首相の肝いりで始まった教育再生会議が第二次報告をまとめました。
そこで重視されているのは「学力の向上」と「人格形成」。そのために「ゆとり教育」を見直し、徳育の勧め、大学・大学院の改革を提言しています。

教育再生会議と言えば、つい先月、若い親たちに対して子育ての指針を示した「親学」に関する緊急提言を出そうとして引っ込めたという経緯があります。その提言の内容に、世間だけでなく政府内部でも疑問の声が数多く上がったからです。

以下が「親学」として提言しようとしたポイントです(『毎日新聞』4月26日付)。

(1)子守歌を聞かせ、母乳で育児
(2)授乳中はテレビをつけない。5歳から子どもにテレビ、ビデオを長時間見せない
(3)早寝早起き朝ごはんの励行
(4)PTAに父親も参加。子どもと対話し教科書にも目を通す
(5)インターネットや携帯電話で有害サイトへの接続を制限する「フィルタリング」の実施
(6)企業は授乳休憩で母親を守る
(7)親子でテレビではなく演劇などの芸術を鑑賞
(8)乳幼児健診などに合わせて自治体が「親学」講座を実施
(9)遊び場確保に道路を一時開放
(10)幼児段階であいさつなど基本の徳目、思春期前までに社会性を持つ徳目を習得させる
(11)思春期からは自尊心が低下しないよう努める

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「モンスターペアレント」の事情

どれも専門家でなくとも首をかしげたくなるような内容です。
提言を出すことになった発端は、給食費の未払いなどが増えているなどの事情からのようですが、こうした提言を出すことで問題が解決すると考えること自体に無理があります。

確かに最近、教育現場ではちょっとびっくりするような親と出会うことがあります。
たとえばちょっと気に障る教師がいると教育委員会に電話をして辞めさせるよう要求したり、「子どもが学校で問題を起こした」と教師が相談しようとすると「学校内で起きたことは教師の責任なんだから親を巻き込まないでくれ」と答えたり・・・。
いわゆる「モンスターペアレント」と称されるような親たちです。

しかし、こうした親たちが生まれる背景を見ていくと、なぜそんな言動を取るのかが見えてきます。
学校選択制で地域や保護者たちが分断されていたり、厳しい労働条件の中で大変な働き方を強いられていたりします。
何より「子どもを育てる」という、利他的な行為になじみが少ないのです。だれかに何かを“与える人”になるには、その人自身が“与えられた人”であることが必要です。が、最近の親にはそんな経験がものすごく少なくなっています。

こうした事情を考えれば、親たちが「理解不能なモンスター」などでないことは簡単に推測ができます。それどころか「今の社会では当たり前なのだ」とさえ思えてきます。

この親学の緊急提言に象徴されるように、現実社会を見ることなく、自らの信念や思いこみを教育の世界に持ち込もうとしている教育再生会議委員たち。いそんな委員たちがまとめた第二次報告の疑問点を考えてみたいと思います。(続く…

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まずは「学力向上」のための「ゆとり教育」見直しについて考えてみましょう。

今年4月の文部科学省発表では「ゆとり教育」世代の学力と勉強への意識は向上しているといいます。
その理由としては、「部活や行事を犠牲にした結果」や「受験を重視した授業が組まれた学校が多かった」など、さまざま言われています。

伊吹文明文部科学大臣は昨年11月の国会で「(子どもの権利条約に基づく国連「子どもの権利委員会」からの「過度に競争主義的な教育制度を見直すこと」などの)勧告を受け、学習指導要領を見直して『ゆとり教育』を導入した結果、学力が低下してしまった」という主旨の発言をしていますが、コトはそう単純ではないようです。

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そもそも伊吹文科相の発言が真実だと考えるには時間的に無理があります。この発言が真実だとすれば、98年に国連「子どもの権利委員会」の勧告が出て、その同じ年のうちに「ゆとり教育」を柱とした学習指導要領へと改訂されたということになるからです。

常識で考えても、そんなに早く対応できるはずがないことは分かります。
何しろ、このときの改訂は学校週五日制や総合的な学習の時間(総合学習)の導入、授業内容の厳選(三割削減)など、学校の体制自体を根底から見直さなければならない内容が並んでいました。(続く…

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「ゆとり教育」が奪った「ゆとり」

「ゆとり教育」の中身にも、疑問があります。再三やり玉にあがっている「ゆとり教育」とは、本当に「ゆとり」のあるものだったのでしょうか?

