またまた本からの引用になってしまいますが、今回のタイトルは80年代にアメリカで、90年代に日本で話題となった精神科医で心理療法カウンセラーのM・スコット・ペックの本からお借りしたものです。

スコット・ペックは、診療室で多くの人々と出会った経験から、「世の中には“邪悪な人間”がいる」と考えるようになり、個人から集団まで、人間に宿る悪の所業とその心理的側面を『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』(草思社)として記しました。

“邪悪な人間”とは?

スコット・ペックの言う“邪悪な人間”とは、次のような人間です(同書のカバーより)。

「どんな町にも住んでいる、ごく普通の人」
「自分には欠点がないと思い込んでいる」
「異常に意志が強い」
「罪悪感や自責の念に耐えることを絶対的に拒否する」
「他者をスケープゴートにして、責任を転嫁する」
「対面や世間体のためには人並み以上に努力する」
「他人に善人だと思われることを強く望む」

そしてスコット・ペックは、こうした邪悪な人たちは、「過度のナルシシズムを持ち、他者を支配し、他人の精神的成長を破壊する力を振るう」と指摘し、実際にどうかは別として邪悪な人たちは苦しんでいるように「見受けられない」と書いています(同書167~173ページ)。

「邪悪な人」と呼ぶことへの抵抗感

確かに、精神科医や心理療法家の診療室だけでなく、こうした人間はどこにでもいます。逆に、出会わない方がめずらしいのではないでしょうか。

上記に書いたような人たちを「邪悪な人」と呼ぶかどうかは別として、「犯罪者だとか、大きな悪事をはたらいたなどという“特殊な人間”だけが問題のある人なのではない」という部分には、とても共感できました。

でも、一方でどこか違和感も感じました。
きっと、本全体に漂う、邪悪な人に対する嫌悪感のようなもののせいでしょう。

もちろんスコット・ペックは素晴らしい治療者です。
「個人の邪悪性は、ほとんどの場合、その人間の子ども時代の状況、親の罪、遺伝的なものにある程度まで追跡可能なもの」と述べていますし(175~176ページ)、診療室で、こうした人々をどうにか変化させようと努力していることも十分に伝わってきます。

それでも私には、ある種の人間を「邪悪な人」と呼んでしまうことに抵抗を感じたのです。(続く…

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「たとえどれほど極悪非道な悪事を働いた犯罪者だとしても、その人がそのような人間にしか育つことができなかった悲しみや辛さを忘れるべきではない」

私はずっと、そんなふうに考えてきました。もちろん、今でもそのように思っています。
その人の犯した罪は、もちろん責任を問われるべきことですが、その人が罪を犯すような人間にしか成長できなかった責任までをその人に負わせることはできないのですから・・・。

やっぱり邪悪な人はいる?

ところが最近、そんなふうに考えられなくなることがたびたびあります。M・スコット・ペックが言うように、「邪悪と言わざるを得ない人は確かにいるのではないか」との思いが、よく頭を過ぎるのです。

そう私に思わせる代表格は、なんと言っても野田佳彦首相です。

もちろん民主党が世間で言われているようなリベラルな政党ではないことは、与党になる前から百も承知でした。

「国民の生活が一番」「チルドレン・ファースト(子どもが一番)」などの耳障りのいいキャッチフレーズで、子育て世代をあたかも応援するようなふりをしてはじめた子ども手当や高等教育の無償化も、実は福祉の色合いを削り落とし、格差を固定するための装置に過ぎません。

実際には、子育て・教育分野への企業参入を促してサービスを家庭の経済事情に応じて買わせるための施策でしかなかったのです(詳しくは「新政権によって子ども施策はどう変わる」や「真夏の怪(5)」等をご覧ください)。

民主党の本性

民主党が子どもや国民のことなどまったく考えていない政党であることは、教育基本法「改正」(2006年)前に民主党がまとめた日本国教育基本法案を読めばよく分かります。

ときに子ども観・教育観は、その人(党)の本性や価値観を驚くほどリアルに現してくれます。

民主党の日本国教育基本法案からは、自己決定・自己責任によって積極的な消費活動を行い、競争・格差社会を受け入れてがんばり、分に応じて自らの能力を財界(国)に捧げることを厭わない市民を育てようという意図が、びっくりするほどよく見えました。

