私たちは、「PTSDの原因となるトラウマ体験」というと、 生死にかかわるような大きな危機を想像します。

しかし、
「ネガティブな感情表出をよしとしない文化のなかで生きる日本人の場合は、小さな危機だけでも十分に複雑性トラウマの様相を呈する」
という大河原氏の指摘通りだとしたら、通常、虐待とは思わないような行為――たとえば親の別居・離婚、それに伴う片方の親との別離、幼い頃からの受験勉強、親の期待に向けての叱咤激励などーーも、十分に複雑性PTSD の発症リスクとなりえるということです。

日本社会の「べき信仰」

ここからは私見ですが、親との関係を超えて、ネガティブな感情を表出しにくい、 日本社会の特徴があるような気がしています。いわゆる 「べき信仰」 です。

「子どもは無邪気で素直であるべき」
「親は子どもを愛して何よりも優先すべき」
「家族は両親がそろっていて子どもを持つべき」・・・。

そんなたくさんの「べき」 が暗黙の了解として、日本社会には存在します。
そんな「べき」からはみ出したり、違う形をしていると、「それは他言するのがはばかられる、隠すべきこと」ととらえられがちです。

たとえば離婚をめぐって

たとえば、昨今の日本では、三分の一は離婚するという現実があるのに、未だに離婚は「極力避けるべきこと」と考えられ、シングルマザーは「気の毒」で、離婚家庭の子どもは「かわいそう」と思われがちです。

そうした空気を敏感に感じる子どもたちから、こんなセリフを聞いたことがあります。

「友達から 『お父さん (お母さん)はいないの?』 と言われた」
「うちは(離婚しているから) 普通の家ではない」
「お母さんと苗字が違うのは変だと指摘された」

「怒る」ことも許されない

このように日本社会にはネガティブな感情を抱えやすい場面がたくさん存在するのに、そこで感じた気持ちをありのまま出すことが許されないわけです。

「友達にそんなことを言われれる筋合いは無い」
「親のせいでこんな思いをしている」
「どうして自分の悔しさ・悲しさをおとなは分かってくれないのか」

と、怒ってしかるべきなのに、そうした感情・思いは封じられていきます。

「怒り」は生き延びるために必要な、最も原始的な意見表明の方法です。
乳児が泣くのは、そこにそのまま捨て置かれたら死んでしまうという恐怖があるからです。だから「こんなところにほおっておくな!」と泣き叫び、助け (関係性)を求めるのです。

さらに言うと、乳幼児は、自分の泣き叫びを受け止め、応えてもらうことによって、「自分は大切なのだ」という自己肯定感や、 「助けを求めれば周囲は手を差し伸べてくれる」という基本的信頼感を育てて行きます。

コロナ禍で増える「~べき」

こうした感覚は、辛く困難が多い人生を生き延びていくために、不可欠なものです。
「怒り」を安心して表出し、受け止められる経験がなければ、自己否定感のほうが強くなり、他者を頼れない孤独で寂しい人間にならざるを得ません。

泣き叫びから、他者に伝わりやすい態度や言葉、やがては意見表明へと洗練されていくはずの「怒り」の表出方法も拙いままになります。それでは、タガが外れれば、制御不能のマグマとして噴出してしまって当然でしょう。
恐ろしいことに、適応的な 「良い子モード」の強要は、コロナ禍を経て、近年ますます加速しているように見えます。あらゆる場所で許容範囲が狭まり、「~べき」が増えているように感じます。

「良い子モード」のトレーニング

たとえば電車の中。「リュックは前に」「会話は控えめに」「席は詰めて」・・・と、 たくさんの「~べき」 のシャワーを浴びせられます。
そんな日本社会では、公共の場所で子どもが駄々をこねたり、大泣きしたりしていたら、鋭い視線が注がれます。親たちは「他者の目」を気にし、子どものコントロールを強めます。

そうして知らず知らずのうちに、空気を呼んで、 同調し、その場に適応するよう、子どもに要求していくのです。それは「良い子モード」でいるよう、子どもをトレーニングしているようなものです。
そのなれの果ては、低い自己肯定感、強い孤独感、低い精神的幸福度を持ったおとなです。そんな不幸な人生を子どもに歩ませるかどうか。それは私たちおとなにかかっています。