22年7月26日、秋葉原殺傷事件で死刑が確定していた加藤智大死刑囚の死刑が執行されました。

秋葉原殺傷事件は2008年6月に起きました。同死刑囚がトラックで赤信号を無視して歩行者天国に突っ込み、何ら関係の無い通行人5人を次々とはねた上、降車して通行人や警察官ら17人を次々とナイフで刺したのです。7人が死亡、10人が重軽傷を負いました。

当時、同死刑囚の唯一の居場所であったインターネット上の掲示板が、なりすましなどの「荒らし」に遭ったことが、犯行に至る引き金になったと言われています。

実際、一審では「家族はいないし、仕事は辞めてしまったし、職場の友人関係もこれで終わりだと思っていた。居場所がなくなったと考えた」と動機を語っていました(『東京新聞』22年7月27日)。

「だれかを殺して死刑になりたい」

自暴自棄になって見ず知らずの人を巻き込み、自らを葬り去ろうとする「拡大自殺」。2021年10月には「二人以上を殺して死刑になりたかった」(前出の記事)と東京の京王線内で乗客が刺傷される事件がありました。

つい最近(2022年7月7日)では、仙台市内の路上で女子中学生2人を切りつけた男性(43歳)が「刑務所に入りたかった」と供述しています。また、それから10日後の7月17日に福岡の商業施設で男子中学生の首を切りつけた女性(32歳)は、「子どもを殺せば死刑になると思った」と述べています。

救いようの無い深い孤独と絶望

これらが「身勝手な犯行」であることは、紛れも無い事実です。決して許されることではありません。

しかし、そう思う一方で、「だれでもいいから」と道連れになる人を探し、「人生と命を終わらせたい」というところまで追い込まれた、容疑者の絶望感がひしひしと胸に迫ります。
「許す」とか「許さない」という話ではなく、その救いようのない孤独感に圧倒されるのです。

自分で自分のすべてをぶち壊してまで犯行に及ぶ、そんな彼・彼女らの人生とはいったいどのようなものだったのかと、考え込まずにはいられません。

前回、ブログで書いた安倍晋三元首相の襲撃事件の容疑者にしても、秋葉原殺傷事件の死刑囚にしても、その生い立ちが人生に与える影響の大きさです。

もっと端的に言えば、親の影響、というのでしょうか。

教育虐待の犠牲者

加藤死刑囚は、いわゆる教育虐待の犠牲者でもありました。死刑執行後、SNS上で同情の声も広がっています。

同死刑囚は逮捕後、次のように語っていました(『デイリー新潮』22年7月29日)。

「(詩や作文は)私が書いたものではなく、母親が手を入れたり、母親がほとんどやったりして、私の名前で出した」

「小学校に来ていく服はすべて母親に決められていた」

「高校は自分の希望を変更し、母親の母校に進学」「あの子と付き合うのは止めなさいと、交際を禁止された」

祖母が語った子ども時代

同死刑囚の祖母は、その子ども時代について「幼い頃のあの子は率直ないい子だったんです。でも、両親がスパルタでね。トモがニコニコしていると父親が『締まりのない顔をするな!』と怒鳴る」(『FRIDAY DIGITAL』22年7月26日)とも話しています。

記事の中には、見ることが許されたテレビ番組は『ドラえもん』と『日本昔ばなし』だけであったり勉強ができないと風呂に沈められたこともあったなどのエピソードも載っていました。

彼もまた、結局は親への恨みや親への期待から逃れることができず、人生を破綻させた、「親に人生を支配された人たち」だったのではないでしょうか。

親殺し、とくに母親殺しの大事さを説いたのは分析心理学を創設したユングでした。

ユングが言う「母なる存在」とは、二つの面を持っています。ひとつは、「産み・育て・抱擁し慈しむ母」。もうひとつは、「子を呑み込み、抱きしめて殺す(圧死させる)母」です。

母親は、子どもを愛し、自らを捧げて、その成長を助けます。その一方で、子どもを自分の所有物のように感じ、「子にとって良かれ」との思いで、自らの思い通りに育てようとし、過度に干渉・保護し、子どもの力を削いでしまうこともあります。

母親側が、こうした子どものためにならない関わりに気付き、子離れしたり、父親が子どもと母親の関係性を断ち切る役割を果たせればよいですが、うまくいかないこともあります。

そうしたときには、子どもの側がちゃんと「母親を殺せるか」がとくに重要になります。

「母親殺し」とは母親からの自立

ここでいう「母親殺し」とは、もちろん、実際に母親を殺すということではありません。

精神的な意味での母親からの脱却、母親からの自立。つまり、子どもの心理的な成長(母親離れ)です。

抱きしめよう(支配しよう)とする母親の手を振り払い、「こうあって欲しい」という母親幻想から抜け出すこと、と言ってもいいでしょう。

違う生き方も出来たはず

あんなに偉大に見え、愛されたいと願った母親は、「結局のところ、神でも聖母マリアでも無い、つまらない人間に過ぎない」と、諦めることができたなら。親からの無償の愛や、親の期待に添えない罪悪感から抜け出すことができたなら。

