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今年1月26日にスタートした「夜スペシャル」は、「公立の学校が塾の力を借りて受験対策をする」というものです。

授業は国語と数学が週に3日。放課後、夜6時半から塾講師と一緒に夕食を食べた後に始まり、10時には教室を出られるようにします。希望すれば土曜日の午前中には「オプション英語」も付けられます。
月謝は週3日で1万8000円、週4日で2万4000円と、「授業を担う塾での同じ内容の授業の半額」を売りにしています。

対象は受験を控えた中学2年生で、受講生は20名弱。杉並区立和田中学校(和田中)校長の「学校の授業についていけない生徒にはむしろ負担になる。無理に参加しないで」(『朝日新聞』12月9日)、「意欲や力のある『ふきこぼれ』の生徒に対応する」(『東京新聞』12月11日)などという発言から、成績の良い子ども向けと分かります。

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憲法にも触れる行為

企業が公立学校に入り込んで保護者から直接料金を徴収して利益を上げ、宣伝効果も上げる。望む授業を受けるために保護者が特別料金を支払う。
ーーこうしたことは、憲法にも保障された「教育の無償制」や「教育の機会均等」を揺るがす行為です。

実際に、多くの批判も上がっています。
しかし、校長と杉並区は「『夜スペシャル』は、地域のボランティアが行う『学校の教育活動ではない活動』であり、料金も安く設定されており、企業の利益にはならない」としてすり抜けてしまいました。

本当に学校の教育活動ではないのか

しかし、実際はかなり疑問です。
まず何よりも子どもや保護者にとって「夜スペシャル」が「学校の教育活動外」に見えるでしょうか?

「夜スペシャル」開始前後には、連日のように校長がマスコミに登場しては「和田中の新しい取り組み」として宣伝していました。校長と和田中PTA広報がつくるホームページでは、校長名で「夜スペシャル」への参加生徒も募っています。

さらに校長は、「公立校が特定の塾の講師を招いて、一部の子ども向けに有料の授業をするわけにはいかない。だから、和田中を支援するボランティア組織『地域本部』が主催する」(『朝日新聞』2008年2月3日)とも言っています。

本当に「夜スペシャル」の料金は実費程度?

「実費程度の授業料」について。ある地域住民が、SAPIXの通常授業と「夜スペシャル」の授業の分単位の料金を試算したところ、「夜スペシャル」の授業料はSAPIXの通常の授業料から消費税5%分を引いた金額に過ぎないということが分かりました。

「月謝が半額なのは、施設費などは杉並区が持ち、雑事をボランティア組織である地域本部が引き受けているからです。通常のSAPIX料金と比べて値引きが大きい教材費は、『学校と塾が協同開発』するそうですが、その著作権は塾側にあるという話も聞きました。そうやって著作権を渡すことで教材費の穴埋めしているのでは?」(地域住民)

地域本部(区では学校支援本部と呼ぶ)の予算も、もちろん税金です。

一度は疑義を唱えた東京都教育委員会もこの説明に納得し、「学校の教育活動外であり、生徒の学力向上という公共の利益のためのものであることは明確」と、スタート直前の1月24日に「夜スペシャル」容認しました。

注:文中の民間人校長は2008年3月末日で退任し、2008年4月からは別の民間人校長になっています(続く…

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「東京での公立校との連携を地方進出の足がかりにしたい」(SAPIX中学部・高等部の高橋光代表・『AERA』2008年1月28日号)
塾にとって、設備投資が抑えられる公立校との提携は願ってもいない話です。

しかも、今回の和田中のように、話題性のある学校と組めばほうっておいてもマスコミが取り上げてくれます。連日の報道を見て、「初めてSAPIXの名を知った」人も少なくないはずです。

夜間塾は「公平」な教育機会の提供?

