあったこと。大きな音を出したりして隣家の男性とトラブルになったり、警察が対応したこともあったことなどが報じられています。

「親戚」や「かつての同級生」や「刑務所仲間」などの「〜だった気がする」「〜な感じがした」などの薄っぺらい印象論だけが先走っています。

20リットルの携行缶二つ分の恨み

京都アニメーション放火事件に思う

 そんな印象論を鵜呑みにしての発言は控えなければなりませんが、ひとつ言えるのは、容疑者がまいたという「20リットルの携行缶二つ分の恨み」とは相当大きなものだということです。

 事件以前、容疑者は「失うものはない」「余裕が無いんだ」などと言っていたとの話もあります。「いったいどれだけたくさんのものを奪われ、恨みをため込んできた人生だったのだろう」と、彼の41年間について思いを巡らしました。

 よほど「多くのものを奪われた」という感覚がなければ、世界中の人々に夢と希望を与えてきたアニメ会社を破壊し、人から心の支えを奪うなどというマネはできるはずがありません。

ぜひ生い立ちや動機の解明を

 このブログのトップページにも書いたように、私たちはだれもが星屑に過ぎません。

 私も、容疑者も同じです。宇宙のチリとして消えて行くしかないちっぽけな星屑が、「自分は唯一無二の存在」と感じられるためには、チリに過ぎない自分を「かけがえのない者」として受け入れてくれる他者が必要です。

 容疑者の人生のなかにそんなだれかが一人でもいたのかどうか・・・。二度とこんな不幸な事件を繰り返さないために、ていねいな捜査や裁判、何よりも、容疑者が「語ってもいい」と思える環境をつくることによって、その生い立ちや動機をぜひ解明して欲しいと思います。

あおり運転

 2019年8月10日に茨城県の常磐自動車道で起きた「あおり運転事件」が連日、ニュースやワイドショーで取り上げられています。
 容疑者の男性(容疑者)は、「あおり運転」をして車を停止させ、運転手の男性を殴って負傷させた傷害事件として全国に指名手配されました。そして18日、容疑者をかくまったとされる女性とともに茨城県警に逮捕されました。

私も車を運転するので、自分勝手な運転にひやっとさせられたり、割り込まれていらっとした経験は多々あります。今回の容疑者の取った行為が、あおり運転の果てに相手の運転手を何度も殴るなど、身勝手極まりないものであることも明らかです。

 しかしそうは言っても、社会を震撼させるほどの大事件とは言えません。それにも関わらず、なぜこんなにも注目されることになったのでしょうか。


注目された要因は? 

 その要因のひとつは事件映像がきちんと記録されていたため、テレビや動画で何度も配信された結果、人々が繰り返し目にする機会が多かったということが言えるでしょう。

 一度なら「理不尽だなぁ」と思いつつも忘れてしまったかもしれない出来事が、二度、三度と繰り返し目にすることで容疑者や理不尽な行為への憤りがたびたび喚起され、「忘れられない大事件」へとなっていったのではないでしょうか。

 ふたつめは、SNSの存在です。映像を見て怒りに駆られた人々の一部が、容疑者とおぼしき人たちのインスタグラム等を発見し、そのコメント欄に恐ろしいまでの罵しりのコメントを書き込み、拡散していきました。
 この過程で、まったく無関係の人物が容疑者をかくまった女生と間違われ、名誉を毀損されるという騒ぎも起きました。

「特定班」の存在

特定班

 SNSにうとい私は始めて知ったのですが、世の中には「特定班」と通称される、犯罪者などの個人情報を暴き立て、インターネット上で平気で公開する恐ろしい人々がいるのだそうです。

 その主な手法や危険性については、「ウレぴあ総研」のサイトをご参照いただければと思うのですが、その情熱たるやすさまじいものがあります。

 会ったこともない、直接的な被害を受けたわけでもない他人をここまで憎み、追いつめようというエネルギーはいったいどこから来るのか・・・。

 今回の事件で、私が恐ろしく感じたのは、こうした人々の負のエネルギーと、それをあおるマスコミ。そして、マスコミに提供された場を使って、感情のままに容疑者を罵倒する芸能人やそれに類するコメンテーターたちでした。

「あおり運転男」に怒る理由

リポーター

 こうした熱狂を分析した興味深い記事がありました。

PRESIDENT Online』の「なぜ日本中が「あおり運転男」に怒っているのか」を書いた文筆家の御田寺圭氏の寄稿です。

 御田寺氏は、ネット上の「厳罰に処すべき」などのコメントについて、同記事中で「『メディアで注目され、世間のより多くの怒りを集めた事件なのだから、厳罰に処するべき』という論理は、法治国家ではなく人治主義のそれに接近していく」と警鐘を鳴らしています。