私が「ゆとり教育」について取材をしたのは05年のことですが、保護者や教員たちは口をそろえてこう言いました。

「『ゆとり教育』が始まった頃から、子どもも教師もまるでゆとりがなくなった」

取材をしていくうちに、その原因と思われることがいくつか浮かび上がってきました。

まず授業時間全体は減ったのに小学校3年生以上だと週3時間、中学生になると週2〜4時間の総合学習の時間が始まりました。
総合学習の内容も問題です。子どもが自分のペースで何かを調べたり、課題について研究したりできるような「ゆとり」のある総合学習を行っている学校はあまりありませんでした。

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もちろん中には、ものすごいエネルギーを割いて総合学習を組み立てている教員もいました。でも、それはほんの一握りだったように思います。

都内のある学校では、保護者の方々からは「自分の点数稼ぎのため、教育委員会に向けたパフォーマンスとして総合学習を利用している教員もいる」と、こんな話も聞きました。

ある教員が「総合学習で自然を学ぶ」として校庭に本格的なビオトープをつくりました。その過程で、「実生活の体験を積ませる」と生徒に建設業者に電話をかけさせ、工事の相談をさせました。
後日、業者側が工事の日取りや具体的な金額について教員と話し合おうと連絡してきたところ、教員は「あれはただの電話練習。工事の予定は無い」と言ったそうです。

そのやりとりだけでもびっくりする話ですが、話はまだまだ続きます。
業者を断った教員は、ショベルカーを自ら操り、校庭に池を掘りました。その周辺にはとある博物館の学芸員とかけあい、絶滅のおそれもある貴重な水草を植え、トンボの飼育を始めたのです。
ビオトープが完成したときには、大々的な授業参観を実施し、教育委員会からも絶賛を浴びました。

・・・が、ビオトープがきれいだったのは束の間。その後、何の手入れもしないまま放置されたビオトープの水草は枯れ、ボウフラの巣になってしまったそうです。

また、総合学習の時間に地域の著名人を呼んできての講演を行なっていたある学校では、元格闘家が「最近の親子は血を見る機会が足りない」と、殴り合いを勧めたとの話も聞きました。

これらのエピソードは極端な例かもしれませんが、その他の総合学習も「職業体験と称しての市民インタビュー」や地元の有力企業の見学など、「教科学習の時間や学校行事を削ってまでやるほどのことなの?」と思ってしまうものが多かったのを覚えています。

しかも、当時すでに都内の教員たちは教育「改革」の影響を受けていました。管理職への提出書類の増加や学校ごとの数値目標を達成するための努力で手一杯。とても総合学習の内容を考えたりする余裕はありませんでした。

これは余談になりますが、こうした事情を背景に、子どもたちが大好きなファストフード店やお菓子メーカーが「食育」という名目で、自社の宣伝にもつながるような総合学習を行うようになっていったのは自然のことだったでしょう。
企業に任せておけば教員は労力を割かずにすみます。子どもたちもビデオやゲームを使い、試食まで出来る「食育」の授業に大喜びです。(続く…

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image070626.jpg 授業内容の厳選(三割削減)も「ゆとり」には結びつきませんでした。
たとえ教科書が薄くなっても受験体制が変わらなければ、子どもに教えなければならない内容は減りません。
それなのに総合学習や学校5日制の導入で授業時間全体が少なくなったのですから、当然「ゆとり」ある授業などできようはずはありません。

その影響は低学年ほど顕著でした。
子どもは磁石で砂鉄を集めて遊んだり、ジュースの量を量ったりするなど、生活に密着した遊びを取り入れた授業の中で、理科や算数の基礎を身につけていきます。ところが、そうした「ゆとり」のある授業ができなくなってしまいました。


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それに学習は積み重ねです。次に進むためには押さえておかねばならないポイントがあります。「教科書に載らなくなったから」と、省略してしまうとかえって子どもが理解できないことも多く、現場は混乱しました。

