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また、『東京新聞』(2016年5月8日)では、『ヒトラーはなぜ猫が嫌いだったのか』(コア新書)の著者で、愛猫家・著述家の古谷経衡さんの次のような分析を載せています。

「猫に『自由』『放任』『個人主義』といった性質を見て、それを尊ぶのが『猫性の社会』と定義する。逆に『忠誠』『従順』『上意下達の縦型構造』といった犬的な性質を尊ぶのは『犬性の社会』。日本は江戸時代は『猫性』だったが、戦時期からバブル期までは『犬性』が続き、その後は『猫性』となって今に至る」

その結論は、「それだけ今の社会の同調圧力が厳しいのだ」というもの。

前回紹介した、猫ブームを「日本人が犬化、つまり『空気を読む』化しており、常の上司や友人などに気を使う“動物”と化しつつあるからである」(『生活と自治』2016年5月号「日々の一滴」/生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)と考える藤原さんに通じるものがあります。

ちなみに同書は、犬を偏愛したヒトラーの物語から始まっているとか。

ちょっと犬を弁護

おふたりの意見を読んで、現代社会の分析には大いに首を縦にふる私ですが、犬と猫の性質については、ちょっと首をかしげたくなる部分もあります。

こうした主張の多くが、「猫は自由で犬は不自由」「猫は自分の意思に従って生き、犬は違う」というようなトーンで言われている気がしてしまうからです。

猫だけでなく犬とも長年、暮らしてきている私からすると、(ちょっと強い言い方をさせていただけば)自分の頭で考えず、自分の気持ちを殺したまま生きているかのようにも聞こえてしまうので、犬の立場をちょっと弁護したくなってしまいます。

確かに猫に比べて犬は、訓練が入りやすく、人間の作業を手伝うことがよくあります。警察犬、盲導犬、介助犬などなど。最近はセラピードッグなども大活躍していますね。

でもそれは犬が縦型社会の住人(犬)で、ひたすら周囲の空気を読んで命令に縛られる不自由な生き物だからなのでしょうか?(続く…

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確かに私の愛犬(写真)は、空気を読みます。

たとえば何人かの人間で食卓を囲むとき。 愛犬は、決して私の側には寄ってきません。「食べ物をくれそうな人」の側に行って、目をきらきらさせながらお座りをしてじーっと見つめます。

そしてそれは多くの場合、私の席から対角線上に座っている人であったりします。私からいちばん遠いので、愛犬に食べ物をあげようとすることを私が阻止しにくいと分かっているのです。

また、「そろそろ食事が終わる」という雰囲気になると「残っているものないの? なんかちょうだい」と、テーブルの下から顔を出したり、椅子の周囲を回っては主張します。

いずれも立派に「空気を読んで」います。だけど、「縦型社会の住人(犬)」という窮屈さは感じません。また、人間に同調しているというよりは、「どうしたら自分の意見が通るのか」を考えたうえで賢く自己主張しているように思えます。

「犬と猫の差」ではなく「個体差」?

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一方、我が家の猫たちに目を転じると、どうも藤原新也さん宅のクロコちゃんとはぜんぜん違う生き物のようにも思えます。

家の猫たちは、呼んだときにはほぼ100%の確立で返事をします。なかには耳が聞こえない猫もいるのですが(写真)、口唇術に長けているのか、やっぱりちゃんと返事をします。

猫の方からも、やたらめったら話しかけてきます。そして、私がちゃんと応えないと、よけいに激しく話しかけてきます。

家の中でも、外でも「ブレーメンの音楽隊」よろしく私の後をついてくるし、私が座っているとすぐに抱っこしてきたり、足を枕に嬉しそうにゴロゴロ言い始めます。

・・・となると、これはもう「犬と猫の差」というよりも「個体差」と呼んだ方がよいような気がします。(続く…

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その「個体差」をつくる要因としては環境も影響しているように思います。

