image060627.jpg 児童虐待がクローズアップされるなかで、虐待(不適切な養育)を受けた子どものトラウマや虐待の世代間連鎖などの研究が進み、アタッチメント(愛着)という概念が再び注目されています。

健全なアタッチメントが形成されることにより、子どもは「自分は愛され、保護されている」と感じ「外界は安全なもの」ととらえることができます。こうした健全なアタッチメントの形成には、いつでも自分に目を配り、自分の気持ちに寄り添ってくれ、自分の欲求に応えてくれる養育者の存在が不可欠です。


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不幸にもそのような養育者に巡り会うことができず、健全なアタッチメントが形成されなかったとき、子どもは安心感を持つことが出来ません。
外界は恐怖に満ちた場所となり、端から見ればなんということはない小さな刺激にも過敏に反応するようになります。「守られている」感覚がないので自分で自分を守ろうとするため、いつでも臨戦態勢を取らざるを得ないのです。今どきの言葉で言えば、「キレやすい」ということです。

6月20日に奈良県田原本町で高校生1年生の長男が自宅に放火し、継母と弟妹の三人を殺してしまうという事件が起きました。
報道によると、長男の家は近所でも評判の教育熱心な家庭でした。勉強部屋をICU(集中治療室)と呼んでいた父親は、長男が小学校の頃から夜遅くまで勉強を教え、成績が下がると殴ることもありました。

事件は、継母が成績表を受け取る予定だった保護者会の日に起こりました。英語の試験のできばえを偽っていた長男は、母親が保護者会に出席すれば父親に嘘がばれてしまうことを恐れていたそうです。母親が父親に何でも告げ口する人だったということも、一因だったのでしょう。母親の告げ口が原因で父親に殴られたこともあったそうですから。
そのような家のなかで、はたして長男は「守られている」感覚を育てられたでしょうか?(続く…

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中1の頃は母親に反抗したこともあったけれど、中3になってからの母子関係は悪くなかったとの報道も気になります。
思春期の反抗は、おとなになるために必要なものです。そうやって親や社会の価値を壊し、自分らしさを確立していきます。おとな側からみれば許し難い反乱である反抗も、子どもにとっては成長のステップです。

何を言っても聞こうとしない両親、怒っても、暴れても、自分の気持ちに気づこうとせず、力で押さえ込もうとする両親に反抗することさえ「諦め」たとき、長男の心にはどんな思いが渦巻いていたのでしょうか。

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けれども、両親だけを責めてもことは解決しません。なぜ父親は、ここまで長男を追い込んでしまったのでしょう。どうして忙しい医師という仕事をしながら、真夜中まで付きっきりで勉強させ、成績が下がれば殴る必要があったのでしょう。継母が最近ふさぎ込んでいた長男の辛さに気づいてあげられなかったのはなぜなのでしょうか。

多くの親がそうであるように、おそらくこの父親も長男が生まれたときは喜でいっばいになったことでしょう。生まれたての子どもが持つ、あふれるばかりの生命力と可能性に心を躍らせ、出来る限りの愛情を注いで“立派な人間”に育てたいと思ったのではないでしょうか。

世間様から後ろ指をさされることのない“立派な人間”。・・・頭が良く、肉体的にも優れ、規範意識を身につけた人間。そんな人間になって欲しいと父親は望み、継母もまたそう思っていたのではないでしょうか。

進学校に通い、サッカーが上手で、小学校時代の作文で「戦争とは、永久にしてはいけないもの」「病気や飢えで苦しむ世界の人たちを助けるために医者になりたい」と書いた長男は、そんな両親の望むとおりの人間になろうと賢明に頑張ってきたに違いありません。

もしかしたら、日本社会の価値観をすっかり取り込んでいた両親は「愛情とは、みんなに一目おかれ、社会のルールに従うことができ、社会に役立つ人間に育ててあげること」と思っていたのかもしれません。教育基本法「改正」論者たちが言うように・・・。(続く…

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image060703.jpg 今の教育基本法に規定されているとおり、教育とは人格の完成(精神的にも肉体的にも調和の取れた創造的な生き方のできる人間)を目指すものです。
「人間教育」を目的とした教育基本法の理念は、子どもの全人的な発達を保障するためにつくられた子どもの権利条約にも通じます。