 そのうえで次のように述べています。
「だれもが無遠慮に罵倒し、石を投げてもよい存在が世間にはいつでも求められている。なぜなら『ただしくない』存在を規定し、これを糾弾・非難することによって、自分の『ただしさ』が保証されるからだ。自分のただしさを確認してくれる証人は多ければ多いほどよい。世間のだれもが糾弾する『悪』を、みんなで一斉に制裁することによって、その場に参加する全員が『自分はちゃんとして生きている側なのだ』という肯定や安心を手にすることができる」(同記事)

暴挙には「正しい」という大義名分が必要

 なるほど、その通りかもしれません。
 過去を振り返っても、戦争や土地の略奪や政敵の粛正などの暴挙には、必ず「我々は正しい」という大義名分がありました。

 私たちは、多くの命を奪っても、人々を住み慣れた土地から追いやっても、国民を危険にさらしても、「正しい目的のためだからやってよいのだ」と、思い込むことで、大切な側面からは目を背けるということを繰り返してきました。
 
 そうした大衆心理が規範意識の醸成や治安維持に使われ、結果的に一部の権力者を暴走させるという悲劇を生んだという歴史に学ぶことは少なかったと言わざるを得ません。

なぜ「自分は正しい側」と確認したい?

 ではなぜ今、ここまで「自分は正しい側にいる」ことを確認したい不安な人が増えているのでしょうか。

 SNSの発達等を超えて、多くの人々がなぜそこまで不安を抱えており、不満や不安をぶつける対象を必要としているのか。
 その“もと”になっているもの何なのかということがとても気になります。

不満

 もしかしたら、多くの人々が抱える「自分が依拠しているこの社会の在り方は『正しくない』のではないか」という無意識下に抑圧された不安の現れなのではないでしょうか。

 何しろ私たちは、経済格差の問題や相対的貧困の問題が指摘され、「年金2000万円不足問題」に象徴されるほど、先行きが見えない社会に生きています。

「ワークライフバランス」だとか、「働き方改革」などの目標は掲げられていても、その恩恵に浴せる人はほんの一部です。


理不尽な社会で

 一生懸命努力しても、身を粉にして働いても、「日々食べて行くのがやっと」の人が大勢います。理不尽さを感じていても不思議はありません。

 病気など、何らかの理由で働けなくなったらどうなるのかという不安を抱え、一部の人たちに富が集中するの経済システムに疑問を持ちながらも、その歯車としてしか生きれない自分。
 力ある者に刃向かっても不利益を被るばかりの社会のなかで、それらを「自らの能力のせい」と思い込まむことでなんとかバランスを取ってることも少なくないでしょう。

 そんなふうに生きざるを得ない社会に無意識に不満を持つことは当然のことなのではないでしょうか。

溜飲を下げることができる

 私も、そんなことを漫然と感じながらも、その社会に従って生きています。社会を飛び出すような勇気も無く、社会に逆らって生きられるほどの才能も無いことが分かっているからです。

 だから社会を維持するために設けられた治安や規範を守り、乱さないよう自制し、周囲の顔色をうかがって日々を過ごしています。人から後ろ指を指されることがないよう、枠組みからはみ出さないように、波風を立てずに生きています。

 こうした閉塞感があるからこそ、それを守ろうとしない者に過剰反応してしまう気がします。「正しい」と信じようとしているものを壊そうとする者に不安を持つような気がするのです。

 だから対象となった者は、悪としてとことん攻撃され、非難され、糾弾されて、社会から抹殺される必要があります。集団で容疑者を袋だたきにするというような「全体性」も大事になります。
 
「みんながそうしているんだから」と思うことで、「自分の正しさ」や「我慢」は報われ、無意識下にある疑問にはふたをして、わずかでも溜飲を下げることができます。

一時の不安解消に過ぎない

しかしそれは一時のことです。前回のブログでご紹介した御田寺氏も、『PRESIDENT Online』で次のように指摘しています。

「皮肉としか言いようがないが、『悪』をみんなで叩き潰し世直しをすれば一時は安心できるが、しかしかえって自分が『ただしい側』にいるのかどうか不安が強まり、その不安を打ち消すためにますます『悪』とされる存在を追い求めるようになる」

スケープゴート

 不満や不安をぶつけるスケープゴートを探し、一時の感情をぶつける。その対象をつるし上げにして黙らせることで安心し、「一件落着」を図る。

 こうした方法は、己の私利私欲を満たすために社会を一定の方向へと動かそうとする人々の“思うつぼ”にはまるだけではありません。危険因子を排除したつもりでいて、実は社会をさらなる危険へとさらしてしまう可能性があります。