たとえばここ半年くらいのうち、家族に加わった猫(写真)は、現れた当初、まったく鳴きませんでした。
こちらから声をかけても、無言。近寄ろうとすると逃げてしまう。

ただ、ただ、じーっと、何も言わずに窓から家の中をのぞいているだけ。それこそ一言も声を発しようとはしないので、家人と「声が出ない猫なのではないか」と心配したほどです。

まるで別猫のよう

ところが今はどうでしょう。
私が知っている猫のなかでも1.2を争うほどのおしゃべりな猫になりました。

先住猫がいるため家の中に入りたがらないので、ベランダの部屋で暮らしているのですが、人間が帰宅すると、どこからともなく「にゃぉ~」と言いながら迎えにきます。

お風呂に入っていれば、お風呂の窓のすぐ下で「にゃお、にゃお」と声をかけてきますし、朝になって人が起き出した気配がすると「にゃぁぁぁおぅうう~」と鳴きます。

散歩から帰ったと言っては鳴き、お腹が空いたと言っては鳴き、遊んで欲しいと言っては鳴き・・・それこそ四六時中、ずーっと人に向かって話しかけてくる感じで、まるで別猫です。

遺伝か環境か

猫と一緒にしたら怒る方もいらっしゃるかもしれませんが、人間に目を転じれば、心理学の世界では長いこと「人間のパーソナリティは何によって決定されるのか」をめぐって学者間で論争がありました。
「遺伝的要因と環境要因のどちらが、パーソナリティの形成に影響を与えるのか」が争われてきていたのです。

もう昔の話で恐縮ですが、確か大学生院のときに勉強した内容は「どちらも影響がある」というのが結論だったと記憶しています。

でも、私個人としては、遺伝的要因よりも環境要因の方がパーソナリティの形成に、より大きな影響を与えるのではないかと考えています。(続く…

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ちょっと考えてみてください。

たとえばとっても元気で、エネルギーがありあまっている女の子がいるとします。その子は、じっとしているよりも身体を動かしているほうが大好きなので、服装も自然と動きやすい、スポーティな格好をすることが多くなったりします。

エネルギーいっぱいなので、疑問があれば「どうして?」「なんで?」とおとなに迫り、何でもかんでもやりたくなってしまうので、小さいうちはなかなかひとつに集中することができず、「新しいものに手を出しては、前のものをほっぽり出す」ことが目立つこだったりするかもしれません。

環境が個性を後押ししてくれたら

そんな女の子に対し、周囲のおとな(環境)が「そういうところはあなたの個性だ」と認め、「元気でエネルギーにあふれているのはいいことだ」と、女の子がすることを励ましてくれたとしたら、どうでしょう。

きっと女の子は、「これは私のいいところなんだ」と思って、安心して自分の“よさ”を好奇心と一緒に伸ばしていこうとするでしょう。

逆の関わりをされたら?

では、その逆の関わりをされたらどうでしょうか。

ことあるごとに「もっと女の子らしくしなさい」とか、「どうして落ち着いてできないの」とか「飽きっぽいのはダメなことだ」とか、言われて育ったとしたら・・・。

きっとその女の子は、エネルギーの塊のような自分のことを「ダメな子」と思い、「もっと違う自分にならなくちゃ」と考え始めたりするのではないでしょうか。

もしくは、環境に反発してもっとエネルギッシュに動きまわる子になるかもしれませんが、少なくともその特徴を「心から“よさ”であると確信し、安心して伸ばす」ことは難しくなるのではないでしょうか。(続く…

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こうした環境の“関わり”の違いが、子どもに影響を与えることは否めないでしょう。

自分のことを肯定的に受け止められるか、そうでないかは、人格も、その後に出会う他者との関係性も、大きく左右するはずです。

環境要因は変えられる

それからもう一つ、私が「遺伝的要因よりも環境要因の方が重要」と考える理由があります。
それは、「遺伝的要因は変えられないけれど、環境要因は変えられる」からです。

科学の進歩によって遺伝子の研究はとても進んできました。倫理的な問題は残りますが、もしかしたら近い将来、遺伝子操作によって困ったパーソナリティになる遺伝子を除去したり変化させることができるようになるかもしれません。

