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地域総動員でミーちゃんの捜索を開始してから約一月半がたった頃です。あるひとりの女性が美容院を訪れました。
近所の猫好きの方から
「最近、お宅にご飯をもらいに来る猫のポスターを駅前あたりで見た気がする」
と聞き、気にしながら習い事に向かう途中、ポスターが目に留まったとか。

「ここ1〜2ヶ月くらい家にご飯を食べに来ている猫だと思います。人なつっこい猫だし、首輪もしていたので気になっていました」

そう話す女性に
「今度、ご飯を食べに来たら、ミーちゃんを捕まえておいてください」
とお願いし、その夜、数人で引き取りに行きました。

しばらくぶりに会ったミーちゃんは、少し痩せたようでした。一回り小さくなって、体も汚れ、怖い目に遭ったのかちょっとオドオドしていました。連れて帰る途中の車の中で、何度も不安げに「ナ〜」と、かぼそい声で鳴きながら、窓の外を見ていました。

心配していた商店街の人たちのお店にミーちゃんを連れて報告に行くと、みんな商売そっちのけで外に出てきました。涙を浮かべながら、「どこにいたの?」「よく戻って来たね」と、代わる代わる声をかけます。まだよく事情が飲み込めないらしいミーちゃんはキョトンとしたまま、みんなの腕に抱かれていました。

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またまたポスター作成

翌日、さっそく「ミーちゃん、戻って来たよ!」のポスターを作成。商店街のあちこちに貼ってもらいました。

それから数日、ミーちゃんは美容院の指定の場所(電気マットの上)で、暇さあえあればずーっと眠っていました。ご飯はもらえていたかもしれませんが、安心して眠る場所が無く、精神的によほど疲れたのでしょう。

でも、続々と尋ねてくるお客さんで、なかなかぐっすり眠れません。ポスターを見ては、心配していた人が一人、また一人「ミーちゃん見つかったんだって!」と尋ねて来ます。 そのたびにミーちゃんの眠りは妨げられ、しばらくの間、ひとしきり話しかけられたり、抱かれたり、撫でられたり・・・アイドルは休む間もない感じでした。

そんな状態が、それこそ一月以上も続き、またまたミーちゃんの根強い人気を再確認させられました。

「顔見知り」がいっぱいに

それから数ヶ月。商店街周辺では、「名前は知らないけど顔見知り」な人たちがやたらに増えました。「学生さん」「会社員の男性」「OL姉妹」「主婦の人」・・・以前は、商店街を無言で通り抜けていた人たちが、あいさつを交わすようになりました。

中には、ミーちゃんのご飯を美容院に預けて行く人もいます。・・・みんなで話合ってミーちゃんのご飯は美容院の周囲であげることに決めたからです。

ミーちゃんが発見された公園は商店街から4〜5キロ離れたところ。とても猫の足で歩いて行ける距離ではありません。首輪に付けていた名札も取られていました。そうしたことから、「ミーちゃんにご飯をあげることをよく思わない猫嫌いの人が捨てたのではないか」との説が有力になったためです。(続く…

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image_081105.jpg 商店街の店同士のご近所づきあいも盛んになりました。
「ミーちゃん見た?」を合い言葉に、ミーちゃんの話題を通して、さまざまな会話が繰り広げられるようになったのです。

通行人の方々を始め、あちこちからキャットフードが美容院に届くようになったことも、ご近所づきあいを促しました。
あまりにも大量のキャットフードが届くので、美容院の人はミーちゃんにご飯をあげている他の店にも配りました。

すると、今度は配ったお店の人が「ミーちゃんファンのお客さんが置いて行ったから」と果物を届けてくれたり、「市場で安売りしてたから」と、いろいろな物を分けてくれたりするようになりました。
また、ミーちゃんの避妊手術をした金物屋さんは、旅行のお土産やケーキを持って美容院に遊びに来るようになり、ミーちゃんを発見した女性は時間があると美容院に立ち寄るようになりました。

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人と人をつなぐ求心力

美容院では、そうして各店から集まった「お返し」をまたキャットフードを持って来てくれた人たちにお裾分け。

「ごちそうさまです」
「また寄ってね」

「この前はありがとう」
「どういたしまして」

ついこの前まで素通りしていた人たちの間で、そんなやりとりがごく普通に行われるようになったのです。

さらに商店街の店同士では、駐車場の貸し借りや、お互いの店の前を掃除し合う風景なども、以前より見られるようになりました。

ミーちゃんが人と人とをつなぐ求心力となったのです。まさに地域を再生させる地域猫のカガミ!