和田中の前校長は「教師の負担が多きすぎるから外部の力を呼び込む」と、新聞等で発言しています。
また、公立校が塾と提携することへの批判に対しては、和田中PTA広報と一緒につくっているホームページ上で以下のように述べています。

「子どもに100万円単位のお金をかけられない家庭では上位の高校にチャレンジすらできなかったが、和田中では月に一万円出せば上位校を受験するチカラがつく。これこそ、完全ではないが『公平』な教育機会の提供だ」

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前校長の考えを支持する行政とメディア

驚いたことに、文部科学省もメディアも、こうした前校長を支持しています。

昨年度の和田中学校運営協議会には、文科省初等中等教育局の人間が入っているし、今年度、文科省は50億円をかけて前校長が広める「学校支援地域本部事業」を全国に展開します。
『朝日新聞』は「公教育の建前を並べるだけでは学力をめぐる保護者の焦りは消えない。お金のかかる私立学校や塾が現にあるのだから、ここは塾に行けない子への福音と考えたい」(「天声人語」2008年1月9日)とまで書いています。

前校長の考えを支持する人々は、その発言の裏にある「競争教育によって生じた格差は正当である」という考えをも追認していることを忘れてはなりません。さらには「競争に勝つのは、いつも強者なのだ」ということを覆い隠そうとしていることも、きちんと認識しておく必要があります。

公教育が破壊される

「教師が多忙」なのは本当ですが、その原因がどこにあるのかは、きちんと考えておかなければなりません。教師が人事考課と数値目標で徹底的に管理され、子どもと向き合うことをできなくさせられてきた現実を変えていくべきです。
「学力低下」のいちばんの原因は、手足を縛られた教師が、目の前にいる子どもひとりひとりの状況に合わせた授業ができなくなってしまったことなのですから。

さらには授業態度などを点数化した内申点を重視する受験体制や、大多数には最小限度の学びだけしか保障しないという偽りの「ゆとり教育」、個人を分断して差別・劣等感を植え付けるための習熟度別授業なども見直すべきです。

事実をオブラートに包み、「少数の『役に立つ』エリートに手厚く、大多数にはそれなりに」という教育システムを着々とつくりあげてきた結果が、昨今の学力低下を招いたことは今や明白です。

この根本的な部分にふたをして「教師は忙しいから、塾の手を借りる」というのは、公教育の破壊に他なりません。(続く…

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杉並区の住民や教師たちに話を聞くと、「立場を悪くするので表だった発言は控えたい」と言う人々から驚くような“オフレコ”の話が飛び出します。
マスコミや教育行政も絶賛する「夜スペシャル」についても、何人もの人から次のような話を聞きました。

「最初の募集では『夜スペ』希望者はゼロ。何度か募集をかけ、部活の顧問の口利きである特定の部活の子どもに声をかけ、どうにか人数を確保したが、そのうち成績の振るわない三名に申し込み取り下げさせた」

「和田中の多くの教師は『夜スペ』に反対している。藤原氏は職員会議で一方的に意見を述べ、何でも独断。反論しても言い負かされるから教師は疲弊し、『早く異動したい』と言う教師が多い」

また、不登校の子どもへの対応については、

「和田中は他の学校よりも不登校の子を適応教室に送る時期が早い。中には入学後すぐのケースもある」

など、学力向上に貢献できないこどもを切り捨てているのではないかと思わせる話も耳にしました。

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悲痛な内部告発の手紙

つい先月には、和田中の保護者が区内すべての中学校PTA会長にあてた告発文ともいえる手紙の存在も明らかになりました。
助けてほしいです!! 和田中はおかしくなっています!!」と書かれたその手紙は、感情的な個人攻撃の部分もありますが、思い詰めた保護者の気持ちが伝わってきます。

この手紙が見つかった直後、和田中の前校長は副校長会を通じて手紙を回収しました。手紙を書いた保護者がだれなのかわかっていたはずなのに、警察に名誉毀損の届けを出し、犯人捜しを依頼したということです。

