『平気でうそをつく人たち』(2/9)
「たとえどれほど極悪非道な悪事を働いた犯罪者だとしても、その人がそのような人間にしか育つことができなかった悲しみや辛さを忘れるべきではない」
私はずっと、そんなふうに考えてきました。もちろん、今でもそのように思っています。
その人の犯した罪は、もちろん責任を問われるべきことですが、その人が罪を犯すような人間にしか成長できなかった責任までをその人に負わせることはできないのですから・・・。
やっぱり邪悪な人はいる?
ところが最近、そんなふうに考えられなくなることがたびたびあります。M・スコット・ペックが言うように、「邪悪と言わざるを得ない人は確かにいるのではないか」との思いが、よく頭を過ぎるのです。
そう私に思わせる代表格は、なんと言っても野田佳彦首相です。
もちろん民主党が世間で言われているようなリベラルな政党ではないことは、与党になる前から百も承知でした。
「国民の生活が一番」「チルドレン・ファースト(子どもが一番)」などの耳障りのいいキャッチフレーズで、子育て世代をあたかも応援するようなふりをしてはじめた子ども手当や高等教育の無償化も、実は福祉の色合いを削り落とし、格差を固定するための装置に過ぎません。
実際には、子育て・教育分野への企業参入を促してサービスを家庭の経済事情に応じて買わせるための施策でしかなかったのです(詳しくは「新政権によって子ども施策はどう変わる」や「真夏の怪(5)」等をご覧ください)。
民主党の本性
民主党が子どもや国民のことなどまったく考えていない政党であることは、教育基本法「改正」(2006年)前に民主党がまとめた日本国教育基本法案を読めばよく分かります。
ときに子ども観・教育観は、その人(党)の本性や価値観を驚くほどリアルに現してくれます。
民主党の日本国教育基本法案からは、自己決定・自己責任によって積極的な消費活動を行い、競争・格差社会を受け入れてがんばり、分に応じて自らの能力を財界(国)に捧げることを厭わない市民を育てようという意図が、びっくりするほどよく見えました。
まちがってもひとりひとりの子ども、子どもがすくすくと育つことができるような家庭・・・ひいてはおとなも幸せにいきられるような社会をつくろうとしていないことは明確でした。(続く…)