過去に逮捕されていた容疑者

「あおり運転事件」について、友人が『FNN PRIME』に載っている、かつて容疑者を乗せたことがあるタクシー運転手の告白の記事を送ってくれました。
 容疑者は2018年3月にタクシー運転手を監禁した疑いで京都府警に逮捕されており、このタクシー運転手は、その被害者に当たる方だそうです。

 記事によると容疑者は、「高速道路に乗ると、大阪環状線をまず2周するよう指示し、異様な様子を見せ始めた」として、次のようなタクシー運転手の証言を載せています。

「抜いてくる車が幅寄せしてきてるとかこっち見てたとか、妄想でしかないですね。誰も何もしてないので…。自分で110番に電話して、こういうふうなことされている(車に)囲まれている、5台6台。怖いからはよ来て守ってくれとか、そういう言い方するんですね」

自ら110番通報した容疑者は、通り過ぎる車のナンバーをメモしていたものの、警察が急行する前に高速から降りるように指示し、大阪市中央区西心斎橋にあるアメリカ村の三角公園に向かうよう指示。そして「とりあえず12周まわれと。何で12周なのか分からないですけど」(タクシー運転手)と言ったそうです。
 約20カ所におよぶ行き先変更を繰り返し、乗車時間は12時間を超えていたとか。

治療につなぐという選択肢も

 ここから推測できることは、容疑者が何らかの大きな不安を抱え、過剰な防衛をせずにはいられない状況に長い間、置かれていたということです。

 もしかしたら今回の「あおり運転事件」も、容疑者からすれば自身が脅かされるほどの脅威を感じ、駆り立てられるように被害者を追わざるを得ず、身勝手な殴打も「やられる前にやるしかない」という心境だったかもしれません。

 推論を重ねることは控えますが、ただひとつ言えることは、「一度、逮捕されていたのなら、そのときに容疑者の置かれた状況や精神状態をきちんと調べ、適切な治療につなげるという選択肢もあったかもしれない」ということです。

大きな悲劇を予防するために
 
 過去に何度も書いていることですが、「なぜ、容疑者は犯罪を犯したのか」をきちんと考え、その背景を知り、容疑者の気持ちに向き合うことは次に起きる大きな事件の予防になります。

「犯罪者のつるし上げと排除にのみ終始することは、何の罪もない人を巻き込むもっと大きな悲劇を招くことにもなり得るという視点が必要だ」と強く主張したいと思います。

お正月が明けると、受験本番シーズンです。毎年この時期は、受験にまつわるニュースにことかきません。

今年は衝撃的な事件が立て続けにおきました。1月15日に実施された大学入学共通テストを巡る事件が、世間に衝撃を与えています。

ひとつは、試験問題を撮影した画像が試験中に外部へ流出した事件です。その後、大阪在住の大学1年生である19歳の女性が香川県警に出頭。女性は、「スマートフォンを上着の袖に隠して試験問題を撮影した」そうです。

報道によると、女性は「東京の大学を目指していたが、受かる自信がなくカンニングした」「成績が上がらず魔が差した」などと話しているそうです。


「事件を起こして死のうと思った」

もうひとつは、やはり1月15日に起きた事件。東京大学弥生キャンパス前で、大学入学共通テストの受験生ら3人が刺された事件です。

殺人未遂容疑で逮捕された名古屋市の私立高校2年生(17歳)は、

「医者になるために東大を目指して勉強していたが、成績が1年前から上がらず自信がなくなった」「事件を起こして死のうと思った」と供述しているそうです(『東京新聞』22年1月26日)。

同記事には「勉強はできるはずで成績に悩むようには思えなかった」という同級生のコメントも載っていました。

成績が振るわないというわけではなく、しかも受験まではまだ1年もある、というなかでの犯行でした。

多様性を失った競争社会で

刺殺事件についてとりあげた『東京新聞』(22年1月22日)の記事中で、少年鑑別所で勤務経験のある東京未来大学教授・出口保行さん(犯罪心理学)は、この破壊的な行為について次のように話しています。