そんな和田中に対する杉並区民の疑問を詳しくお知りになりたい方は、「市民の市民のための市民によるメディアJANJAN」をご一読ください。

「人と生きる」環境を

「『人と生きる』ことを学ぶ学校」の冒頭で紹介した愛知県犬山市の学校と、杉並区和田中はあまりにも違います。

杉並区全体の荒れる子どもたちの様子、そして独裁的な前校長のやり方を聞くにつけ、前校長があちこちのメディアで発言していた「上位の子が伸びると、仲間に教えるようになり、互いに学び会う雰囲気になる」との言葉も疑いたくなります。

「出来る子はその子だけが伸びていって、そうでない子は距離を取って見ているだけという感じ。出来る子に触発されて全体が伸びるというのは難しいのでは?」

そう話す杉並区内の保護者の方が真実に近いのではないでしょうか。

和田中が行っているような“ふきこぼれ(できる子)”と“おちこぼれ(できない子)”を分け、競争教育に荷担するようなやり方では、絶対に子どもが生まれながらに持っている助け合う力を育てることはできません。
他者を「敵」と思わせるような教育では、真に人間の能力を発達させることはできないのです(「人と生きる」ことを学ぶ学校(3)参照)。

子どもたちの今、そして日本社会の未来を本当に憂えるなら、受験競争に備える学力向上ではなく「人と生きる」ことを日々体験し、考える力を育むような環境をこそ、早急に整えるべきです。

スイカと言えば、夏の風物詩のひとつです。スイカのずっしりした重み、叩くと鳴る鈍い音、独特の甘い香り・・・どれもこれも夏の思い出につながっています。

ところでみなさんは「四角いスイカ」をご覧になったことはありますか?

かく言う私もネット等でしか見たことが無いのですが、ちょっと調べたところ香川県善通寺市でつくっている特産品のようです。もともと観賞用につくられたということで「味は期待しないで」と書いてあったりします。

小さなときに鋳型にはめる

栽培方法はいたって単純で、スイカがまだ小さいときに鋳型(立方体のアクリル板)にはめてしまうのです。

このとき、スイカが「成長しよう」とする力に負けない厚みと強度のある鋳型でないとちゃんと四角にはならないそう。その栽培の様子を見ることができるサイトもあります。

食いしん坊の私からすれば、なんで食べてもおいしくないスイカをつくるのに、こんなに努力するのかわかりませんが(栽培している方には申し訳ありません)、世の中には食べられないスイカにお金を出す人もいっぱいいるようです。

そのサイトによると、できあがった四角いスイカのお値段は、なんと一玉1万円以上! らしいです。その理由は、「つくったもののうち出荷できるのは2~3割程度だから」とのこと。

まるで日本の教育制度

この「四角いスイカ」の話をはじめて聞いたとき、「まるで日本の教育制度みたい」と思ってしまいました。

その生命が持っている本来の力を伸ばし、最も適した形に成長させてあげるのではなく、社会が「価値がある」とする形にするため、小さな頃から、その生命が「成長しよう」とする力をそぎ落とし、鋳型にはめ、希少価値の高いものをつくろうというのです。

そこまで努力しても世に出て行けるのはせいぜい3割弱。その3割に入れなかった「不良品」はいったいどこに行くのでしょうか?(続く…

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市場に出せない7割の「不良品」を出してまで、市場価値の高いものを育てるのは、果たして生産的なことなのでしょうか。
わずか3割の、市場で高く売れる「良品」の方だって、味はいまいちなのですから、本当の意味で生産的な行為とは言えないような気がします。

スイカならまだしも(それでももったいないと思ってしまいますが)、人間だったらどうでしょうか。
市場価値に合わせた少数の「良品」の子どもを育てるために、たくさんの子が「不良品」としてはじき出されるなんてことが、あったら大問題ではないでしょうか。