まちがってもひとりひとりの子ども、子どもがすくすくと育つことができるような家庭・・・ひいてはおとなも幸せにいきられるような社会をつくろうとしていないことは明確でした。(続く…

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そうした真実はあったとしても、「チルドレン・ファースト(子どもが一番)」と言い続け、その実現に向けた施策として公約に掲げたものを守り続けることは大切だったはずです。

前回のブログで述べたように、子ども手当に象徴される「お金を配って、保護者それぞれの経済力に応じたサービスを買わせる」という民主党の各子ども施策は、実際には子どもを福祉から遠ざけるものではありますが、民主党らしい子ども観・子育て観を映しだした政策であったことは確かです。

目玉の子ども施策の転換

ところが野田首相は、民主党の目玉だった2つの子ども施策をいとも簡単に撤回してしまいました。

そのひとつが保育(子育て)改革「子ども・子育て新システム」(「新システム」)の中核を担う「総合こども園」の創設撤回です。まずはこれが自民公明両党が言う「『認定こども園』の拡充」になりました。

もうひとつは、「子ども手当」が自公政権時代の「児童手当」に戻ったことです。
「児童手当」と「子ども手当」との大きな違いは、所得制限が復活したことです。たとえば夫婦のどちらかが働いていて、子どもが2人いる世帯の場合、年収960万円以上だと手当は出ません。
高所得世帯には“当面”子ども一人につき一律5000円が支給されることになります。

国民を欺く人

念を押しておきますが、私は民主党の言うような「総合こども園」も、「新システム」も、「子ども手当」も、まったく歓迎などしていません。
ただ子どもの成長・発達を支える子育ての根幹を担うものであり、その党の理念を体現するものである大事な施策が、こんなにも簡単に転換されてしまったことに驚いているのです。

しかもこれらの施策の転換は、消費税増税法案を通すための取り引きの材料に使われました。経済界の望む消費税の引き上げを何よりも優先したい民主党は、自公両党に消費税増税法案の可決に協力してもらうため、目玉であった子ども施策を手放したのです。

それだけでも十分驚くに値することですが、その後、民主党は時期衆議院選挙のマニフェスト(素案)に「『児童手当』の5割増」を盛り込むという、ビックリすることをやってのけました。

こんなふうに、言質を弄して国民を欺く人を「平気でうそをつく人たち」と呼ばずして、なんと呼んだらいいのでしょうか。(続く…

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そしてエネルギー政策や復興対策予算の使い方をめぐっても、民主党率いる政府の不誠実さ、その厚顔無恥ぶりが浮き彫りになりました。

「30年代の原発稼働ゼロ」の理想を掲げ、原発の新増設を認めない方針を打ち出しながら、従来通り核燃料サイクルなどを維持。使用積み核燃料を加工したプルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料を全炉心で使用する、「世界初のフルMOX原発」である大間原発(青森県)の建設も再開されました。

「すでに着工されていた大間原発などは、現行法令上、(設置許可を)途中で取り消す制度はない」というのが枝野幸男経済産業大臣の言い分です(『東京新聞』2012年10月5日)。
その姿勢に、原発推進、脱原発派双方から批判が噴出しています。

復興予算の使い道では

復興予算では、生活と命を支えるために必要なお金が被災地に届いていない一方で、だれが見てもとうてい復興予算とは認められない事業に、多額の予算が回っていました。

たとえば反対捕鯨団体の妨害対策(農林水産省)や、刑務所で訓練用の建設機械の整備(法務省)、沖縄の国道整備(国土交通省)、企業の国内での立地推進、整備投資の補助(経済産業省)ほか・・・まだあります。

こんな無駄なお金を使いながら、東日本大震災で被災した中小企業6割の補助金交付の申請が「国の予算が足りない」として却下されていました。
腹が立つのを通り越して「開いた口が塞がらない」とはこういうことを指すのでしょう。

なぜ「火事場泥棒」が横行?