“世話される弱い存在”が与えた幸せ

今回の一件で分かったこと。それは長年、一方的に世話をされてきたように見えたミーちゃん、自分では何もできないミーちゃんに、「世話をする側の方が多くのものをもらってきていた」ということでした。

世話をしているつもりの強い存在の方こそが、ミーちゃんという“世話すべき弱い存在”から、大きな大きな生きるエネルギーをもらい、ミーちゃんがいるというただそれだけで幸せを感じることができていたのです。

だからこそミーちゃんは、地域をつなぎ止めるほどのチカラになり得たのでしょう。

これは生命存在の真理にも迫るものすごいことです。(続く…

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image_081111.jpg 今、私たちの社会は「何でも自分で出来る人間」=「自立的な存在」をもてはやします。

だれかに食べさせてもらったり、甘えたり、頼ったりすることは「子どもっぽいこと」とされ、たったひとりで生きられる人間になることが「いいこと」とされます。

自分でお金を稼ぐことが出来ず、身の回りのことができず、人の手を借りなければやっていけない人間を「ダメな(甘えた)人間」と呼びます。子どもに対しては指導、しつけ、教育をして、一刻も早く「おとなにしてあげる」ことが愛情だと考えられています。

とくに新自由主義と呼ばれる、自己決定と自己責任を個人に押しつける考えが席巻する今日において、この考え方は顕著です。

そこでは“世話される弱い存在”は、あってはならないもの。もしくは価値のないものであって、ただのお邪魔虫(やっかい者)に過ぎません。

こうした社会の考えを内面化し、相談に来られるクライアントさんの中にも「自分は自立できていないダメな人間だ」という罪悪感でいっぱいの方も多くおられます。

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人間はひとりぼっちでは生きていけない

しかし、その考えは間違っています。人間は本来、だれにも頼らず、ひとりぼっちでなど生きてはいけないのです。

人間は、関係性の中で生きる存在です。特定のだれかとの愛着関係を持ち、そのままで受け入れてもらえる関係の中で安心し、支え、支えられる(ケアし、ケアされる)ことによって、孤独という根源的な不安を克服します。

特定のだれかとの間で、そうした関係性を得られなかったときには、その寂しさを満たすための代用品を探します。

代用品は、アルコール、ギャンブル、ショッピング、仕事、子どものお受験など、実にさまざまです。
実生活や生身の人間との関係性に悪影響を及ぼすほどにまで、代用品の乱用がはじまると、「依存症」と呼ばれ、治療対象とされますが、多くの場合、当人はなかなかその問題性に気づきません。

社会全体がマネー経済依存症

とくに、社会全体がその代用品を「価値があるもの」と考えている場合は深刻です。

個人的な意見を言わせてもらえば、だれとも親密な関係を持たず、ひとりぼっちで生きられる人間を理想とし、巨額の利益を求めて投機を続け、株価の動向に一喜一憂する日本社会には、すでに「マネー経済依存症」になっている状態だと思います。

しかし、多数の人が財産を殖やすための投資に夢中になり、「だれにも頼らずに生きていける経済力を持つべき」と思い込んでいるため、これだけ既存の経済システムのほころびが見えてきても、抜本的に見直そうという雰囲気にはなりません。

「酒を飲んでハメを外すのは当たり前」という文化では、アルコール依存症が見えにくくなり、賭け事が「男の甲斐性」と言われる思われる家庭ではギャンブルが問題視されにくくなるのと同じです。(続く…

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閑話休題。
もう一度、ミーちゃんという“世話される弱い存在”に目を向けてみましょう。

ミーちゃんが地域にもたらしたもの。・・・それは「人間らしさの回復」です。ミーちゃんという小さき者が、私たちの感情を揺さぶり、共感能力を引き出し、結果的に、地域に人と人とのつながりをもたらしました。

「世話をしたい」と思わせる弱い存在。その存在こそが、私たちが見失いがちなものを教え、関係性をもたらし、孤独から解放してくれることを証明したのです。

世知辛いこの世の中。ともすれば「だれかと支え合って生きる」という人間らしさが忘れられてしまいがちです。
そうした今の社会においては、ミーちゃんのような存在。それはまさに地域になくてはならないものなのです。

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深まる地域住民の溝

こうした存在を力で排除しようとするとどうなるか・・・。

今、東京都荒川区などで、野良猫にご飯を上げることを禁止する条例が制定されようとしています(こちら)。
荒川区と言えば、人情あふれる下町のイメージですが、条例制定の話が持ち上がって以来、猫好きと猫キライの地域住民の溝がどんどん深まっているそうです(こちら)。