でも実際、そのようなことが起きているようなのです。

公教育ビジネスを持ち込んだ杉並区

『東京新聞』(2015年2月28日付)では、公教育に利益追求と市場価値を是とするビジネスが持ち込まれることの問題点が論じられているのですが、そこに気になるコメントを見つけました。

コメントの主は、東京都杉並区で06年度から5年間、不登校の子どもたちを対象とする区の適応指導教室に勤めていた元教員の長谷川和男さんです。

競争や序列化が始まっていた

そのコメントをご紹介する前に、東京都杉並区に代表される公教育とビジネス、そして競争教育について記しておきましょう。
杉並区といえば、義務教育初の民間人校長で話題になったリクルート社出身の藤原和博さんが校長を務めていた杉並区立和田中学校がある地域です。

藤原さんが和田中の校長になった2003年頃は、今や当たり前になってしまった全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)はまだ再開されておらず、教育基本法も「改正」されていませんでした。
しかしすでに、学校選択制や自治体による学力テストなどが始まり、子どもと子ども、学校と学校の競争や序列化などが言われはじめていました。(続く…

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そんな空気のなかで藤原さんが、和田中学校の校長に就任すると、外部の人間や情報を取り込んで社会問題をあつかって世の中について学ぶ「よのなか科」をつくったり、大学生ボランティアと子どもが宿題などをする「土曜寺子屋」、英語講師を雇って土日に行う「英語アドベンチャーコース」など、表向き公教育の世界ではタブー視されていたビジネス的な視点、企業、価値観を堂々と和田中に持ち込みました。

次々と花火のように打ち上げられる新しい取り組みや、リクルート出身らしい話題づくり、キーワードづくりも上手でした。

なかでも、学習塾のサピックスと組んだ有料の課外授業「夜スペシャル」はかなりの注目度合いでした。

塾と教育では目指すものが違う

しかしそもそも、学習塾と公教育は目指すものが違います。

多くの場合、学習塾の目的は「成績を上げ、受験競争に勝つこと」です(そうでない一部の学習塾もありますが・・・)。対して公教育が目指すのは「共に学び合うことで知識だけに偏らない人格形成をはかる」ことです。

その目的上、学習塾では「他者を蹴落とし、勝ち上がる」ことが“よし”とされますが、公教育では「他者とつながり、みんなで伸びる」ことが大切にされてきました。
もちろん、昨今の社会全体が競争主義的になっているなかで、教育基本法も「改正」され、こうした目的や理想は「建前」になりつつある部分もありましたが。

「建前」を一蹴

ところが藤原さんは、そうした「建前」を一蹴したのです。

たとえば、当時の「和田中と地域を結ぶページ」で藤原さんは次のように公言してはばかりませんでした。

「子どもに100万円単位のお金をかけられない家庭では、上位の高校にチャレンジすらできなかった。(略)和田中では月1万円出せば、3年生までに上位校を受験するチカラがつく。これこそ、完全ではないが『公平』な教育機会の提供だ」(続く…

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「公平」という言葉の意味もなんだかよく分からなくなりそうですが、少なくとも当時、こうした藤原氏を国やマスコミがこぞって応援しました。

国は、和田中学校運営協議会に文部科学省の役人を送り込んだり、藤原氏創始の「よのなか科」などを広める民間企業を新教育愛初プログラムに指定するなどしました。

天下の『朝日新聞』は、「公教育の建前を並べるだけでは、学力をめぐる保護者の焦りは消えない。お金のかかる私立校や塾が現にあるのだから、ここは塾に行けない子への福音と考えたい」(2008年1月9日付け「天声人語」)とまで書いています。

驚くほどの“集客ぶり”

