暴力の裏に隠された意味(4/5)
詳しくは前回ご紹介した本を読んでいただくとして、少しだけ説明させていただきます。
文字に出会うまでの高野さんの半生は、「壮絶」のひと言につきます。
高野さんは、満州で父と死に別れ、引き上げの途中で母とはぐれ、泣き叫ぶ赤ん坊を自ら殺す母親の姿を見ながら日本に戻りました。
日本に着いてからは、元将校を名乗る男に物乞いの道具として利用され、文句を言ったところ殴られて捨てられ、次に拾われた農家ではほとんど飲まず食わずでこき使われ、嫌になって飛び出しました。わずか10歳の頃です。
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腹ぺこでうろついていたとき、大邸宅の芝生の庭で犬が肉を食べている姿を見て、無性に腹が立ち、石を投げたら警察につかまったのですが、自分の名前も書けなかった高野さんは「精神異常者」と言われ、放免されたそうです。
その頃の高野さんは、いつもジャックナイフを懐に入れ、ケンカやカツアゲを繰り返し、暴力によって、自分で自分の身を守っていました。
前回書いた「言葉を奪われたら、暴力に訴えるしかないじゃないか」というセリフは、当時の自分を振り返った高野さんが、自らの行動を述懐しての言葉です。
語る言葉を持たない、書く文字を持たない、聞いてくれる人を持たない、人として認めてもらえない高野さんにとって、「自分の思い」を伝えるには暴力に訴えるしかなかったのです。
高校生によるプレゼンテーション
高野さんのその言葉を思い出したのは、それから5年後のことです。ひとりの高校生が、子どもの権利条約に基づく国連「子どもの権利委員会」委員の人たちへのプレゼンテーション(1998年)で、こんなふうに言ったのです。
私たち子どもは「子どもだから」と話合う場を用意されず、学校では言うように教えられても言う場を与えられず、もし意見を言っても聞いてもらえません。
また、意見を言わなくても生きていける、物質的には裕福な社会にいます。逆に意見を言ったために周りから白い目で見られ、孤立させられてしまうなど、時にも思いもよらぬ不当な扱いを受けることもあります。
そうしているうちに、多くの子どもたちは意見を言うのを恐れ、また言っても変わらない現状に疲れ、自分の意見を主張するのを止めていきます。
本人も言うとおり、世界的に見れば日本は豊かな国です。今から10年前は、今よりもずっと「中流思考」が強く、「日本は豊かな国だ」という意識は、もっと強かったように思います。
そして、高校生はそんな日本という国に暮らす恩恵を受け、文字も、言葉も、学校教育も、手に入れていました。
ところが、「たとえ言葉があっても、『言う場』が無く、『聞いてもらえる場』も無い」と訴えたのです。
酒鬼薔薇事件の犯行声明文
その前年(1997年)の夏には、酒鬼薔薇事件と呼ばれる14歳の少年による小学生を殺害し、その頭部を中学校の校門前に置くという衝撃的な事件が起きていました。
後に少年Aと呼ばれた彼が神戸新聞に送った犯行声明文にもまた、「文字を知っていても、語る場も、認めてくれる人もいない」悲しみと怒りが綴られていました。
以下は犯行声明文の抜粋です。
しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行為はとらないであろう
やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない。
このA少年が秋葉原事件の容疑者と同い年であることは、よく知られています。(続く…)