たとえば三割削減した教科書を使うようになった後、こんな話を先生たちから聞きました。

「小数点以下やゼロという数字全体のイメージがつかめないうちに計算方法を習うため、計算はできても数の概念が分からず、小数点以下が読めない子どもがいる」

「機械的に計算することは得意なのに、計算を応用して物を数えたり買い物をしたりすることができない子が増えた」

「基本的な漢字の仕組みが分からず、一昔前なら絶対にあり得ないような漢字の間違いをする」

「『漢字をいくつ覚えたか』ばかり気にするようになって、物語を楽しんだり、登場人物の心情に思いを馳せたりする時間が無くなった」

学力の二極化が進行

「ゆとり教育」が導入されても、結局は、かつてと同じ内容を短時間で教えなければならなくなっただけです。
しかも先生たちは忙しくなり、補習授業などもできなくなってしまいました。子どもたちの学習理解度が落ちていくのは当然の結果でした。

一昔前まではテストの点数分布表は真ん中付近が高いベル型というのが普通でした。ところが「ゆとり教育」導入の頃から、分布表は真ん中がくぼんだM型を描くようになったと先生たちは話していました。

「授業を聞いていれば勉強は分かるもの」というのは昔の話になり、 経済力がなかったり、教育に関心がなかったりする親の子は、早いうちから学ぶことを諦めてしまう傾向が顕著になってきていました。(続く…

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「ゆとり教育」の実態を見てみると、その中身は子ども自身が持って生まれた能力を伸ばすことができる本当の「ゆとり教育」にはなっていません。

2005年当時に取材した教育行政学の専門家は、「ゆとり教育」をこんなふうに分析していました。

「日本の『ゆとり教育』とは、公教育費削減を実現するため『少数に厚く、残りの人には最小限にする教育』のこと。でも、そんなふうに言えば国民は賛成しないから、『ゆとり教育』という名前を付けただけ。少数の人だけを優遇する教育制度にしたのだから、全体的な学力が低下するのは当然」

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そう、「ゆとり教育」は、けして子どもひとりひとりの能力を伸ばすために行われたものではなかったのです。

さまざまな「改革」「改正」が進み、全国一斉学力テストも実施され、親と子どもの自己責任路線がいよいよ明確になった昨今。国の教育への介入は強まりながら、国が負担する教育費や責任は減っていく一方の教育現場を見ると、「ゆとり教育」の裏に何があったのか少しずつ見えてくる気がします。

実態をごまかす教育再生会議

そんな「ゆとり教育」の実態をごまかしながら、「『ゆとり教育』を見直す」と声高に叫ぶ教育再生会議。
その提言は、・授業時間数の10%増、・教科書の分量を増やし質を高める、・教師の事務仕事を簡素化し、教育現場のIT化を進めるなど、あまりにもお粗末です。
そんなことで子どもたち全体の学力が伸びるのかどうかは、このブログで前回のテーマにしていた愛知県犬山市の教育改革を見れば一目瞭然です。

子どもや教師の実態を見ずに、勝手に授業時間を減らし、内容を削減し、教師を管理することで教師と子どもが向き合えるような「ゆとり」を奪ってきた事実を反省するという姿勢はどこにも見あたりません。(続く…

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人格形成についても同様です。
第二次報告は、徳育や自然体験、職業体験を行うことで「命の尊さや自己・他者の理解、自己肯定感、働くことの意義、さらには社会の中で自分の役割を実感できるようになる」としていますが、本当にそうでしょうか?

確かに、自然体験や職業体験は、机にかじりついているよりも視野を広げ、見識を深めてくれることでしょう。「良いこと」と「悪いことを」を教えれば、善悪の区別はつくようになるでしょう。

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しかし、それだけで自己肯定感や自己・他者の理解、命の尊さなどが芽生えるのか。はたして「良いこと」を教えれば良い行いする子どもに育つのかは、はなはだ疑問と言わざるをえません。
自己肯定感や他者への共感が、「自分を受け入れてもらえた」経験の上に成り立っていることは、今や疑念の余地がないからです。

また、親に対しては「親の学びと子育てを応援する」として、「子どもの成長とともに学び、育児を通じて子どもがいる喜びを感じる」ようになれと言っています。
そして、親への提言の筆頭に「早寝早起き朝ご飯」などの生活習慣、挨拶やしつけを子どもに身につけさせることを挙げています。