ところが教育基本法「改正」案は違います。すべての子どもの人間としての成長発達を目指す人間教育ではなく、「国に役立つ人材育成」、すなわち国策教育を目指すものです。
平たく言えば、子どもたちは、ときの政府に都合のよい価値観や道徳を教え込まれる一方、国の発展に役立つエリートだけが優遇される教育へと変わります。ますますエリートへの階段は狭き門になるばかりです。

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それでなくても、「構造改革」や「自由競争」という名で学校の序列化や子どもの選別が始まっています。さまざまな問題を引き起こしたため、約50年間行われていなかった全国一斉学力テトを再開(07年度より)する方針も固められました。

公的資金の削減が次々と行われるなかで、親たちには自己決定と自己負担の重責がのしかかっています。教育熱心な親は、学校選びに戦々恐々とし、わが子に少しでも早く勝ち組へのパスポートを握らせようと「これがあなたのため」と言いながら、「愛情」と「善意」でわが子を追い込みます。

子どもたちは「親に愛されたい」、「親の期待に応えたい」と満身創痍で頑張り、精一杯演技を続けます。けれども一生それを続けられる子どもは少数です。なかには「もう親の期待には応えられない」「自分はなんてダメな人間なのだろう」と感じ、自己破壊や他者破壊へと追い込まれる子どもも出てきます。

教育基本法が「改正」され、自治体間や学校間、家庭間の格差が広げられていけば、強迫的にエリートへの道を目指す親子と、最初からすべてを諦めて無気力になる親子が増えるでしょう。

教育基本法「改正」案が継続審議になりました。長男の、人生をかけたメッセージを無駄にしてはなりません。

今年になってから、「少年による事件」について、また「暴力」というものについて、深く考えさせられるニュースがありました。

ひとつは、京都府福知山市の市動物園の猿山に大量の花火を投げ込んだとして、同市内の18歳の少年5人が書類送検されたというニュース。送検容疑は、「1月3日午前6時半ごろ、猿山(26匹飼育)に侵入し、見学通路から柵越しに点火したロケット花火などを投げ入れ、1匹の鼻をやけどさせたこと」でした。

もうひとつは、山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件の差し戻し後の上告審です。最高裁が上告を棄却し、犯行当時18歳1カ月の少年の広島高裁判決である死刑が確定したというニュースです。

少年たちに対して

猿山に花火を打ち込んだ少年らの逮捕を知らせるニュースや情報番組では「命の重さを分かって欲しい」「おもしろ半分で動物を虐待するなど許せない」などという言葉が聞かれました。

また、光市の母子殺人事件では、最高裁は「刑事責任はあまりにも重大で、死刑を是認せざるを得ない」として「少年であることは死刑を回避すべき決定的事情ではない」と述べて無期懲役判決を破棄した高裁判決を踏襲するものとなりました。

これらの報道を見聞きし、「なんて暴力的な社会になってしまったのだろう」とつぶやかずにはいられませんでした。
いずれの場合も、少年らの抱える事情や思い、少年を取り巻く環境などがほとんど考慮されていないように思えてならなかったからです。

命の大切さを唱えても無駄

命を大切にできない、他者の痛みに共感できない最も大きな原因は「自らの存在を大切にされ、その痛みに共感してもらった経験の欠如」です。言い換えれば、自らの命に、自らの存在に価値を認めてもらえた人間は、命を粗末にするようなことなど絶対にしません。

もし、おもしろ半分に猿山に花火を打ち込んだのだとしたら、やはりその裏には「あなたはかけがえのない存在なんだよ」という実感をもらえなかった少年らの悲しみがあると推測してしかるべきです。

自分の命に価値を持たせてもらえなかった少年に対し、「命は大切だ」と100万回唱えても、なんら意味のないことです。(続く…

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かつて「生育歴が無視される裁判員制度(5)」というブログを書いたときには、「裁判員制度が導入されれば少年法が骨抜きになる」と書きました。

しかし、今回の光市事件の元少年への死刑判決は、私に「少年法は死んだ」という現実を突きつけました。しかも「死亡被害者がふたりで死刑」という、成人同様の厳しい判決です。

最高裁判所という、国の最も権威有る、国の基準をはかる機関による少年への死刑判決は、とうとう日本という国が“おとな”とは違う“子ども”という存在を公然と否定してはばからなくなってしまったことを思い知らされました。