でも、少なくとも現時点で難しいと言わざるを得ません。
たとえばキレやすいとか、共感能力が低いとか、そういった特徴を親から受け継いでいたとしても(どの程度、受け継がれるかも疑問ですが、今の医学技術では遺伝子に直接的にアプローチすることはできません。

でも、環境は違います。だれかが子どもが発する症状というメッセージに注目し、周囲との関わりの問題点に気づいて、その環境を調整することができれば、いくらでも変化を起こすことができます。

そう考えると、環境にアプローチしていくほうがずっと現実的ではないでしょうか。

人間関係(環境)に視線を移せば

くしくも原宿カウンセリングセンター所長で心理学者の信田さよ子氏が、著書『カウンセリングで何ができるか』(大月書店)のなかで「最初に問題とされた症状めいたあるキーワードを手がかりに、背後にある人間関係に問題をシフトしていく」(52ページ)ことの大切さを指摘されていましたが、まさにそういうことだと思います。

人間関係、つまりその人をとりまく環境に視線を移すことができれば、たとえ対象がおとなであっても、心理職ができる仕事は格段に広がります。

逆に、症状を「心の問題」「遺伝子の問題」「発達の問題」にしてしまったらどうでしょうか。クライアントさんの持ってきた症状のほとんどは、投薬治療の対象にするしか無くなってしまいます。(続く…

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・・・と、だいぶ本題から脱線してしまいましたが、ここで本題に戻しましょう。

「いったいなぜ、今、猫ブームなのか?」です。


猫は自己を“投影”しやすい

ブログの前半で述べたように、「猫」と言っても性格はさまざま。「猫だから気ままで自由」と、一概に言ってしまうことはできないような気もしますが、確かに一般的に、犬に比べて猫の方がマイペースで、何を考えているのか推測しにく、喜怒哀楽が分かりにくいという傾向はあると思います。

そんな猫は、おそらく人間にとって「とても自己を“投影”しやすい動物」なのではないでしょうか。

“投影”とは?

“投影”とは、心理学の世界でもよく用いる言葉です。

私たちに人間は、他者を見て「きっとこんなふうに感じているはずだ」とか「きっとこう思っていいるだろう」と考えたりします。
ごく簡単に言うと、自分の枠組みで物事を見て、自分の思うように外界を色づけしてしまいがちなのです。

本来は、他者が何を感じて、どう思っているかは当人に聞いてみなければ分からないはずなのに、「きっとこうに違いない」と思ってしまったりします。それは私たちが、自分の感情や思い・・・つまり、自分の心を自分の外へと映し出し(“投影”し)ているからです。

確かに閉塞的な世の中の鏡

だから、たとえば「のんびりしたいなぁ」と思っている人が日向ぼっこしながら昼寝している猫を見ると「のんきにしているなぁ」と考えたり、「自由でありたい」と願っている人がマイペースな猫に出会うと「空気を読まずに堂々と振る舞うやつだな」と感じたりするのです。

そのように考えると、確かに猫ブームは閉塞的な世の中を映し出す鏡になっているのかもしれません。「自分は自由でありたい」と、自分自身のこととしては考えず、他者(猫)を通して、無意識の思い映し出しているわけですから。(続く…

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それからもう一つ考えられるのは、「犬に比べると猫の方が手がかからないから」ということではないでしょうか。

もちろん猫も、遊んであげたり、ゴハンをあげたり、体を清潔に保ってあげたりと世話が必要です。

しかしどちらとも一緒に暮らしてきた私の経験上、犬に比べるとずーっと楽です。犬は健康を維持してあげるため散歩に行かなければならないし、大型犬の場合、トイレを外でしたがる傾向にあるので、決まった時間に外に連れ出してあげなければなりません。

