「歴史は心的外傷を繰り返し忘れてきた」・・・心的外傷(PTSD)の研究で有名なアメリカの精神科医であるジュディス・L・ハーマン氏の名著『心的外傷と回復』(みすず書房)第1章のタイトルです。

ハーマン氏は、抑圧した辛い記憶が不合理な身体症状や現実感の欠如または記憶の障害(ヒステリー症状)の研究、戦争体験による外傷、女性の性的外傷の研究が、活発に行われたかと思うと、あまりにも激しく忘却されてしまう時期があることを示し、「なぜ忘却されてしまうのか」をここで書いています。

心的外傷が忘れられがちなわけ

この章に記されている心的外傷が忘却されがちな理由をごくごく簡単にまとめると次のようになります。

「①心的外傷に関する内容は身の毛もよだつ恐ろしい事件であり、その証言者として目をそらさずに見つめ続けることが難く、②また、加害者は圧倒的に強いため、世論を見方に付ける術に長け、被害者の声はかき消されてしまう。③さらに、そこで取り扱われるテーマはきわめて激しい論争を巻き起こすため、『見るもけがらわしいもの』と周囲の人々には見えてしまい、第三者は忘れたいと願ってしまうのだ」

平たく言えば、「人は辛くなってしまう出来事をできるだけ見ないようとし、なるべく早く忘れようとする習性を持っている。そして、加害者は強く狡猾なため、よほどしっかりと目を見開いていない限り、人は被害者よりも加害者側の味方になりがちなものなのだ」ということでしょうか。

『少年と自転車』

第64回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した『少年と自転車』というベルギー映画があります。

映画の中心人物は、もうすぐ12歳になる少年・シリル。シリルは、自分を児童養護施設へ預けたまま行方が分からなくなった父親と「一緒に暮らしたい」と、父親を探します。

そんなシリルとひょんなことから出会った美容師のサマンサは、シリルが「父親が買ってくれた自転車だ」と言う自転車を探し出し、現在の持ち主から買い取ってくれます。
そして、サマンサはシリルの週末だけの里親を引き受け、一緒に父親の行方を探し、とうとう父親の家を見つけます。ところが、再会を果たした父親は「もう来るな」と、扉を閉じてしまうのです。

その後、サマンサは今まで以上にシリルと向き合い、愛情を注ぐようになります。
でも、父親からの拒絶という深い傷を負ったシリルの心はそう簡単には癒えません。さまざまな障害がふたりを待ち構えています。(続く…

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「どんな障害が待っているのか?」と、気になる方はぜひ映画を観ていただけたら、と思います。
ここでは私がなぜ映画『少年と自転車』に興味を持ったかをお話します。

それは、脚本と監督を手がけたジャン・ピエール氏とリュック・ダルデンヌ氏の記者会見の模様を偶然、テレビで見たからです。

映画制作のきっかけ

たまたまつけた番組で、チラッと見ただけですので正確な文言ではありませんが、兄弟であるふたりの監督は、『少年と自転車』制作のきっかけについて次のような趣旨のことを話していました。

「以前、来日したとき、ある弁護士から児童養護施設に預けられた子どもの話を聞きました。その子は、『迎えに来る』と約束した父親を屋根に乗ってずっと待っていた。でも、父親が迎えに来ることは無く、その子はやがて父親を待つことを止め、暴力の世界へと入っていったのです。『親に捨てられる』というこの上なく大きな暴力を振るわれた子が、暴力を振るう人間になるのは当たり前なことですし、父親のような存在である年上の非行少年に『認められたい』という気持ちも分かります。でも、その子の生い立ちに興味はありません。『どうしたら暴力の連鎖を止められるのか』を考えたのです」

映画のダイジェスト版が流れ、監督の上記のような発言を聴いたテレビのコメンテーターらは、「深いですね」と、口々に感心したようにつぶやいていました。

忘れっぽいのはなぜ?