こうした宣伝が功を奏したのか、私が取材した翌年(2009年)の和田中への入学希望者は100人を超え、隣接する中学校の約30人を引き離すほどの“集客ぶり”でした。

その頃、話をうかがった杉並区で子育てをしている保護者の方たちのこんな意見が印象に残っています。

「『夜スペ』は反対だけど、大学に行けないと正社員になれず、結婚もできない。そんな思いを子どもにさせたくないから『とりあえず和田中へ』と思ってしまう」

競争・格差教育をさらに定着させる

非正規社員が増え、低所得から抜け出せず、結婚をあきらめる若者の存在が話題になるなか、この将来を憂う親の不安は深刻です。

そんな親心を利用して経済界や国は競争教育を後押してきました。藤原氏のような人物が説く似非の「公平な教育」を広め、「お金が無くてもきちんと勉強が身につく」と喧伝し、公教育に民間企業が入っていく道を広げました。

そもそもお金がなければ質のよい教育が受けられないという「公教育だけで勉強が身につかない教育システム」や「塾に行かねば競争に勝てないような受験体制」にこそ問題があるはずなのに、藤原氏や彼の主張を後押しする人たちには、そういった視点はありません。

こうした企業の論理に乗っかった教育を是とすることは「競争によって生じた格差は正当」と認めることになり、結果として競争・格差教育をさらに定着させるだけなのに、その問題点を指摘する声もほとんど上がりませんでした。(続く…

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市場で価値のあるものとされために自然の発達に逆らった枠をはめ、その枠に当てはまらないものを「不適応(不良品)」と考えるような学校を応援する社会。

そんな社会で育っていけば、だれだって自分らしさや自分自身に価値を見いだせず、自尊心は低くなり、自己肯定感も奪われがちになります。

それを端的に表した調査結果があります。
2014年9月から11月にアメリカ、中国、韓国と共同で実施された「生活と意識」をテーマにした国立青少年教育振興機構の調査結果です。各国の高校生約7千700人から回答を得ています。

ネガティブな日本の高校生

注目したいのは同調査のアンケート「自分について(PDFファイル)」の項目です。ここで日本の高校生が他国と比べ、とてもネガティブな回答をしているのです。

たとえば「自分の希望はいつか叶うと思う」の回答は、肯定的な回答はアメリカ・中国韓国すべてが80%を超えているのに、日本は67.8%。また、「私は人並みの能力がある」という質問では、アメリカでは88.5%、中国は90.6%、韓国は76.8%だったのに、日本は55.7%です。「私は勉強が得意な方だ」の質問では、肯定的な回答をした日本の高校生はわずか23.4%しかいません。

逆に、自分への否定的なイメージを問う「私は将来に不安を感じている」や「自分はダメな人間だと思うことがある」では、日本がトップ。たとえば後者の質問への回答では日本は72.5%で、アメリカ45.1%、中国、56.4%。韓国35.2%とダントツに高いのです。

日本人の謙虚さ?

これらの結果を「日本人の謙虚さ」と考える向きもあるかもしれませんが、カウンセリングなどで子どもや若者と接している立場からすれば、「その考えは楽観的過ぎる」と言わずにはいられません。

私が知っている限り、子どもや若者たちの多くが、実際以上に自分を低く評価し、周囲の目を恐れ、評価におののき、自身を失っています。
おとな(社会)が提示した枠にうまく当てはまることができない自分を「ダメなやつ」と考えています。(続く…

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もともときっちりとした仕組みが行き届き、多様性よりも「他者と同質であること」が重んじられてきた日本社会。そこにアメリカを中心とする競争主義がなだれ込み、子どもを取り囲む環境はいよいよ息苦しくなっています。

本来であれば評価の対象になり得ない「心の在り方」や「ふるまい」までが評価対象となり、序列化されます。ごく小さい頃からみなと同じ振る舞いができるかどうかが問われ、ちょっとはみ出しているだけで簡単に「発達障害」と言われてしまったりします。

「ひとりぼっち」と感じる子も多い

競争が激しくなる中で、ごくごく小さいうちにおとな(社会)が提示する枠組みに順応できて結果を出せる「優秀な子」と「そうでない子」が選別され、「そうでない子」に入ってしまったときに、その集団から脱するのはとっても大変です。子ども一人だけの力ではとうていできません。