猫のように自分でグルーミングしませんから、シャンプーは欠かせないし、ブラッシングもしてあげなければなりません。

何より、猫よりも感情表現がストレートなので「あれして!」「これして!」という要求もストレートです。それに応えてあげるのは、けっこうなエネルギーがかかります。

リアルよりバーチャルへ

もともと人間は「何かを与えられるときより、与えるときにこそ充実感を得られる」ようにできています。ひらたく言えば、手がかかる存在がいるということは、それだけ人生の豊かさを感じられるということです。

しかし、昨今、犬や猫のかたちをした癒しロボット的なものが人気を博し、リアルに命を育てるのではなくゲームなど、バーチャルな世界で何かを育てるようなことがはやっています。
以前、犬のロボットを愛用(愛玩?)している方が、こんなことを言っていました。

「本物のに犬は、散歩に行く手間がかかるし、あちこち汚したり、匂いが気になったりする。何より、『人間が遊びたい』と思ってスイッチをいれなければ、動かないから、時間があるときだけ、かわいがればいいから面倒がない」

社会の在り方が反映されている?

それを聞いて、私はびっくりしました。人間(おとな)の都合に合わせてはくれないから、手間がいっぱいかかるからこそ、ふたつとない絆が生まれます。面倒をいっぱいかけてくれるからこそ、いつでも関心を向ける必要ができ、動物や子どもは“かけがえのない存在”となって、私たちの孤独を解消してくれるのです。

猫ブームの背景には、このような“人間らしい”関係性を求めるのを止め、労力がかかることは避け、合理性を追求する社会の在り方が反映されているのかもしれません。

「猫の次はマグロ」・・・。
なんだか動物シリーズのようになっていて恐縮ですが、やれ「オリンピックだ」、「甲子園だ」と、華々しい話題が多い昨今、とってもやるせない気持ちになった記事があったので、ちょっと書かせてください。

「葛西臨海水族園で2014年11月以降に発生した謎の大量死を乗り越え、ただ一匹生き残ったマグロが死んだ」 という2015年8月3日付の『朝日新聞』に載っていた、わずか25行程度の小さな記事です。

謎の大量死というアクシデントを乗り越え、「奇跡のマグロ」と呼ばれたそのマグロの死因は、水槽への衝突だったそうです。

同記事には「目の前を横切った別の個体につられるように突然速く泳ぎ出し、水槽に衝突」と書かれ、「7月中旬から2週間ほどえさを食べない異変が見られた」とも記されていました。

ストレスが原因?

その記事を読み、「2014年の大量死は本当に“謎”だったの? やっぱりストレスが大きな原因だったのでは?」などと思ってしまいました。

魚の専門家でもない私が言うのも恐縮な、ネットで調べた知識に過ぎませんが、マグロやカツオというのはとても繊細な魚でちょっとした変化にも敏感に反応するそうです。過去にも年に100匹以上が水槽に衝突して死ぬと事件があったということも知りました。

2014年に同水族館で大量死が起きた頃は、ちょうど大型水槽近くの別の水槽で改修工事が行われていて、「その振動や音が魚にストレスを与えた可能性もある」といった記述も見つけました。

やるせない気持ち

マグロはそもそも雄大な外洋を泳ぎ回る魚です。その魚を水槽に閉じ込め、展示するということに無理は無いのでしょうか。

実は私、あまり動物園や水族館というのが好きではありません。本来の生活環境から隔絶され、展示されている生き物を見ると「この動物(魚)たちは幸せなのかなぁ」と考え込んでしまうからです。

「奇跡のマグロ」と呼ばれながら、水槽にぶつかって死ぬという最期を向かえたマグロの一生とはいったいどんなものだったのか・・・。そんなことを考えると、妙にやるせない気持ちになってしまいます。(続く…