だけど不思議に思うのです。

「映画の話」であれば、「暴力を受けた子どもが暴力を振るう人間になること」を抵抗なく受け止められるのに、現実の少年事件に対しては、どうしてそう思えなくなってしまうのでしょうか。

「映画の話」であれば、「暴力を止められるのは、その暴力を封じ込めるための暴力などではなく、暴力を振るわざるを得ないその子の悲しみに共感し、その存在を受け止め、常に寄り添ってくれる“だれか”なのだ」と、すんなりと入っていくのに、現実の非行少年に対しては厳罰化によって対処しようとするのでしょうか。

現実の世界では、親に捨てられたり、親に存在を無視されるという心的外傷ともなる仕打ちを受けた子どもに対して、その子の辛さや切なさに寄り添うのではなく、「頼る人間はいないのだから、少しでも早く自分の足で立て!」と尻を叩くのでしょうか。

感動した映画を現実の世界に当てはめられないほど、なぜに私たちは忘れっぽいのでしょうか?(続く…

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今まさに、私たちの忘れっぽさを象徴する事件が世の話題をさらっています。
「大津いじめ事件」です。

報道では、いじめた少年たちを厳罰に処せとの意見が日を追うごとに増え、さらには「いじめた側の少年への出席停止」の活用が「10年間に全国で23件しかなかった」と言い放つ記事も見られます(いじめた側出席停止、10年で23件)。

真の加害者の狡猾ぶり

そこには、「加害少年はなによりもまず被害少年である」という視点も、「なぜいじめられた子どもがそれを周囲に告げることができないのか」という、いじめを無くすための根本的な議論もありません。

いつも通り、あらゆる責任をいじめた少年たちに押しつけ、他者をいじめざるを得ないところに追い込んだ本当の加害者(社会やおとな)の責任は棚上げです。

ハーマンの言うとおり、真の加害者のその狡猾ぶり、厚顔無恥ぶりにはあきれるしかありません。

94年のいじめ自殺事件でも

同じ状況はいじめ自殺が話題になるたびに繰り返されてきました。次第に加害少年へのバッシング、厳罰の適用という意見を強めながら。そして、いつの間に忘れられ、根源的な問題は温存されてきました。

今から18年前の1994年には愛知県の中学生(当時13歳)だったKくんが、いじめられていた事実を記した遺書を残して自殺しました(悲劇いつまで 18年前に息子失った愛知の大河内さん)。

そのときも、政治家や各メディアは、いじめのむごさといじめっ子の極悪非道ぶりをことさらに協調し、いじめっ子の責任を追及しました。

Kくんの自殺後に開かれたいじめ緊急閣僚会議や文部省(当時)いじめ緊急対策専門家会議などでは、「すべていじめる側が悪い。傍観者であるということは、そのことですでにいじめているのと同じだ。どんなことがあっておいじめは絶対に許されないということを分からせるためにも、いじめっ子たちを見つけ出し、その責任を追及し、厳罰に処さなければならない」といった主旨の認識と対策が提唱されました。(続く…

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このKくんの事件後、「いじめ撲滅キャンペーン」が再燃したのは「生まれかわったらディープインパクトの子どもで最強になりたい」との言葉を残して福岡県筑前町の中学2年生の男子生徒(13歳)が自殺した2006年でした。

今回と同様、そのときもこの男子生徒の自殺を受け、その前後に起きていたいじめ自殺についても大きく報道されました。

そして、こうした動きに触発されたように、いじめを苦にしての自殺を予告する手紙が東京都豊島区の消印で届くと、伊吹文明文部科学大臣(当時)や東京都教育委員会の中村正彦教育長(当時)も、アピール等を出し、「決して死なないように」と励ましました。
アピールの詳しい内容を知りたい方は、「いじめ自殺(1)~(3)」の回を読んでください。