なぜ文字通りの「火事場泥棒」が横行してしまったのでしょうか。

「そのカラクリを解く鍵は、政府の復興基本方針に仕込まれた二つの文言にある」と、『東京新聞』(2012年10月8日)は次のようなことを書いています。
まずひとつめは、「日本経済の再生無くして被災地の真の復興はない」。もうひとつは、この考えの下に「被災地と一体不可分として緊急に実施すべき施策」の実行を認めたことです。

こうした「日本経済の再生」という考え方は政治サイドの要求で、東日本大震災復興基本法に盛り込まれたとされています。

いずれも、野田首相率いる民主党が何を大切にし、何を軽んじているのかがよく分かる事実です。(続く…

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ここまで二枚舌ではないにしても、うそをついてきたのは現政権だけではありません。

たとえば、このブログでも何度かとりあげた「ゆとり教育」(詳しくは「本音とたてまえ、オモテとウラ」参照)の変遷を思い出してください。

ほんの10年で「脱ゆとり教育」へ

2012年度から実施された新学習指導要領に基づく「脱ゆとり教育」が話題になったのは耳に新しいことでしょう。

この新学習指導要領によって授業時間全体が3~6%、2009年度から前倒しで実施している理数系では約15%増加になりました。

でも、考えてみれば「ゆとり教育」が完全実施されたのは、今からわずか10年前の2002年です。義務教育期間とほとんど変わらないほんの10年間で、その中身や実態が検証されることもなく、何がもたらされたのかを省みることもなく、「ゆとり教育」は終わりました。

「ゆとり教育」の“たてまえ”

「ゆとり教育」の“たてまえ”は、「それまでの知識重視で詰め込み式の教育を改め、経験を重視し、考える力を付けさせる教育を行う」というものでした。
だから「脱ゆとり教育」になったとき、「『ゆとり教育』の理念は良かったが、うまく機能しなかった」などとの発言をたびたび耳にしました。

しかし、それはあまりにも現実が見えていないか、うそつきかの発言に聞こえてしまいます。

なぜならこの10年間を振り返ってみれば、「ゆとり教育」は競争主義的な教育体制は残しつつ、教科書を薄くし、授業時間を減らし、「分かるまで教える」教育から「その子なりに理解できるように」教育へと転換し、教育に市場原理を持ち込む方便の転換に過ぎなかったからです。

簡単に言えば、受験競争に勝ち抜くために学ぶべき内容は変わらないのに、学校で教える時間や内容を薄くし、質を落としたのが「ゆとり教育」だったのです。

「教育格差」が顕著に

だから「ゆとり教育」になった後、学校以外の場で勉強を補うことが出来る子とそうでない子の間で学力が二極化し、全体の学力も低下しました。

そして近年、よく言われている「教育格差」が顕著になりました。学校で学ぶだけでは受験競争に勝ち残れないため、学習塾などにお金を使える比較的裕福な家の子とそうでない家の子の差が明らかになってきたのです。

さらに言えば、高い教育を受けられなければ、安定した収入が得られる職業に就ける確率も低くなります。最近では「教育格差」によって「貧困が連鎖」し、経済格差が世代を超えて固定されることが心配されています。(続く…

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「貧困の連鎖」や「経済格差の固定化」が言われる一方で、「長引く不況」と言われながらも高額所得者は急増しています。
『税金は金持ちから取れ 富裕税を導入すれば、消費税はいらない』(武田知弘著/金曜日)という本によれば、信じられないことに億万長者は10年前の3倍に激増しているそうです。

意図的に格差はつくられてきた

著者は、本の中で具体的に80年代以降、とくに小泉純一郎元首相のときの「小泉ー竹中改革路線」の中で、税の仕組みがどのように変えられてきたのかを記しています。

どんな理屈や方法で大企業や資産家(お金持ち)の税率が引き下げられ、一般国民(庶民)の税負担が増やされ、簡単に言うと「金持ちはより金持ちに。貧乏人はもっと貧乏になる仕組み」がつくられてきたのかを述べています。

また、貧富の格差・経済格差が、いかに意図的な政策の下に広げられてきたことであるかも、具体的なデータを示しながら書いています。

うそで塗り固めた税制度の変換

ご興味のある方は、ぜひ同書を読んでいただきたいと思うのですが、たとえば著者は、トヨタの社長より庶民の税負担率の方が高いことや日本の金持ちの税金はアメリカの金持ちの半分以下であること。富裕層の所得税を80年代並みに戻せば、お金の無い人の生活を直撃する消費税分の税収をまかなえることなどを書いています。

そして「日本の法人税は世界的に見ても高い」というのも(132ページから)、「国際競争力のために法人税を減税する」というのも(136ページから)、ぜんぶ「うそ」だと断じています。

そうしたいくつもの指摘をしたうえで、一部の大金持ちや大企業にお金を貯め込ませるのではなく、裕福な人たちからきちんと理にかなった分の税金を取り、それを経済的に困窮する人に回す政策を打ち立てた方が、結果的には冷え切った景気が活性化し、長い目でみれば大企業の儲けも増え、日本全体が豊かになるのだとも述べています。

「邪悪な人」はいる?

