社会の犠牲者(3)
果たして特殊な子どもか?
この高校生は果たして特殊な子どもでしょうか。何か極端な思想や発達の問題を抱えていたのでしょうか。
私にはそうは思えません。
私にはそうは思えません。
ここまでとは言わなくても、多かれ少なかれ、同様の思いを抱いている子どもはかなりの数になるのではないでしょうか。
今の社会ではこうした「上昇志向」や「競争精神」を小さな頃から植え付けられて育っています。
たとえ言葉で言われなくても、いくつもの習い事に通わされ、そのなかで優劣を付けられることが当たり前になり、学齢期が近づけば受験という“ふるい”が待っています。
「人生はやり直しがきかない。“ふるい”にしがみついて結果を出さなければ、ろくな将来は望めない」
と脅されます。
“期待”は“失望”とセット
確かに半分は本当ですが、半分は嘘です。受験や学歴が与えてくれる豊かさは、人生のほんの一握りに過ぎないし、生きている限り、やり直しがきかない人生など無いのです。
しかし純粋な子どもにはわかりません。自分を愛し、育ててくれる親が、先生が、社会がそういうのだから、「本当に違いない」と思い、育ちます。
なまじか優秀だったりしたら、さらに悲劇です。“期待”という重荷がべったりと背中に張り付きます。しかもこの“期待”は、“失望”とセットだったりします。背負った子どもは、大好きな親や先生を失望させまいと頑張ります。
“期待”に応えられない自分など存在価値がありませんから、それはもう死にもの狂いです。コストだのリスクだのを考える理性はすっ飛んでしまいます。
子どもたちの苦しさに目を向けて
試験場の警備強化や、カンニングの取り締まりに精を出す前に、人生を台無しにしてまでリスクをおかした子どもたちの苦しさに目を向けるべきです。
息苦しい世界で、恨みや恐れを育てているのはけっして少数の子どもたちでは無いことに、早く気付いて欲しいと思います。