命を賭けたメッセージなのに

こうやって何年かに一度、いじめ自殺は大きく取りざたされるものの、いじめが無くなることはありませんでした。

インターネットや携帯電話の普及によって「学校裏サイト」を使うなど、仮想世界でのいじめが増え、実態が分かりにくくなってはいきましたが、教員の方々に尋ねると「実感としていじめは増えている」と答える方が大多数でした。

つまり、ここ数十年の間に繰り返されてきた「いじめ撲滅キャンペーン」はなんら功を奏することはなく、いじめは水面下で着実に増えていったということです。

非常に残念かつ申しわけないことですが、私たちおとなは、Kくんをはじめとするいじめられた子どもたちが、命を賭けて訴えたメッセージをきちんと受け止め、それを活かした対策を取ることはできていなかったわけです。

同じ轍を踏みそうな予感

また今回も、同じ轍を踏みそうな予感がします。

報道を見る限り、大津いじめ事件に対する社会(おとな)の関心は、学校や教育委員会の隠蔽体質や無責任体制や加害者の責任追及、学校現場への政治・警察の介入の必要性に向けられています。
過去のいじめ自殺事件のときと同じです。

平野博文文部科学大臣は、「文部科学省が直接調査することもあり得る」として政治主導で取り組む方針を明らかにしました。大津市長の発言を皮切りに「教育委員会制度の抜本的見直し」が叫ばれ、警察と連携していじめを「犯罪」として取り締まり、いじめっ子には罰を与えるべきだという意見が正論として大手を振っています。(続く…

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いえ、過去のいじめ事件のときよりもひどいかもしれません。

これは私の印象に過ぎないのですが、今回の事件が「教育委員会解体論」に吸収されていくように思えるのです。

今の教育委員会の在り方が良いとか、悪いとかの議論はまたの機会にして、「なぜ解体論に結びつきそうなのか」だけを述べたいと思います。

ひとつめの理由

理由はふたつあります。ひとつは、この事件をメディアが最も頻繁に取り上げていたのと同時期に、やたらと教員の不祥事が報道されていることです。
興味のある方は、Yahooニュースの「教員の不祥事」を見てください。
5月以降しか載っていませんが、7月中旬からの報道件数が以上に伸びています。

もちろん、大津いじめ自殺事件によって学校や教育委員会がバッシングされていた時期ですので、単純に関連する報道が増えただけなのかもしれません。しかし、タイミング的に「このまま教育委員会に教育を任せておいたら大変なことになる」というムードを高めることも事実です。

報道を利用?

そして以前、このブログの「子どもが危ない」でも書いたように、権力を持った人々がある法律をつくりたいとか、社会体制を変えたいと思っているとき、こうして報道を利用し、国民の心理操作を行うことはめずらしくありません。

たとえば、監視社会をつくるために「子どもが狙われる事件が増えている」と国民の不安感を煽ったり、組織的犯罪対法や(盗聴法)、住民基本台帳法一部改正(国民総背番号制の導入)などを成立させるため、メディアが使われてきたという事実があります(子どもが危ない(5/6))。

だから今回も、「何か意図的な操作が働いているのではないか」と勘ぐりたくなってしまいます。

大津市長の発言をセコンド

もうひとつは、前回のブログで紹介した大津市長の「教育委員会制度の抜本的見直しが必要」との発言を受け、「待ってました!」とばかりに、かねてより「教育(内容)は政治家主導で行われるべき」と主張していた人々がすかさずセコンドしたことです。

その代表格は橋下徹大阪市長でしょう。(続く…

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橋下大阪市長は、知事時代からずっと「教育委員会はいらない」「教育は政治家主導で行われるべき」と主張してきた人です。

それを実現するための手段も選びませんでした。

多くの問題をはらみつつ43年ぶりに復活した全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)も利用されました。この制度を使って、橋下氏がどんなふうに教育委員会を脅し、無力化したのかについては、『暴力の裏に隠された意味(2)』をご覧いただきたいと思うのですが、これを契機に教育委員会は、なし崩し的に橋下氏に従うようになっていきます。