どれも、かつてこのブログでも書いた生活保護の受給問題(「福祉から遠い国」参照)など吹っ飛んでしまうような話です。

いくつものうそを重ね、生活に困る人を横目で見ながら、ひたすら私腹を肥やして利益を貪る人々を目の前にすると、「『邪悪な人』はやはり存在するのではないか」と思いたくなってしまいます。(続く…

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もちろん、「うそをつくこと」自体は、まったく悪いことではありません。

私たち人間は、自分自身にさえうそをつきながら生きています。
現実を見ないようにしたり、自分の本心に気付かないようにしながら、葛藤をやりすごし、どうにかバランスを取ることは、健康に生きていくために欠かせない能力です。

もしそうした能力がなければ、辛い現実や受け入れ難い事実に飲み込まれ、日々の生活はたちまち立ちゆかなくなるでしょう。

無意識を発見した精神科医のフロイトは、こうした心の働きを防衛機制と呼び、「だれもが心理的葛藤から自分を守るために行っていること」と述べました。

うそをつけることは大切

また、精神科医で作家でもある岡田尊司さんも著書『あなたの中の異常心理』(幻冬舎新書)の中でシェークスピアの『リア王』に登場するリア王と末娘コーデリアを取り上げ、「うそをつける人間である」ことの大切さを述べています。

かんたんに『リア王』の内容を記しましょう。
この悲劇は、年老いた王が自分の領地を分配するにあたって、三人の娘達に「どれくらい自分を愛しているか」を聞いてから決めるということから始まります。

上の二人の娘は、心にもない甘い言葉で父への愛と感謝を述べます。しかし、三姉妹の中でだれよりも父を愛していたコーデリアは、そうした茶番劇に嫌悪感を持ち、父への愛を語ることができませんでした。

娘の中でもコーデリアをかわいがっていた王は激昂し、コーデリアを勘当。領地を上の二人の娘に二分してしまいます。

ところが、王はその後、領地を分け与えた二人の娘に疎んじられ、居場所を失い、発狂していくのです。(続く…

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前回のブログで紹介した『あなたの中の異常心理』の著者である精神科医の岡田さんは、こうしたリア王とコーデリアの性格を「どちらも気性がまっすぐで、誠実だが、その一方で強情で、我の強い一面をもち、一面的な見方にとらわれやすい」(同書138ページ)と述べ、さらにこのような人は「高い観点から事態を俯瞰し、賢明な行動を選択することができない」(同書139ページ)と述べます。

そして「真っ正直でウソがつけず、誠実な性格というものは、その意味で面倒を引き起こしやすい一面をもつといえるだろう。それは、心に二面性を抱えられないという内面的構造の単純さに由来する問題であり、語弊を恐れずに言えば、ある種の未熟さを示しているのである」(同書139ページ)と、分析しています。

社会の教え

私も大枠では、岡田さんの意見に同意できます。

ただ、もう少しだけ付け加えさせていただくのだとしたら、「内面構造の単純さ」に由来する「ある種の未熟さ」は、――少なくとも日本社会においてはーー個人の問題ではなく、社会の教えによるものが大きいのではないかということです。

私たちの社会は、「嘘をつくことはいけないことだ」と子どもたちに教えたがります。

顕著な『心のノート』

たとえばそれは、文部科学省が2002年に道徳の副教材としてつくった『心のノート』(『ノート』)にも顕著です。

小学校1・2年生用の『ノート』には「うそなんか つくもんか」というページがあります。
そこには、うそをついたことに罪悪感を覚える男の子と、男の子がうそをついたことを知っているぬいぐるみや机の上のロボットが、男の子をにらみつけている絵が書いてあります。