もちろん、こうした生活習慣はとても大切です。挨拶も礼儀作法も身につけているにこしたことはありません。その内容自体はまったく間違ってはいないのです。

子育て不安を抱える親の増加

でも世の中には、たとえば深夜遅くまで働いていたり、片親家庭であったりして「もっと子どもに手をかけてあげたい」と思っていても、できない事情をかかえた親がいます。
一方で、食事の用意もしつけもほぼ完璧、教育熱心で子育てにも意欲的に見えながら、子どもの要求・欲求をきちんと受け止められない親がいます。一見、「子どものため」を考えているようでいながら、“愛情”で子どもを縛り、ダメにしてしまう親もいます。

だいたい今の親たちの多くは頑張りすぎるくらい頑張って子育てしています。自己決定と自己責任の重圧が増すなか、「人様に迷惑をかけない、きちんとした子どもに育てなければ」と賢明になっています。
そうした不安感が、どっしり構えて、子どもの育ちに合わせて見守ることを困難にしています。

以前、ある育児雑誌で「子どもに関する心配は何か」というアンケートを取ったことがありました。そのとき、男の子を持つ母親の心配事のトップは「子どもが犯罪者にならないか」でした。
また、ベネッセの教育開発研究センターによる子育て意識調査(『第3回 幼児の生活アンケート報告書 国内調査 乳幼児をもつ保護者を対象に』)では、「子どもが将来うまく育っていくかどうか心配になる」という否定的な感情がここ5年間で6.4ポイントも増えています。(続く…

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こうした親たちに「こうすべき」との提言を出し、マニュアル化した「子ども対応スキル」を説くことが有効だとはとても思えません。
提言を出されれば反対に「あれもこれもやらなくちゃ」と、親にさらなるプレッシャーや精神的ストレスを与えてしまうことにならうのではないでしょうか。

最近、長く子育て支援をしてきている方にこんな話を聞きました。

「今のお母さんは本当にまじめ。子どもがだれかに迷惑をかけないか、自分がきちんとした親をやれているかと心配ばかり。だからどうしても、子どもを制約することが多くなる。子どもにかけるセリフでいちばん多いのが『ダメ』という言葉」

確かに公園や電車の中で会うお母さんたちも、よく子どもを注意しています。「裸足になっちゃダメ」「他の人に迷惑をかけちゃダメ」「大きな声を出しちゃダメ」・・・。

でも、お母さんたちの気持ちも分かります。子育て中の友人が言っていました。

「だって日本社会って子どもや子ども連れに優しくない。子どもにもおとなと同じように振る舞うことを要求するでしょう?」(続く…

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子どもの心理的ニーズに応えることが重要

子どもの人格形成に有用なのは、その子どもが「今、必要としていること」(心理的ニーズ)に適切に応える「関わり」です。
身体的虐待などの目に見えやすい虐待よりも、心理的ニーズに応えない子育ての方が子どもより深刻なダメージを与えるとの研究結果もあります(1)身体的虐待、2)ネグレクト、3)心理的ニーズに応えないなど、五つの違う養育パターンの子どもを追跡調査した「Minnesota Mother Child Project」より)。

ところが、教育再生会議の報告は「どういう関わりが子どもの成長にポジティブな影響を与えるのか」についてはまったく触れていません。
「最新の脳科学や社会科学などの知見を踏まえた人格形成を目指す」と謳っているのに、最近の虐待研究やトラウマ研究、それらが脳に与える影響については、まったくと言っていいほど注目していないのです。

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最新の脳科学に基づく関わりは研究中

先日、教育再生会議の担当官に直接質問する機会がありました。担当官は、

「子育て講座などを通して、子どもに愛情を持って接するよう親に教えていく」

と繰り返していましたが、「子どもがきちんと成長できるような『愛情ある』関わり方とはどんなことを指すのですか?」という私の質問には、ついに答えてはくれませんでした。
「具体的なことは現在、研究中」(担当官)だからというのがその理由です。

そんないいい加減な「最新の脳科学や社会科学の知見」と偏った専門家からのヒアリングに基づいて、日常的な子どもへの関わり方にまで踏み込んだ提言が出されました。そして、その提言を“踏まえた”取り組みが始まろうとしています。