「自立した存在」が理想というフィクション

繰り返しになりますが、すべてを自分一人でまかなう「自立した人間」になることなど、最初から不可能なことなのです。だからこそ私たちは、共感能力を発達させ、「人とつながる」ことによって、自らの身を守って来たのです。

なんでも自分でできる「『自立した存在』こそが、理想的な人間の姿なのだ」ということなど、現代社会がつくり出したフィクションに過ぎません。

ミーちゃん再び行方不明

実は、この「地域猫」の話を書き始めてからしばらくして、またミーちゃんが行方不明になりました。
最近、どこかで子猫が産まれ、「ミーちゃんにくっついていればご飯がもらえる」と思ったのか、ミーちゃんの行く先々に出没していました。
どうやらそのことをよく思わないだれかが、子猫と一緒にミーちゃんをどこかに捨てに行ったようです。

警察にも相談しましたが、「(ミーちゃんの)所有者がはっきりしない」「猫は移動するもの」と、冷たくあしらわれました。
ワクチンを打ち、避妊をし、病気やケガのときには病院に連れて行って治療し、みんなでご飯の場所を決め、美容院がメインで世話をしていたことを伝えても、対応は変わりませんでした。
「猫をめぐる地域のトラブルに関わりたくない」ということなのでしょうか。

見かけたらご一報を!

現在、美容院を中心に、またまたチラシをつくり、ポスターを貼り、ミーちゃんを捜索中です。
もし、同じ人が捨てたとなると、今度はかなり遠くまで運ばれた可能性があります。「一年後に見つかった」という奇跡的な話もありますから、あきらめずに探していきたいと思っています。

みなさん、もし、左前足が曲がっている、しっぽがグレーで短い三毛猫を見かけたら、ご一報ください! それはミーちゃんかもしれません。
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猫とはまったく関係なさそうな話ではじまってすみません。少しだけおつきあいください。

ここ10年くらい、よく耳にするようになった言葉に「自立」があります。
とくに福祉や教育、医療など、本来、何よりも「支援」や「助け」が必要な方が多くいる分野ほど、よく聞くようになりました。

「自立」に関した政策等がいっぱい

たとえば2006年には障害者自立支援方が施行されたのを受け、以前は身体障害者福祉法に基づく「更生医療」、児童福祉法に基づく「育成医療」、精神保健福祉法に基づく「精神通院医療費公費負担制度(32条)」と、違う法律で規定されていた障害者医療費公費負担が、自立支援医療制度に一元化されました。

厚生労働省ではひとり親家庭の経済的自立を助けるための母子家庭自立支援給付金及び父子家庭自立支援給付金事業がはじまりましたし、不良行為をしたり、するおそれがある子どもや、生活指導を要する子どもが入所または通所する教護院は児童自立支援施設へとネーミングが変更になりました。

また、かつては母子寮と呼ばれた母子生活支援施設や、自立援助ホームでもそれまで以上に「自立」というキーワードが多様され、教育の世界では「ちゃんと自立できる人間を育てる」ことが良しとされ、ハローワークでは早期自立に向けた早期就労が目標とされます。

・・・と言うように、例を出すと枚挙にいとまがありません。

皮肉なことに自立が難しい昨今?

支援や教育、福祉や医療はお金がかかります。

だから「早く自立して欲しい」という政府の思惑も分かります。しかし皮肉なことに、政府が「自立」「自立」と言えば言うほど、皮肉なことに自立が難しくなる人が増えてるような気がするのです。

その背景には、たとえばよく言われるように非正規雇用の増加で経済的な自立が難しいということがあります。また、いったんニートの状態になるとそこから抜け出すのが難しく、年を重ねてもニート状態の人が減らないということもあるでしょう。

今やひきこもりは推計約70万人(ガベージニュース)とも言われているそうです。(続く…

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なぜそんなことになっているのか? もちろん、理由はひと言で言えるほど単純ではないでしょう。

乱暴な物言いをする方の中には「最近の人間は弱くなった」とか「どんな社会でもがんばればチャンスはある」などとおっしゃる方もおられます。

「今の若者は甘えている」とか「苦労をしないからひ弱になった」などという声も聞こえます。

もし、百歩譲ってそれが当たっているとしても、次にはまた新たな疑問がわいてきます。

「なぜ最近の人間は弱くなったのか」「どうして甘えた若者が増えたのか」「チャンスをつかめむようなチャレンジ精神が希薄なのか」ということです。

「自立」への準備・訓練は進んでいるのに

人間・・・いえ、人間を含むあらゆるほ乳類に「強さ」や「チャレンジ精神」をもたらしてくれるものは何なのでしょう?