少年法とは

もともと少年法は、うまく成長発達することができなかった未成年者のやり直しを目的とした法律です。
だからこそ、刑罰よりも教育・保護・更生(要保護性)に力点を置き、生育歴や資質などをていねいに検討したうえで、少年の成長発達をうながす処遇を導くように定められています。少年の「立ち直りの可能性」が焦点にされてきたのもそのためです。

ところが今回の判決は、「重視されるべきは結果」であって、「少年の成長発達の度合いや立ち直りの可能性ではない」という判断をくだしました。

“子ども”と“おとな”は違う

子どもはおとなに比べ、あらゆる能力が未熟です。もちろん、年齢や成熟度に応じて異なりはしますが、おとなと同じ尺度で、子どもの決定能力や責任能力を測ることはできません。

子どもは、おとなのように合理的にものごとを判断し、それにもとづいて自分の意志で何かを選択し、その結果責任を引き受ける能力がないからこそ“子ども”なのです。

だから、国際社会は「子ども特有の権利が必要である」と考えました。おとなと比べてあらゆる意味で自分を守ることができず、能力的にも未熟である子どもが、おとなからの搾取や支配などの暴力にさらされないよう、子ども自身が自らの力で自分らしく人生を豊かに、幸せに生きていくための力になるよう、子どもの権利条約という国際的なルールを定めたのです。

子どもの権利条約の理念も否定

ところが今回の最高裁判決は、こうした子どもという特殊性、子どもの権利条約の理念をきっぱりと否定しました。平たく言えば「成熟していない、責任能力のない者であっても、おとなと同じ責任を負わせろ!」と迫ったのです。

それはたとえば、片足の無い人と両足共に健康な人を同じ条件で競わせたり、重い荷物を持った人と身軽な人を競争させたりしておきながら、「その結果生じた不都合や不利益は本人の責任である」と言うのと同じことです。

こんなことが平気でできる社会を「暴力的」と言わずして、なんと表現すればいいのでしょうか!(続く…

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もちろん、犯した罪の責任は負わねばなりません。
「子どもだから」と、人を傷つけ、殺めることが許されないのは当然です。

しかし、前回述べたように「責任を取ることができるおとなへの発達途上にある子ども」に対して、おとなと同等の責任を負わせること。うまく成長発達することができなかった未成年者から「生き直す機会」を奪うことが、「正義」と呼べるのでしょうか。

もっと言えば、たとえおとなの場合であっても「命をもって償わせる」ことは果たして「正義」なのでしょうか。
「犯した罪の責任」と「そのような人格にしか成長発達できなかった責任」は分けて論じられるべきではないでしょうか。


どの子も「愛され、愛したい」

生まれながらに、「自分は将来、殺人者になろう」とか「いつかは人を殺そう」と心に誓う人間はいません。愛されることだけを望み、関係性を求めて泣き叫ぶ幼い子どもの中に、そんな未来の姿はまったく見えません。

確かに、かの有名な精神科医・フロイトは人間の生命や文明文化などを破壊して「無」に帰そうとする、殺人や戦争をもたらす「死の本能(タナトス)」の存在を説きました。しかし、彼に続く多くの研究者はこの考えに否定的です。

そんな心理学の理論や論争などを用いなくても、ほんの少しでも子どもと親身になって関わった経験があれば、「どの子も愛され、愛し、だれかとつながりながら自分も他人も幸せにできるような人生を歩みたい」と思い、それに向けた可能性を秘めていることは手に取るように分かります。

「死の本能」ではない

虐待されたり、裏切られ続けたりして来た子の多くは、憎まれ口をきいたり、暴言を吐いたり、暴れるなどしておとなの神経を逆なでします。
愛された実感のない子の中には、火遊びや自転車での疾走などをして我が身を危険にさらし、すべてを破壊しようとするかのような行為をやってのける子がいます。

そうやっておとなを怒らせ、失望させ、無力感を味合わせるようなことを繰り返すのは、「このおとなは壊れないか(自分を見捨てないか)」を試さずにはいられないからです。

傷つけられ、裏切られてきた子どもであればあるほど、再び傷つくことに敏感です。うっかり信じて、もっともっと深く傷つくことが恐いから、「そう簡単に心を許さないぞ!」と防衛線を張り、いまにも砕け散りそうな心を必死に守っているのです。

「死の本能」によるものではありません。(続く…

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私も、虐待や不適切な養育を受けてきた子どものセラピーをさせていただくことがあります。