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その生物に適した環境、生きるのに必要とするものから離れた下での適応を迫られると、異常行動を起こすことはよく知られています。

動物園や水族館の生き物だけでなく、ペットにも同様のことが起きます。自ら毛をむしってしまったり、尾をかんだり、自己破壊に走ったり、攻撃的になって飼い主に危害を加えるなどの話は珍しくありません。

ストレスは虐待を連鎖させる

他の生物に比べて著しく大脳が発達し、理性的であるはずの人間も同じです。

たとえば、虐待の世代間連鎖について。子ども時代に虐待された者が親になると子どもを虐待してしまうという話はよく聞きます。しかし、だれもが「親と同じ道」をたどるとは限りません。

アメリカとイギリスで編集された60以上もの研究報告書をもとに、虐待の世代間連鎖の発生率を予測したオリバーの報告では、子ども時代に虐待を受けた者が親になった場合、精神的ストレスが高まると虐待者になりうる者が三分の一いると見積もっています(『いやされない傷ーー児童虐待と傷ついていく脳』 友田明美/株式会社 診断と治療社:初版7ページ)。

こうした事実を見ていくと、その個体が生きる環境がストレスや恐怖に充ちたものになったとき、個体は破壊的な行動・・・たとえば虐待や自殺のような・・・に走らざるを得なくなると考えるほうが自然に思えます。

やるせない事件

マグロの話の次に書くと怒られそうですが、最近同じようにやるせなさを感じた事件がいくつかありました。

ひとつは、東京・杉並区久我山で8月7日夜に行われていた夏祭りでにぎわう商店街で、瓶にカセットボンベが取り付けられた火炎瓶のようなものが投げ込まれ、15人が負傷した事件です。
犯人と見られる男性は、商店街に面した自宅建物から火炎瓶を投げ込み、直後に首を吊って自殺しました。

報道によると、男性は一人暮らしで、「祭りがうるさい」などと近所にもらしていたとのことです。(続く…

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「祭りがうるさい」と感じる人は、少なからずいるでしょう。

でも多くの場合、そうは思っても火炎瓶など投げつけません。その行為がいったいどんな代償を自分にもたらすのか、十分に予測がつきます。
だからどうしても耐えられないならば、その時間を別な場所で過ごすなど、不快感を回避する行動を取るはずです。

それなのになぜ、この男性はそうすることができなかったのか。火炎瓶らしきものを人々に投げつけた後に、自殺という最悪の幕引きを自ら選んだのか。

「死人に口なし」で、その本当の理由は推測するしかありません。でも私には、「死ぬための最後のきっかけ」を探していたのではないかという気がしてならないのです。

似通った事件

過去にも、同じような印象を持った事件がいくつもありました。

記憶に新しいのは、2008年に東京で起きた「秋葉原通り魔事件」でしょう。7人が死亡し、10人が重軽傷を負ったこの事件で逮捕され、2015年に死刑判決を受けた加藤智大死刑囚は、掲示板を成りすましで荒らされ、ネット上でも孤独を感じ、掲示板に通り魔事件を起こすと投稿するようになっていきました。

そして犯行直前には更衣室で自分の作業服が見つからなかったことから被害感を募らせ、そのまま職場放棄。「通り魔事件を起こす」との予告を掲示板に投稿を繰り返し、犯行に至りました。

その真相は?

もちろん、なぜこのような事件を起こすに至ったのかは、加藤死刑囚本人にしか分かりません。いや、もしかした本人にさえ、分かってはいないのかもしれません。
私たち人間はおうおうにして、自分の感情や本心を無意識に閉じ込め、自分でさえ分からないようにする術に長けています。

事件後、同死刑囚が犯行に至った原因について「友達や恋人がいない孤独感」であるとか、生育歴などの環境要因や派遣労働者の過酷な労働状況などの社会的要因などが取りざたされましたが、本人はそれを否定したとの報道もあります。(続く…