今、私たちの社会では小さいうちから「自分の足で立てる人間になる」ための教育や養育が推奨されています。

今の子どもたちを見ていると、常に「何か秀でたものを見つけよ」と尻を叩かれ、物心がつくかつかないかのうちから「将来に備えろ」と勉強や習い事に連れ回され、「だれにも頼らず、自分ひとりで生きていける人間たれ」と叱咤激励されています。

一見すると、それこそ産まれた瞬間から「自立」に向けた準備・訓練が始まっており、十分すぎるくらい行われているようにも見えます。

ところがそれにもかかわらず、「自立」が難しい人が増えている・・・この奇妙な現象をいったいどんなふうにとらえればいいのでしょうか?

猫がくれた答え

その答えを、私は最近、我が家にやってきた「弱くて」「おどおどして」「チャレンジ精神がない」ような、飼い主のいない猫から教えてもらいました。

いえ、以前から思ってきたことではあるのですが、その猫を見ていて確信したのです。(続く…

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弱くて、甘えていて、勇気がない・・・その原因をひとことで言ってしまえば「安全基地となる居場所がないから」に尽きると思います。

私たちほ乳類は、たいへんなことがあったとき、傷ついたとき、怖い思いをしたとき、病気になったとき・・・つまり何かしら危機的な状況に陥ったとき、「ここに戻れば守ってもらえる」とか「そこに帰れば慰めてもらいえる」とか「エネルギーを充填できる」などと思える、安心できる関係性を必要とします。

そうした関係性(安全基地)は精神(こころ)だけでなく、体の健康を維持するためにも不可欠なものです。

スピッツの報告

その事実を端的にまとめたのが児童精神科医のスピッツです。

スピッツは、母親から引き離された乳児は、最初はさかんに泣きますが、そのうち泣かなくなり、無表情・無反応になっていくと報告しました(1945)。
そして、その後も母親によるケアがなかった場合、乳児はホスピタリズムと呼ばれる情緒的発達および身体的発達に障害を来し、死に至ることもあると述べました。

念のため補足させていただくと、ここで言う母親とは生物学上の母親というよりも、いつでも子どもに関心を持ち、包容し、恐怖や不安を取り除いて安全感をもたらしてくれる“母的ケア”を与えてくれる養育者のことであるとご理解いただいた方がよいかと思います。

アカゲザルの実験

だから私たちほ乳類は、安心を与えてくれる“母的ケア”を求めて、自ら安全基地(養育者)に近づいていこうとする能力を持って生まれてきます。

ハーローによる有名なアカゲザルの実験(1958年)を思い出してください。

ハーローは、生まれたばかりのアカゲザルを母親から引き離し、母親代わりとして2種類の人形を用意しました。ひとつは針金でできた人形、もうひとつは温かい布にくるまれた人形です。針金の人形にはミルクを入れた哺乳瓶が取り付けられていました。

それまでの心理学では、フロイトが言うように「子どもの母親への愛着は食欲の二次的な産物」という考え方が主流でした。簡単に言ってしまえば、「物質的な栄養を与えてくれる存在こそが大切」だという考えです。(続く…

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でも、このアカゲザルの実験は、明らかに違う結論を示しました。

子ザルはおなかが空いたときにのみ、針金のお母さんのところに行ってミルクを飲みますが、空腹を満たすとすぐに布でできたお母さんのところへ戻ってしまいます。
音の出る、子ザルが驚くようなおもちゃを投げ入れたときも、子ザルは怖がって布のお母さんにしがみついたそうです。

この実験からハーローは、「愛着は生理的欲求(空腹や睡眠や苦痛など)を取り除いてくれるから母親を愛着対象とするのではない」とし、「接触(スキンシップ)による快適さこそが大切である」という考えを示しました。

スキンシップだけではダメ

でも、この実験には後日談があります。接触(スキンシップ)さえあれば子ザルはちゃんと育ったのかと言えば、実はそうではなかったのです。

布のお母さんにしがみついて育った子ザルは、成長とともに自分を傷つけたり、仲間とつきあえなかったり、無関心無気力だったり、攻撃だったりなど、その人格(猿格)形成にまざまな問題が生じました。

このことから、ただ「温かいぬくもりがあるものとの接触(スキンシップ)」があればよいというわけではないことは明白です。

大切なのは「受容的な応答関係」

いったい何が足りなかったのでしょうか?
子ザルが心身共に健康に育ち、他者と友好な関係を築き、情緒的に安定するためにはいったい何が必要なのでしょうか?