周囲にその子ならではの“よさ”や本来持っている能力などを信じ、ほめたり、認めたりして、そのままで抱えてくれるおとながいない限り、子ども自身がどんどん自分に「ダメなやつ」のレッテルを貼っていってしまうからです。

しかし残念なことに、そうしたおとなと巡り会える子どもはごく少数です。以前にも紹介したユニセフ・イノチェンティ研究所の調査(「レポートカード7―先進国における子どもの幸せ」(PDFファイル)2007 年2月14日発行)によれば、日本の子どものおよそ三分の一が「自分はひとりぽっちである」と感じていました。

この数字もまた、他の先進諸国と比べ突出した数字でした。

おとなの務めとは

そろそろ子どもを枠にはめるのを止めにしませんか。その方がずっと子どももおとなも気楽だし、子どもは未知数の能力や可能性を示してくれるはずです。

観賞用の四角いスイカより、あるべき形に思いっきり成長できたスイカの方が、どれだけ濃厚で実が詰まったものに仕上がるかは想像に難くないでしょう。

おとな(社会)の都合に合わせた枠を付けるのではなく、一人ひとり違う子どもに合わせ、その子どもが必要とする生育環境を整えてあげることこそ、おとなの務めのはずです。

遅ればせながら、「カーリングペアレント」という言葉を知りました。つい最近読んだ精神科医の片田珠実さんの著書『一億総ガキ社会 「成熟拒否」という病』(光文社新書)に出てきたのです。

かんたんに言うと「子どもの障害物をすべて取り除く親」のことを指すそうで、その語源? は、ストーンを目標のところへと滑らせるため、氷の表面をブラシで掃くカーリング競技だそうです。
ネットで調べると2005年頃から教育評論家などの間で使われはじめ、もともとはスウェーデンが発祥とのこと。

子どもの“意見”は“聴く”べき

とあるブログでは「習いごとには送り迎えしたり、持ち物のチェックも全部親がやって、子供には命令形でではなく、常に子供の”意見”を聞いて、話し合ったりする、怒るのではなく、優しく注意する、子供がやりたい事だけをやらせる、楽しい事だけをやらせるなどなど」(在日スウェーデン女性の目から見た日本)がカーリングペアレントであると載っていました。

ここでは「常に子どもの“意見”を聴いたり、話合ったりすること」「優しく注意すること」なども「いけないこと」というように書いてありますが、そこは意見が分かれるところでしょう。

個人的には子どもの“意見”は“聴く”(“聞く”ではない)べきだと思いますし、怒るよりも優しく注意できたほうがずっと有効だと思います。「命令」や「脅し」は子どもに手っ取り早く言うことを聞かせるには便利ですが、「どうしてそれをやった方がいいのか」や「なぜそれがいけないのか」を伝えることはできないからです。

子どもの権利条約では

私が子どもの権利条約関係の講座や講演をさせていただく際、よく受ける質問というかお叱りのひとつに「子どもの意見など聞いたら子どもがわがままになる」「そんなことを気にしていたら、しつけができない」というものがあります(ちなみに“しつけ”についてもいろいろ思うところがありますが、本題からどんどんそれてしまいそうなので次の機会に譲ります)。

こんなふうにおっしゃる方は、たいがい「子どもの意見を“聴く”」という行為を「子どもの言うことを聞く」ことだと誤解されています。
これは大きな間違いです。「子どもの意見を聴く」ということは「子どもの意見を受容する」ということであって、「子どもの意見を許容(実現)する」ことではないのです。

さらに子どもの権利条約が言う、「子どもの意見」とは、学級会で子どもが何か意見を述べたり、自分の意思決定を伝えたりという類のものではありません。もし、そうであったら「乳幼児には意見を表明する権利など無い」ことになってしまいます。(続く…