暴君は一気に力を持つ

その教育委員会の様子は、いじめを受けたり、暴力を受けたりした者が、力を奪われ、どんな理不尽なことにも従い、いっさい抵抗できなくなるのと似ていました。橋下氏の言動にうろたえ、怯え、プライドを売り渡していってしまったのです。

腰の座らない教育委員会を見ていた周囲(一般市民)の多くは、橋下氏の狡猾さに目をくらまされると同時に、おどおどとした教育委員会に嫌気が差し、橋下氏の論調に引っ張られていきました。

こうして相手が抵抗する気持ちを失い周囲がそれを黙認すると、暴君は一気に力を拡大します。

管理統制がマネジメント?

今年、大阪府では、知事が教育目標を設定できたり、教育委員を罷免できたり、教員を「評価」の名の下で自由自在にコントロールできたりする教育関連条例が次々と成立しました。(大阪府議会、教育・職員条例が成立 4月1日施行へ

どれも成立した大阪「君が代条例」に続く、橋下氏肝いりの教育管理統制条例です。これらの条例ができたことによって、教員は校長の、校長は教育委員会の、教育委員会は首長の命令に従わざるを得なくなりました。
もちろん、何を命じるかは、すべて首長の考え・気持ち次第です。

橋下氏はこうした首長の独裁体制を「指揮命令系統が機能し、組織が決めたルールに従うようマネジメントできている状態」と呼び、「選挙で選ばれた首長の命は民意である」と言ってはばかりません。

条例によって、現場の教員は目の前の子どもひとりひとりの思いや願いを受け止めるよりも、上の人間の命に従うことを優先せざるを得ず、結果として子どもは成長・発達のための大切な基盤を失ってしまいますが、そんなことはおかまい無しです。(続く…

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そんな橋下流教育マネジメントを知れば知るほど、「上からの管理・統制を強め、教育委員会を無くし、政治家主導の教育ができるようになれば本当にいじめが無くなるのか?」という疑問が大きくなります。

そもそもなぜ、子どもの世界にいじめが蔓延しているのでしょうか。学校が、教育委員会が保身に走り、いじめの事実を隠蔽することにやっきになっているのでしょうか。

競争や序列化が“普通”になる中で

その原因は、教員も子どもたちも管理され、統制され、評価によって縛られ、学力を中心とした競争や序列化が“普通”になってしまった学校教育体制にあります。

90年代以降、効率よく国際競争社会で役立つ人材を育成するべく、経済界と一緒になった政治家が教育を操り、教員や教育委員会をぎゅうぎゅうに締め上げてきました。

学力以外の価値は学校から排除され、たとえ勉強はできなくてもひとりひとりの子どもが、「自分は大切な存在だ」とか「ちゃんと認めてもらえている」などと思える機会はほとんど無くなってしまいました。
子どもたちはその憤りやストレスを「自分の能力が無いから」と、黙って抱え込むしかなくなりました。

そうした鬱屈した感情は、いつも子どもの心に渦巻き、はけ口をさがしています。だれかをいじめることは、この出口のない感情を一時、軽くしてくれることに役立ちます。

追い詰められた教師は

一方の教員たちは、人事考課や評価によって縛られ、隣の教員と競わされ、お上の望む結果を出すよう迫られるようになりました。
校長権限の強化や、学力テスト、学校選択制や教員免許更新制度などなど、ここ20年の間にできあがったさまざまなツールが、教員を競争と序列化、そして服従のベルトコンベアへと駆り立てます。「みんなでひとりの子どもを支えていこう」という雰囲気は奪われていきました。

クラスに問題がある子がいたり、学級運営がうまくいかないことは「教師の個人的責任」にされ、評価に響きます。学校に問題があれば、管理職は教育委員会から指導力不足を責めたてられます。