私は「受容的な応答関係」だと思っています。

怖い思いをしたり、お腹が空いたり、慰めて欲しかったりするときに、その思いや願い、ニーズをくみ取り、受け止め、応え、恐怖を取り除いてくれるような継続的な関係性がなければ、絶対にほ乳類は幸せには生きられないのです。

そしてそんな関係性を提供してくれる存在こそが、私たちほ乳類が「愛されている」「自分はここにいていいんだ」という確信を与えてくれるものなのです。(続く…

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このような感覚が得られるような関係性が母親(養育者)との間に形成されることで、
私たちは見知らぬ他者と出会ったり、外界へと出て行く不安を和らげます。

さらにはそんな関係性を保障してくれる母親が安全基地(情緒的エネルギーの補給場所)として機能しはじめ、「戻ればいつでも自分を守り、慰めてくれる存在がある」という確信を得て、何かにチャレンジしたり、外界を探索したり、自分の足で立つ自身や勇気を持つことができるのです。

猫の変化

その事実を、猫が教えてくれました。

くだんの猫は、現れた当初、ただじーっと家のデッキにたたずみ、一定の距離で私の方を見ていました。まるで声が出せないのではないかと疑うほど、一言も発っさずに。ゴハンを置いても、私が部屋に入るまではただじーっとこちらを見ていました。

そんな関係がしばらく続いたあるとき、私が家の中にいると「ナーン」とか細い声が聞こえ、ゴハンをねだってきました。しかし、私がデッキに出るとやはり後ずさり・・・。でも、甘えたいのでしょう。「ナーン」「ナーン」と、盛んに声をかけてきます。

さらに月日を重ねたある日、事態は大きく動きました。私がデッキにいると後ろから猫が近づいてきて、大きな声で甘えながら、私の足にスリスリと体を押しつけてきたのです。

猫も猿も人間も

それからと言うもの、猫はゴハンを食べた直後でも「ナーン」「ナーン」と呼ぶようになり、出て行くと「なぜて!」と言わんばかりに、体を委ねてくるようになりました。

おどおどと逃げていたのが嘘のように、家の中に入ってきては家の中を探索し、夜は先住犬の布団を奪って眠るようになりました。さらに最近では威嚇する先住猫に、毅然としてやり返し、自分のテリトリーを主張しはじめています。まるで別猫のような強さです。

自分を受け入れ、応答し、守ってくれる、安全基地ができたという確信が、その堂々たる振る舞いを可能にしたのでしょう。

猫も猿も人間も、みな同じ哺乳動物です。
もし、自立できない、弱い、チャレンジできない人が増えているのだとしたら、エネルギーを補給してくれるような安全基地となる関係性が無くなってしまっているからなのだたとは言えないでしょうか。

またまた猫の話題で恐縮です。
犬よりも猫と暮らす人が増え、日本は空前の猫ブームだそうです。「ネコノミクス」などと言い、猫が経済を押し上げているとまで言われています。

そんななか、自他共に認める猫好きで写真家・作家の藤原新也さんは雑誌(『生活と自治』2016年5月号「日々の一滴」/生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)の連載コラムでこう問いかけます。

「猫ブームとはなんぞや」


藤原新也という作家・写真家

60・70年台生まれには、藤原ファンが大勢いました。私も学生時代には、むさぼるように彼の著作を読みました。

藤原さんは、アジアやインド、東京、アメリカなどの、「観光地ではない外国」を旅して歩き、写真とエッセイによってその土地の文化や、そこに暮らす庶民の内面、人間の性や欲望を浮かび上がらせました。

また、消費に明け暮れ、モノに埋没する現代社会の病理を鋭い筆致でえぐり取り、シュールな世界を切り取った写真を次々と発表しました。

おそらく彼に憧れ、バックパックを担いで貧乏旅行をした人は数知れずいたことでしょう。ちなみに、私もそのひとり。藤原さんの著作を片手にディープな世界をたどる旅に胸を膨らませたものです。

猫はKM

そんな偉大な写真家であり、作家である藤原さんは、コラム上でこの現状を「日本人が犬化していることの現れではないか」と、次のように分析しています。

「犬はご存じのように人の顔色をうかがい、ご主人に調子を合わせる。つまりすぐれて『空気を読む』動物なのである。ひるがえって猫はどうか。猫はKMだ。その心は『空気を無視する』である」

さらにコラムには藤原さんの愛猫・クロコの写真が添えられ、こんなキャプションが載っています。

「この猫ほど空気を無視する猫も珍しい。呼んでも返事をしない。当然やって来ないばかりか時には反対方向に歩く。えさをやっても小指の先ほどしか食べず、勝手に何かをどこかで食べている。抱いても喜ばす、おもむろに立ち去る」(続く…