「東大などの社会的な評価を意識しすぎて、罪を犯せば捕まるリスクと人生を台無しにするコストを考えることができなくなってしまったのではないか」

確かにメリットとデメリットの計算は合っていません。「他人の評価」など捨ててしまえば、どれだけ楽に生きられただろう、とも感じます。

「多様性」だの「ダイバーシティ」だのという言葉が日常的に用いられて久しくなりましたが、言葉だけが一人歩きし、現実は後退しているように思えます。

どちらの事件の容疑者も、そんな多様性を失い、競争に駆り立てる社会の犠牲者です。

私たちは、自分の生命が脅かされたとき、防衛のための手段を取ります。最もポピュラーな方法は、「逃走」(逃げる)です。

草原でオオカミに出会った羊は、あらゆる神経を集中させて逃げます。そうして生き延びる道を探すのです。

「窮鼠猫を噛む」

しかし、逃げることに絶望し、逃げる道が完全に絶たれたときは違います。
本来は勝てるはずもない相手に対し、攻撃をしかけます。文字通り、命を賭けた大ばくちに出るのです。

「窮鼠猫を噛む」です。

殺人未遂容疑で逮捕された高校2年生は、まさにそんな状況まで追い詰められていたのではないかと思えて仕方がありません。彼には、「受験をしない」という選択肢などあり得なかったのではないでしょうか。


防衛的反作用

敬愛するE・フロムは『破壊 人間性の解剖』(作田啓一/佐野哲郎 訳・紀伊國屋書店)のなかで、こんなふうに書いています。

「攻撃活動を引き起こす条件のすべてに共通しているのは、それらが死活の利害への脅威となっていることである。個体や種の生存への脅威に対する反応として、対応する脳の諸領域において、生命を守るための攻撃の動員が行われる。つまり、系統発生的に計画された攻撃が動物や人間に存在する場合、それは生物学的に適応した、防衛的反作用なのである」(150ページ)

東大合格は死活問題?

容疑者の高校生は、中学の卒業文集に「勉強」というタイトルの作文を載せ、「(勉強が)ときに自分を苦しめた」と書いています。
そして、自分の努力の原動力を「順位」「ライバル意識」と書き、将来の自分に向けた悦の文章には「競争に勝て」「上に進む」といった言葉が並んでいたといいます(『東京新聞』22年1月22日)。

高校生がどんな生育歴を持つのはも分からないなかでは、何も明確なことは言えません。しかし、上記のような考えを持ち、「東大に入ろうとする人を殺(攻撃)し、自分も死のう(破壊しよう)と思った」という供述からは、分かるのは、高校生にとって東大合格はまさに死活問題だったということです。

自分への懲罰

もしそうであるならば、望みがかなわないなら、自分をそんな目に遭わせた対象を破壊するか、期待に応えられない=存在価値の無い自分を破壊するしか無いと考えたしても不思議はありません。

もしかしたら、「東大に入れないダメな自分」が許せず、自分を罰したかったのではないかとも思えます。
摂食障害の人たちが万引きをし、たびたび捕まるというサイクルを繰り返すように。

果たして特殊な子どもか?

この高校生は果たして特殊な子どもでしょうか。何か極端な思想や発達の問題を抱えていたのでしょうか。
私にはそうは思えません。

ここまでとは言わなくても、多かれ少なかれ、同様の思いを抱いている子どもはかなりの数になるのではないでしょうか。

今の社会ではこうした「上昇志向」や「競争精神」を小さな頃から植え付けられて育っています。

たとえ言葉で言われなくても、いくつもの習い事に通わされ、そのなかで優劣を付けられることが当たり前になり、学齢期が近づけば受験という“ふるい”が待っています。
「人生はやり直しがきかない。“ふるい”にしがみついて結果を出さなければ、ろくな将来は望めない」
と脅されます。


“期待”は“失望”とセット

確かに半分は本当ですが、半分は嘘です。受験や学歴が与えてくれる豊かさは、人生のほんの一握りに過ぎないし、生きている限り、やり直しがきかない人生など無いのです。

しかし純粋な子どもにはわかりません。自分を愛し、育ててくれる親が、先生が、社会がそういうのだから、「本当に違いない」と思い、育ちます。

なまじか優秀だったりしたら、さらに悲劇です。“期待”という重荷がべったりと背中に張り付きます。しかもこの“期待”は、“失望”とセットだったりします。背負った子どもは、大好きな親や先生を失望させまいと頑張ります。