彼らは、もっと違う生き方が出来たのでは無いでしょうか。そうすれば、彼らによって命を絶たれる人たちもいませんでした。

本当の償いとは

残念なことに、加藤死刑囚は、多くを語れないままこの世を去りました。

安倍元首相襲撃事件の容疑者には、ぜひ、彼の思いや人生について、話して欲しいと思います。そして、二度とこんな事件が起きないよう、その引き金や抑止力となるのは何かを私たちに教えて欲しいと思います。

それこそが、本当の意味での償いなのではないでしょうか。

2023年3月1日の昼間、埼玉県戸田市の中学校にナイフを持った17歳の少年が侵入し、男性教員を傷つける事件が起こりました。

殺人未遂容疑で現行犯逮捕された少年は、「だれでもいいから人を殺したいと思った」と話しているそうです。
また、戸田市の隣にあるさいたま市では猫の死骸が校庭や公園に放置される事件が2月に5件起きていて、少年は「自分が殺した」とも供述しているとか。


10代の自殺が最多

いったいどうして、「だれでもいいから人を殺したい」と思うようになったのか。どんな気持ちで猫を殺害していたのか。どうして試験が行われている中学校にあえてナイフを持って侵入したのか。
これからの報道を注視していかなければ、なんとも言えません。

が、なぜかこの日、事件後に目にした「22年に自殺した小中高生は512人で、はじめて500人を超え、最多になる見通し」というニュースが気になりました(『毎日新聞』23年3月1日夕刊)。

文部科学省によると、近年は学業不振や入学試験の悩みを理由にした自殺が増えており、内訳を見ると男子高校生の自殺が増加しているそうです。ちょうど、事件を起こした少年と同世代です。

自己破壊と他者破壊の根は同じ

精神分析医のカール・メニンジャーは著書『己に背くもの』で、自己破壊の衝動は、他者破壊の衝動と同じものだと指摘しています。

その源は、「自分など生まれてこなければよかった」という確信で、その絶望と恨みの恐ろしさを私たちに突きつけた事件はたくさんあります。

たとえば、子ども8人が殺害、教員ふたりを含む15名が負傷した大阪教育大付属池田小事件(2001年)や、7人が死亡、10人が負傷した秋葉原殺傷事件(2008年)の犯人はその典型でした。
いずれも、自分の人生に嫌気がさし、自暴自棄に陥ったあげく、他者を道連れにしようとしての犯行でした。

こうした自己破壊の衝動を本人は意識できません。気づかないうちに、いわゆる無意識下で生まれ、問題行動、反社会的行動として表面化するのです。

問題行動、反社会的行動のバリエーションはさまざまです。

刃物を持って人を切りつける“事件”のようなかたちもあり得るし、自殺という方法もあり得ます。そこまで行かなくとも、いじめや過度のゲーム依存などによって顕在化することもあります。

こうした行動を止めるためには、表面的に見えるその言動に注目するのではなく、その子どもの心の中に深く醸成された自己破壊衝動をどうにかするしかありません。

3月1日の事件後、防犯ジャーナリストなる人が、事件を防ぐ方法として、容易に外部の人間が入れないようセキュリティを強化するとか、監視カメラを駆使するなどの話をしていましたが、まったくの筋違いです。

壁を高く、鍵を頑丈にしても、またそれを破って事件を起こす人間が増えるだけでしょう。ただのいたちごっこにすぎません。


対症療法ではなく

そんな対症療法ではなく、今の日本の子どもたちの根底にある、「自分は生まれてくる価値の無い人間だった」という思いをどうにかしなければなりません。

事件を起こした少年は「だれでもよかった」と言いながら、なぜ学校を、それもテスト中の学校を狙ったのか。自殺をする10代はなぜ高校生の男子に多いのか。

個別のケースについて明言はできませんが、そこには国連からも4度にわたって見直すよう勧告されている日本の競争主義的な教育と、4回目の勧告が指摘した競争社会の問題があるように思えてなりません。

自己破壊衝動を育てるもの

「子どものため」と言いながら、良い成績を取ることばかりを強要する親。よい結果が出せないと「お前はだめだ」と言う親。言葉には出さなくても、態度や雰囲気で親が現す失望感や期待外れという空気を子どもは見逃しません。

それは子どもの心に中に「自分は愛されていない」「自分は必要とされていない存在なのだ」という自己破壊衝動の芽を生み、競争主義的な教育制度という養分を糧に育っていきます。

残念な事件

3月1日の事件を起こした少年が殺人未遂で逮捕される前に、そんな少年の悲しみや切なさを気づくおとなはいなかったのでしょうか。

せめて猫を殺しているときに、そうせざるを得ない少年の辛さをだれかが気づいてあげられなかったのか。

本当に残念でなりません。