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前回挙げた秋葉原事件だけでなく、2001年に大阪教育大学付属池田小学校で起きた小学生連続殺傷事件や2008年の土浦8人殺傷事件について、IFF CIAP相談室の斎藤学顧問は次のようなコメントもしています。

「あの事件は、一人では死に切れなかった男が『被害者たちという道連れを手入れてようやく果たした自殺』だったように思う。彼のように無条件に愛され、尊重された経験のない子ども時代を過ごし、今も歯止めになるような他者がいない環境は人を犯罪に向かわせやすい。昨年3月に土浦で起きた八人殺傷事件や6月の秋葉原事件などの被疑者・被告人にも共通している」(『週刊金曜日』2009年5月15日号)

詫間死刑囚の生い立ち

詫間死刑囚は父親から激しい暴力を受けて育っていました。兄とともに「木刀みたいなやつ」で叩きのめされ、血まみれの母親を見る日々だったと言います。

その兄は、小学生連続殺傷事件の2年前に首つり自殺をし、宅間死刑囚もまた父親に「しんどい、メシが食えない」と言ったところ「首でもくくれ」と言われ、ネクタイで首を吊って自殺を図っていました。でも、自分でネクタイをほどき、死ぬことができなかったそうです。

そんな自分のことを後に「自殺すらできない自分が嫌になった」と供述し、逮捕後は、「早く死刑にしてくれ」と繰り返し述べていました。

「死の本能」のなせる業?

フロイトは、「すべての本能は緊張を解消し、過去の安定状態を再現することである」として、無生物から生じた生物(人間)は、かつての無生物の状態・・・つまり死へと向かおうとする傾向があるとして人間には「死の本能」があると考えました。

このフロイトの理論には弟子達の間でも賛否両論あり、私自身もかなり疑問に感じている理論です。

ですがもし、「死の本能」なるものがあるのだとしたら、なるほど確かに先に述べた死刑囚らの言動は納得がいくものです。水族館のマグロにも通じる話と言えなくもありません。(続く…

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でも、そこでまた疑問もわきます。
フロイトの理論によれば、生物(人間)には、「いきいきと生きたい」という「生の本能」もあります。通常、私たちはそのふたつの本能のバランスをとって生きているわけです。

・・・だとすると、前回までのブログで書いたさまざまな事件の容疑者とされる人々は、そのバランスが崩れてしまったのだと考えられます。「人と一緒にするな!」と怒られそうですが、水族館のマグロもそうかもしれません。

ではなぜバランスが崩れてしまったのでしょうか? 何がそのバランスに影響を与え、「生の本能」よりも「死の本能」を優勢にしてしまったのでしょうか?

状況や環境が関わっている?

やはり私はそこに、その生物(人間)がおかれた状況や環境が大きく関わっていると考えずにはいられません。

フロイトは「すべての本能は緊張を解消し、過去の安定状態を再現することである」として、「死の本能」へと向かうしました。もしそうだとしたら、自らを滅ぼしたり、他者を滅ぼそうとする生物(人間)は、「おそろしく緊張し、安定できない状態にあった」とも言えるのではないでしょうか。

もちろん、どんな状況下にあっても、人を殺したり、自殺することは認められません。しかし、命を破壊せねばならないほどの緊張下で生きなければならないとしたら、どれほどまでに辛いことでしょうか。安定を求めて自ら「無」になることを選択する人生とは、どれほど悲しいものだったのでしょうか。

相模原の障害者施設殺傷事件では

人間が破壊的な選択をする根底には、必ず不安と恐怖、そして孤独があります。そんな「不安と恐怖に彩られた孤独な人生がどのようなものであったのか」を明らかにすることは、逆に言えば、「どのようなものがあれば人間を破壊的な方向へ向かうことを止められるのか」を教えてくれるものでもあります。

7月末、神奈川県相模原市の障害者施設で、元職員が入居者19人を殺害し、26人に重軽傷を負わせるという痛ましい事件が起こりました。元職員を断罪することはかんたんです。しかし、二度とこのような事件が起きないよう、その生い立ちを明らかにし、元職員には「なぜ、このような犯行に至ったのか」を話せるような環境が与えられることを願ってやみません。

サラブレッド

 2005年に無敗の三冠馬となるなど、中央競馬GⅠで史上最多タイの7勝を挙げたディープインパクトが頸椎骨折のため安楽死となり、7月30日にこの世を去りました。17歳でした。
  
「立てなくなった馬は、安楽死させるしかない」
 
 それは愛馬アサクサ・ショウリを看取った経験がある私にもよく分かっています。

 馬の腸はとても長いため、体を動かせなくなると腸の胎動がすぐに止まってしまいます。そのうえ体が重いので、寝たままだと同じ場所に負荷がかかって内臓が壊死し始めます。いたずらに延命措置をすれば、馬は苦しんで死んでいくことになります。


「いじめ自殺」した子の遺書が浮かぶ

 しかし、ディープインパクトの安楽死のニュースは「引退馬がどうして頸椎損傷で手術を受けたのか」との疑問がわき、気になってネット等で調べてみました。

 それらを簡単にまとめると、「今年に入って順調に種付けをこなしていたが、3月に入って種付けで立ち上がる動作をするときに痛みがあり大事を取ることにしていた。その後、頸部に異常が見つかって7月28日に手術を行った。手術は無事終了したものの29日に突然起立不能になった。30日早朝のレントゲン検査で頸椎骨折が見つかり、回復の見込みが立たないことから安楽死の処置が取られまた」ということでした。

 私の脳裏には、IFF時代にブログ(「本音を言えない子どもたち(5)」で書いた2006年にいじめを苦に自殺した福岡市の中学2年生(男子)の遺書が浮かびました。
 彼は、「生まれかわったらディープインパクトの子どもで最強になりたい」「お母さんお父さんこんなだめ息子でごめん 今までありがとう」との言葉を残して命を絶ちました。

 ジョッキーになりたかったという彼が最後まで憧れたディープインパクトの一生ははたして幸せだったのでしょうか。

競争原理の犠牲者

 私は「無敗の名馬」ともてはやされたディープインパクトならば、きっと余生はのんびりと暮らせると考えていました。
「優駿になれなかった馬たち」のように、厄介者としてきちんとした世話もされずに各地を転々とさせられたり、お肉になるということもなく、のびのびと草を食みながら天寿をまっとうするに違いないと信じていました。

 ところがそうではなかったのです。「優秀な血を残す」ために種馬として働かされていた・・・私は少なからず衝撃を覚えました。

 確かに馬は経済動物です。人のために働き、ときにお腹を満たしてもらうことがあっても否定はしません。ただその仕組みややり方に疑問を感じるのです。これについてもIFFのときにブログに書きましたので興味のある方はそちらを参照してください(「愛馬が教えてくれたこと(3)」)。

 せめて、命への尊敬はあってしかるべきです。自分たちに夢を与え、実質的な利益も与えてくれた者に対して、感謝を持って接するという姿勢は必要ではないでしょうか。

 無敗の王者として君臨した強者ディープインパクトでさえ、「取るに足らない自分」の恨みを他者にぶつて悲劇を生んだ「京アニ放火事件」の容疑者と同じ競争原理の犠牲者でしかなかったのだと思うと、やりきれない思いでいっぱいです。