セラピー開始当初は、子どもが発する不信感や巧みな嘘、すべてを飲み込もうとするかのような欠乏感に呆然とさせられます。
私という親の代理にぶつけてくるあまりにも激しい怒りに圧倒されてしまうこともたびたびあります。

負のエネルギーは蓄積され恨みは肥大化

子どもが持つきちんと愛されなかったことによる負のエネルギーは年齢を重ねれば重ねるほど蓄積され、肉体的な発達を遂げれば遂げるほど破壊力は増していきます。

「私は壊れない(裏切らない)よ」「傷つけ合うのではない違う関係性があるんだよ」という実感を与えてくれるおとなに出会えず、受け止めてもらえなかった怒りは、いつしか恨みとなって肥大化し、噴出する機会を狙いはじめます。

もしあの猿山にロケット花火を打ち込んだ少年や、山口県光市で母子を殺害してしまった少年が、もっとずっと小さな子どもだった頃、彼らがありのままの気持ちを表現できるおとながいたら・・・。少年達の怒りや傷つきにきちんと応答して受け止めてくれるおとなと出会っていたら・・・。

「こんな事件は起きず、被害者を生むこともなかっただろうに」と残念に思えて仕方がありません。

少年側の責任?

・・・そこでちょっと考えて欲しいのです。

そのようなおとなに出会うことができず、うまく成長・発達できなかったのは、はたして少年側の責任なのでしょうか?

こう言うと、「被害者側の気持ちはどうなる?」「やられぞんではないか!」「子どもを甘やかすことになる」・・・などなどのお叱りの声が聞こえて来そうです。

なにひとつ落ち度が無いのに、大切な命を傷つけられたり、奪われたりした被害者の方々にすればまったくもって当然の感情です。被害者の方々が、そのような気持ちをありのままで表現することはとても大事なことですし、生き直すためには絶対に必要なことです。

しかし、こうした感情を周囲やマスコミが煽り、「少年でも厳罰を!」と叫ぶことはどうなのでしょう?(続く…

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本当に辛く、悲しく、残酷なことですが、奪われてしまった命や傷つけられた事実は何をしてももとには返りません。残念としか言いようがありませんが、たとえ加害者にその命を持って償ってもらったとしても、奪われた被害者の命が戻ってくることはないのです。

その事実を受け止めざるを得ないのであるとすれば、遺族や被害者にとって真に必要なことは、その現実を受け止め、存分に悲しみ、「もう一度幸せに生きて行いこう!」と思えるような手助けすること。遺族や被害者と共に泣き、怒り、「あなたはひとりではない」という実感を与えること。失ったものをちゃんと過去のものにして新たな一歩を歩み出せるように支えること。

そうしたことこそが、私たち周囲の人間にできる遺族や被害者への支援なのではないでしょうか。

少なくとも、遺族や被害者の被害感情をいたずらにあおり、憎しみに定着させ、恨みを糧とし、失った関係性をよすがにして過去の幸せだけを眺めながら生る人生の中に閉じ込めてしまう・・・そんな残酷なことをすべきではありません。

被害者や遺族の疑問に応えるには

深い傷を負った遺族や被害者が、辛い現実を乗り越えていくためには、「どうして自分(もしくは最愛の人)がこんな目に遭わなければならなかったのか」を知る必要があります。

なぜ、なんの落ち度もない最愛の妻が理不尽にもその生命を絶たれねばならなかったのか。なぜ、罪の無い幼子が将来を絶たれねばならなかったのか。なぜ、加害者はこんな残酷な仕打ちをしたのか。それが分からない限り、たとえ加害者が死刑になっても被害者は救われません。

大勢の被害者やその家族と接してきたある裁判所調査官の方は、自身の長い職業上の経験から、こんな話をしてくださったことがあります。

「被害者やその遺族が知りたいのは、『自分の大切な人が、なぜそんな目に遭わなければいけなかったのか』ということ。その疑問に応えるためには、被告人がどんなふうに育ったどんな人間なのか、なぜ犯行に及んだのか、などが明らかにされる必要があります」(続く…

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「加害者がどんなふうに育ったどんな人間なのか、なぜ犯行に及んだのか」

そういった被害者の方々が当然抱く疑問を明らかにすること。加害者の生育歴を丹念に調べ、人格形成との関係を検討すること。どのような環境が人を犯罪へと向かわせるかを考えること。・・・それは、被害者の方々を救うだけではありません。