「親の期待に応えたい」と思いながら、そうできない自分を責める子どもたち。「子どもに良く育って欲しい」と願いながら、うまく関われない親たち。

その痛々しい現実を直視することなく、高みから政府首脳にとって都合の良い提言をする教育再生会議に憤りを感じずにはいられません。

耐震構造偽造問題や食肉偽装事件など、生活の根幹に関わる不正事件が相次ぐなか、今度は東京都足立区で、区が独自に行なってきた学力テストの不正が話題になっています。

ある小学枝で、あまり成績のよくない特定の子どもの答案を集計から外したり、過去のテスト問題を練習問題として繰り返し行なったり、テスト中に子どもが間違っているところを指差しで教えたりしてきていたことが明らかになったのです。

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学力テストに反対する教育関係者たちが指摘してきた通りです。
一斉に学力テストをやり、その結果を公表するようになれば必ず、こうした不正が起こり、かえって正しい学力が測れなくなってしまう可能性が高まります。

学校の“頑張り度”をどう測る?

足立区は、東京都品川区と並んで都内でも突出した教育「改革」が進む地域です。96年から実質的な学校選択性が導入され、すべての小中学校の学力テスト結果を公表しています。
中学校の人気は、学力テスト結果が上位10校に入っている学校に集中し、「選ばれる学校」と「選ばれない学校」が固定化し、学校間や子ども間の格差も固定化しています。

さらに本年度からは、トップダウンの強力なリーダーシップを発揮する教育長の下、学力テスト結果の伸び率に応じて各学校への特別予算に差をつけるという取り組みも始まりました。
「頑張った学校とそうでない学校に差をつけるのは当たり前」というのが教育長の考えです。

ではいったいどうやって“頑張り度”をはかるのでしょうか? 足立区に勤務していた教諭は言います。

「区は『頑張った学校を評価するのは当然』と言うけれど、教育の“頑張り度”がテストの得点で図れるのでしょうか。点数が低くても頑張っている子はいるし、下位校にも子どもが『この先生が一番好き』と慕う教師はいます。
教師の“頑張り度”とは、子どもとそうした信頼関係が築けるかどうかではないでしょうか。
家庭だって同じです。生活のために働き詰めで子どもの教育どころではない家庭の保護者を『頑張っていない』と言えますか?」(続く…

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全体的に見ると、足立区の上位校と下位校の間で保護者の所得格差も顕著になってきています。
生活保護家庭と同程度の所得水準の家庭に給食費や学用品の一部を援助する就学援助制度を受けている家庭の割合が、上位校と下位校ではぜんぜん違うのです。上位校の就学援助率は20%台ですが、下位校では75%を超えている学校もあります。

上位校には、教育熱心で教育のためにお金や時間を多く費やすことができる保護者の子どもが集まりやすくなっています。
一方、下位校には生活が厳しく、片親家庭で昼夜問わずパートタイムなどで働きながらようやく生計を立てている保護者の子どもも少なくありません。
こうした家庭では、子どもの教育や進学のことにまで気を配ることが難しかったりします。

こうしたなか、下位校に入っている中学校では養護学校や定時制高校を第一志望にする子どもたちも出てきました。
私学援助も削られるなかで、公立一本で勝負しなければ進学できない子どもが増えてきたからです。

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障害者手帳取得に奔走する親

保護者のなかには、
「今の社会でうちの子どもが食べていくには障害者手帳を手に入れなければ難しい」
と、障害者手帳を取るために奔走するケースもあるそうです。

もちろん、障害者手帳を取ることは正当な権利です。いろいろな事情で社会生活を営むことが難しい人が、社会的な保障を受けられるのは当たり前の話です。

でも、一昔前には「少し勉強が不得意な子」であったり「みんなと同じに振舞うことが苦手な子」であったりした子ども・・・つまり普通高校に進学できた子どもが、「障害者手帳がなければ生きていけない」と考えざるを得ないようになってきていることは、そのまま素通りしていい話なのでしょうか?

障害者手帳を取ろうとやっきになっていた保護者の子どもを担任していた教諭は、その子どもについてこう話していました。

「確かに、できる教科に偏りがあったり、こだわりが強すぎたり、生活習慣が身につかないところがある子どもでした。でも、少し前までなら十分、普通校でやっていけたと思います」(続く…