過酷なシステム

そんな過酷なシステムの中で、どうにかして子どもと向き合おうとがんばっている教員がいることも確かです。しかし、それができず、もしくは諦め、毎日を乗り切ることでせいいっぱいの教員が多くいることも、悲しい事実です。

そんな状態であれば、鬱屈した思いを抱えた子どもがいても、それに向き合い、手当てすることなどできません。結果的に、何か問題があったとしても「見ない」「触れない」「動かない」まま放置されることになってしまいます。(続く…

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橋下流の強力なマネジメントなど導入しなくても、すでに教育現場には管理・統制が行き届いています。

管理・統制が、教師を追い込み、人と人との関係を分断し、人間らしい情緒的な営みを破壊し、子どもの成長・発達となる教師との関係を奪っています。その結果、子どもが人の痛みに共感したり、生命を尊重したりすることができるような人格に向け、成長・発達できる機会が奪われてしまったのです。

いじめは、このような非人間的な学校教育にむりやり適応を迫られたストレスや苦しさを訴える子どものメッセージです。

そこに産業界の望む人材育成しか頭にない橋下流教育マネジメントが持ち込まれれば、教員も子どもも、今よりもさらに追い詰められます。

直面化するのは辛いことだけど

私たちおとなが「よかれ」と思ってつくりあげた社会の中で、こんなにも子どもたちが苦しんでいると認めることはとても辛いことです。

私たちおとなが標榜する経済発展や社会の価値観が、いじめっ子を生みだし、いじめを助長していると認めるよりも、「いじめる子ども自身に問題があるのだ」と考え、いじめっ子を厳罰に処する方がはるかに楽でしょう。

いじめっ子と教育委員会、学校や教員をつるし上げ、警察の力を借りて取り締まりを強化すればよいのだとの主張に乗っかっていれば、社会全体が抱える問題、ひいては私たちひとりひとりの問題とも直面化せずにいられます。

ハーマンの言うとおり、「人は辛くなってしまう出来事をできるだけ見ないようとし、なるべく早く忘れようとする習性を持っており、加害者は強く狡猾なため、よほどしっかりと目を見開いていない限り、人は被害者よりも加害者側の味方になるもの」なのです。

命を賭けたメッセージに応えるために

しかし、そうやって真実から目を背け続けている限り、子どものいじめも、いじめ自殺もけっしてなくなりません。

それどころか、人々をだまし、己の利益追求にやっきになっている輩に、私たちの盲目ぶりが利用されてしまうことにもなります。

今こそ私たちおとは、しっかりと目を見開いて狡猾な加害者の嘘を見破り、「何が起きているのか」を見極めなければなりません。いじめの根本原因を絶つため、人と人との関係性が生きた人間的な教育へと立ち返らなければなりません。

それができてはじめて、いじめによって死を選ばざるを得なかった子どもたちが、命を賭けて発したメッセージに応えることになるのですから。

最近、非常に興味深く読んだ文献がふたつあります。

ひとつは、逆境的小児期体験(Adverse Childhood Experience : ACE)についての『逆境的小児期体験が子どものこころの健康に及ぼす影響に関する研究』 という論文です。

ACE とは、子ども時代の虐待だけを指すのではありません。「家族に大事にされていない」 「家族の仲が悪い」「だれも守ってくれないと感じた経験」などのストレス要因と、家族内に依存症や精神疾患あった、別居や離婚などによる親との別離、母親への暴力・暴言の目撃など、機能不全家族による逆境的境遇のことです。

ACE が成人期以降の心身の健康に影響を及ぼし、その体験は時の流れによってに癒されるものではないということが明らかになっています。

肥満治療がスタート

ACE研究をアメリカの疫学予防研究センターと共同研究を行ったフェリッティは、もとは肥満治療の専門家でした。どうしても減量できない患者たちの原因究明のための面接で、多くの患者が子ども時代のトラウマを語り、その辛さを解決するため、食べ続けていたことが分かったのです。