安全な社会をつくっていくうえでも、とても重要です。

加害者に語り尽くしてもらうことが大切

加害者を死刑にしてしまえば、私たちの社会は「なぜそんな反抗に及ぶ人間が生まれたのか」「どうして犯行を止められなかったのか」という重要な情報を手に入れる機会を失います。「どのような社会になれば犯罪者が減り、多くの人が幸せに生きられるのか」を知ることもできなくなります。

加害者がどのように育って、なぜ犯行に及んだのか。何があれば犯行を思い止まることができたのか。どういう環境や関わりがあれば人間はうまく育つことができるのか。こうしたことを明らかにするには、加害者に語り尽くしてもらうことが不可欠です。

育ちと犯罪は深い関係にある

光市母子殺人事件の加害者も、子ども8名を殺害し、教諭2名と子ども13名に障害を負わせた大阪教育大学附属池田小事件(2001年)の宅間守死刑囚も、虐待され、傷つけられ続けた子ども時代を持っていました。
また、2008年に起きた土浦連続殺傷事件や秋葉原通り魔事件でも、加害者らが不適切な養育を受けていたことが知られています。

心理学的視点に立てば、生育歴、家庭環境、社会環境と犯罪が関係していることは火を見るよりも明らかです。

何が正義か?

だからもし「重罪を犯した者に対しての正義とは?」と問われたら、私はこう答えます。

「加害者に、その胸の内をすべてつまびらかにできる時間と環境を保障し、その育ちを徹底的に解明することによって二度と同じ悲劇を繰り返さない(被害者を生まない)努力をすることこそが、正義なのだ」と。(続く…

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逆に、一見、正義のように見える加害者を死刑などの厳罰に処すこと。
すなわち、加害者だけに責任を負わせ、犯行の背景を一切語れぬように「口をぬぐう」こと。
加害者が「なぜ犯行に至ったか」を注視せず、「やったこと」のみに焦点を当てること。
加害者が犯行に至るまでの間、加害者を救う努力をしてこなかった社会の責任を放棄すること。

それは、加害者のような人間を生み出した社会・環境の問題を温存させるだけでなく、多くの人々を憎しみと恨みの中に定着させ、さらなる破壊的な社会へと人々を邁進させる暴力の連鎖を強めることになります。

最高裁の罪深さ

こうして改めて考えると、最高裁が光市母子殺人事件の判決で「とくに酌量すべき事情がない限り死刑の選択をするほかない」と、犯行時18歳であっても「原則として死刑適用」という新たな判断の枠組み示したことが、いかに罪深いことであるのかが分かります。

“最後の正義の砦”たるべき最高裁が、憎しみと恨み渦巻く暴力的な社会を後押ししてしまったのです。国の価値観を決定する最高裁が、社会の責任を放棄し、すべてを個人の責任に決着させて良いと判断したのです。
そして結果的に、暴力的な社会が変換する機会を潰してしまったのです。

罰されるべきは社会

まだまだ書きたいことはありますが、今回はひとまず非行(犯罪)と子ども、そして社会との関連について鋭い指摘をした2人の賢人の言葉を借りて、終わりにしたいと思います。

臨床心理学修士であり、アメリカのカリフォルニアで心理療法に当たっているジェーン・スウィガードは著書『バッド・マザーの神話』(誠信書房/309ページ)で、こう言っています。

「私たち(おとな)の行動が真に破壊的になると、子どもたちはギョッとするような悲劇的なやり方で警告してくれます。ティーンエイジャーの自殺やうつ病、暴力事件の増加や学校における不幸な薬物の蔓延などで、このような現象は低年齢化し、今や思春期前の子どもの間にまで広がっていきます。子どもたちの行動の意味するところや子育ての心理的現実を探ることによって、私たちの止める時代が抱える病弊のより深い意味を理解することができるのです」(下線部は筆者が加筆)

そして、イギリスの哲学者で経済学者でもあるジョン・スチュワート・ミルは、すでに1800年代にかの有名な『自由論』で、こう指摘しています。

「社会が子育てに失敗し、非行者を生み出してしまうとするなら、そのことについて責められるべきは社会自身である」

賢人達の声に耳を貸さず、厳罰化を進めることは、実は私たち自身さえも脅かす、今よりももっと暴力的な社会をつくることにつながるのです。