そして次のページには「あなたの 心の中の ないしょの はこ」で始まる文章があり、「しまって おきたい ないしょかな 出してしまいたい ないしょかな」との問いがあり、『ノート』を手に取っている子どもに尋ねています。

小学校低学年の子どもでは

このページを読んだのが、「うそをつくことも時には大事」とわきまえているおとなであれば「内緒には、しまっておくべきものとそうでないものがある」と考えることができるでしょう。

しかし、『ノート』が対象とするような小学校低学年の子どもならどうでしょうか。

子どもたちはおそらく、親からも先生からも「うそはいけない」と、日々言われています。当然ながらおとなほどの経験も判断能力もありません。
「ないしょ(うそ)はいけないことなんだ」と、単純に思い込んでしまう危険性はないでしょうか。(続く…

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さらに昨今は、学校教育だけでなく家庭でも、と子どもに恐怖心を植え付けて「うそはいけない」と教え込む“しつけ”がブームになっています。

それを反映するのが、『絵本 地獄』(風濤社)の大ブレイクです。そこには、うそをつくなど悪いことをした人が鬼に体を切り刻まれたり、火あぶりや釜ゆでになったりというリアルな地獄の光景が描かれています。

『地獄』は1980年に発行され、これまでは年に2000冊売れるかどうかの商品だったのに、今年に入ってなんと17万部の売り上げです。

子どものしつけに『絵本 地獄』

ブームに火を付けたのは人気漫画家の東村アキコさんが育児漫画『ママはテンパリスト』(4巻)で、「うちの子はこの本のおかげで悪さをしなくなった」と紹介したこと。それがクチコミで広がり、しつけに悩む子育世代を中心にブームになったそうです。

『東京新聞』(2012年4月18日付)には「『子どもが地獄を怖がって、ウソをつかなくなった』『子どもが言うことを聞くようになった』などの声があるという」と紹介されています。

恐怖を煽るやり方は、手っ取り早く言うことを聞かせるには確かに便利です。しかしこうしたやり方、子どもが、今ができる精一杯かつ唯一の方法で発する問題行動や反抗などの「不器用なメッセージ」を潰してしまうことになりかねません。

ひいては不器用な“ことば”を受け入れ、応答してくれるおとなとの関係性の中で、社会を生き抜く力の基礎を育てるという機会を奪い、『平気でうそをつく人々』に利用される人間にしてしまうという、恐ろしい事態にもつながります。

今、必要なのは

今、社会に必要なのは「『うそをつかない』子育てしやすい子ども」をつくることではありません。

人間には二面性があることを理解し、自分を守るためにはときに本音を隠し、私利私欲のために平気でうそをつく厚顔無恥な人々にだまされず、批判的、合理的、全体的にものごとが見られる・・・そんな、きちんとうそとつきあえる人間を育てることなのではないでしょうか。

 私たちはだれもが、ある家族のなかに生まれ、育ち、今に至っています。私たちを育てた親(もしくは親代わりのおとな)も、また同じようにある家族に生まれ、生きて来ました。

 私たちの性格の“もと”になる気質は、親やまたその親から受け取ったものであると同時に、その気質を周囲のおとながどのように受け止めたかによって、子どもの性格は変わってきます。

 たとえば、「新しい物に目が行きやすい」タイプの子どもに対して、周囲が「考えが足りない子」という対応をすれば、その子は自分を「思慮の浅いダメな人間だ」と思いながら成長するでしょう。

 一方、「好奇心旺盛な子どもだ」という思いで周囲が接すれば、その子は「自分はいろんなことに挑戦できる」と思って成長するかもしれません。

一生涯の人間関係は幼少期に決まる

 このように、その人の性格や生き方というのは、「それまでの人間関係のあり方」であり、「人と付き合うときの癖」のようなものです。その多くは、子ども時代にその人を取り巻く家族などの身近な人間関係によってできあがります。

 精神科医で米国マサチューセッツ州ブルックラインのトラウマセンター創立者であるBessel van der Kolkは、著書『身体はトラウマを記録する』(紀伊國屋書店)で(202ページ)、次のように述べています。

「幼少期の愛着パターンによって、私たちが一生にわたって人間関係を図示することになる、心の中の地図が作り出される。その地図は、私たちが他者に何を期待するかだけでなく、彼らがいてくれるとどれだけの慰めや喜びを経験できるかにもかかわっている」