フェリッティらは、 小児期に逆境体験が多いほど、社会的、情動的、認知的な問題を可能性が高まり、その結果、暴飲暴食など生活習慣の乱れや、薬物依存や疾病などの危険が高まること。また、犯罪など社会不適応になることも増え、結果として早世の可能性が高まるとし、ACE が寿命に及ぼすメカニズムとして提唱しました。

ACE研究が、「トラウマ体験を持つ子ども」の調査や研究から始まったのではなく、「おとなになってからの健康状態や社会適応の状況」からスタートしたというのは、大変、興味深いことです。
その後のさまざまなACEに関する研究が、ほぼぶれることなく、一様な結果に結びついているのも、そのためでしょう。

日本におけるACE研究では

こうしたACE 研究は、日本ではまだあまり行われていません。

そうした中で、見つけたのが冒頭に紹介した論文でした。論文執筆者である医師らは、自身が関わる「ひとり親家庭」と「乳児院入所児 の保護者と子どもを対象に調査を行い、たとえば「ひとり親家庭」では、反抗挑戦性障害の発症リスクが2倍、反応性愛着障害3.87倍、PTSD3倍、解離性障害7.8倍となるとしました。

もうひとつは『子育てに苦しむ母との心理臨床 EMDR療法による複雑性トラウマからの解放』(日本評論社)です。とくに、第2章「子育て困難と複雑性トラウマの理解」と第3章「EMDR療法による支援」を興味深く読みました。

「よい子モード」だけで生きてきたがゆえに

第2章で筆者の大河原美以氏は、「日本人の場合、一次解離の防衛が機能することで、『(怒りを表出しない)よい子』の自我状態を実現することが『適応』にほかならない側面があるのです。そのため、『スモールt(trauma)だけの体験であっても複雑性トラウマ状態に陥りますし、無意識のうちに複数の自我状態を抱えます。しかし、そのまま症状化はしていない『ふつうの人』がたくさん存在します」(103頁)と述べています。

そして、その理由を「親に愛されるために必要な自我状態だけが『よい子モード』となり、親に愛されるという目的のために邪魔な自我状態は遠ざけられる」(101頁)とし、「出産したあと子育て困難に陥る方たちのほとんどが、この状態にあります。出産前は、『よい子モード』だけで安定して生きることが出来ていたのに、出産したら、これまで封印していたモードが無意識のうちに登場して、混乱が生じてしまう状態です」(103頁)。

日本特有の文化が関係

この記述を読み、私は思わず膝を打つ思いでした。何人ものクライアントさんが、頭に浮かびました。

第3章では、その要因として、日本特有の次のような文化が、複雑性トラウマに陥りやすくさせているのではないかと書いています。

「日本人の場合、基本的に『怒りを表明することは控えるべきこと』という文化のもとで生きているので、つらい経験はたやすく封印され、一次解離(正常な防衛としての解離)のレベルであっても、自我状態がその不快な感情を抱え込んでしまうのではないか」(146頁)

複雑性PTSDとは

ここで、複雑性PTSDについても簡単に記しておきましょう。複雑性PTSDは、 2018年に世界保健機関(WHO) の改訂版国際疾病基準 (ICD-11) で採用されたばかりの比較的新しい概念です。

PTSD同様、衝撃的な経験・体験により発症し、フラッシュバックや悪夢などの従来の特徴に加え、①感情制御の困難、 ② 自分への無価値観、 ③ 人間関係構築の困難などがあります。

PTSD が事故や自然災害のような単回性の外的要因によって起こるのに対し、 複雑性PTSDは長期間にわたり、 繰り返し衝撃的な経験・体験にさらされることによって引き起こされます。
たとえば、 本来、最も愛してくれるはずの親による虐待や、いちばん安心できる場所であるまずの家庭で体験する ACE(逆境的小児期体験) などが関連するでしょう。