“期待”に応えられない自分など存在価値がありませんから、それはもう死にもの狂いです。コストだのリスクだのを考える理性はすっ飛んでしまいます。

子どもたちの苦しさに目を向けて

試験場の警備強化や、カンニングの取り締まりに精を出す前に、人生を台無しにしてまでリスクをおかした子どもたちの苦しさに目を向けるべきです。

息苦しい世界で、恨みや恐れを育てているのはけっして少数の子どもたちでは無いことに、早く気付いて欲しいと思います。

先日の参議院選挙の応援演説中に銃撃され亡くなった安倍晋三元総理大臣の葬儀を「国葬」として執り行うそうです。

異例の早さで、岸田文雄首相が決定しました。

おごった政権

「安倍一強」のなかで、財務省による公文書の改ざん、防衛省による日報の隠蔽、森友・加計の両学園疑惑や桜を見る会の尻切れトンボの幕引き、集団的自衛権の一部行使を容認する「安全保障関連法」の強行採決等々、挙げればキリがありません。

今回、改めて調べてみたら、あまりにも安倍政権時代の疑惑や不正が多すぎて、すっかり忘れていたこともありました。

ちょっと振り返っただけでも、まさに思うままに国政を牛耳り、したい放題、傍若無人なおごった政権だった痕跡がわんさか出てきました。

アベノミクスが残したもの

自民党がいまだ「成功だった」と言ってはばからないアベノミクスも、とんでもない代物でした。

確かに企業の「経常利益」は48兆4000億円(2012年度)から過去最高の83兆9000億円(2018年度)に拡大するなど(『BUSINESS INSIDER』2020年8月24日)、企業利益は拡大し、経済成長は遂げたかもしれません。

しかし、同記事によると所得の分布状況では平均所得金額以下の世帯は60.8%(2012年)から61.1%(2018年)になり、貧富の差は縮まらず、わずかかもしれませんが開いています。

耳を疑う発言

そんな世の中をつくった安倍元首相を「国葬」すると言うのです。

岸田首相は、最長期間首相を務めたことや、重要な実績をあげたこと、国内外から哀悼の意が寄せられていることなどを理由にしました。
さらには、「安倍元首相を追悼するとともに、わが国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜く」とその意義を語りました(『東京新聞』22年7月14日)。

まさに耳を疑う発言です。

『国葬の成立 明治国家と「功臣」の死』(勉誠出版)の著者である中央大学文学部の宮間純一教授は
「不当な暴力で亡くなったからといって、安倍元首相を国葬にすることがどうして民主主義を守ることになるのか。私の理解では、国葬はむしろ民主主義とは相いれない制度である」
『PRESIDENT Online』2022年7月19日
と、岸田首相の発言を疑問視しています。

同記事の中で宮間教授は、「不平士族の手にかかって落命したことで、反政府活動が活発化することを恐れた伊藤博文らが、政府に逆らう者は天皇の意思に逆らう者であることを明確にし、政権を強化しようとした」と1878年に国葬に準ずる規模で催された大久保利通の葬儀を紹介し、今回の「国葬」も同様の意味があるのではないかと指摘します。

なんとも恐ろしいことです。

「国葬」で「良かった」5割

しかし第1次・第2次安倍政権の3188日という憲政史上最長の通算在任日数で、保守の牙城をつくりあげ、徹底的な競争と自己責任の社会を浸透させた安倍元首相のおかげで、こうした動きを危惧する声はほとんど聞かれません。

『FNNプライムオンライン』(22年7月25日)では、国葬を行うことについて「よかった」と答えた人は、「どちらかと言えば」をあわせて50.1%。世代別に見ると、若い世代は「よかった」が多く、年齢が上がるにつれ、「よくなかった」が多くなりました

若者の保守化が進んでいることは分かっていましたが、この数字にはやはり、驚きというか、残念さを隠しきれませんでした。

孤独で哀れな青年が起こした事件

今回の安倍元首相殺害のどこが、「言論への弾圧」であり、「民主主義への挑戦」なのでしょうか。

私には、「統一教会という宗教のために家族と人生を狂わされた」と信じた孤独で哀れな個人の逆恨みと呼んだ方がいいように感じます。

逮捕された容疑者の取り調べはまだまだこれから。まだ分かっていない真実や、表沙汰にされていない事実もたくさんあることでしょう。

残酷な結果

でもやはり私には、彼は、母親の愛を求めたひとりの寂しい青年に過ぎなかった気がしてなりません。

そんな印象を強く持ったのは、事件後の母親の「旧統一教会に迷惑をかけて申し訳ない」(『NHK NEWS WEB』2022年7月22日)というコメントでした。

息子が命をかけて質そうとした母親の愛、「自分の思いを分かって欲しい」という究極のメッセージさえも否定し、統一教会への謝罪を母親は述べたのです。これほど残酷な結果があるでしょうか。

そんな青年を利用し、保守勢力は憲法改正に大手をかけようとしています。

青年の命と人生をかけた結果がこれだったとしたら・・・どうにもやりきれない思いです。