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でも、それはおかしな話ですよね。そもそもなぜ子どもの権利条約という、「子どものための権利」、「子どもの成長・発達を支えるための国際的な約束事」ができたのかと言えば、まだおとなのようには自分を守ることができない、いろいろな意味で力(能力)が未熟な子どもという存在に対して、特別な力を与える必要があると考えたからです。

しかも子どもは、幼ければ幼ないほど非力ですから、より権利(特別な力)が必要になります。つまり、条約が言う未成年(18歳未満)のなかで、最も権利を必要とするのは生まれたての赤ん坊のはずです。それなのに、乳幼児が蚊帳の外に置かれてしまうような解釈ではまったく意味をなしません。

大切な意見表明権

では、子どもの権利条約の12条:意見表明権はどんなふうに解釈したらよいのでしょう。以下は、外務省のホーム-ページに載っている12条の条文です。

1 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。

2 このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。

「意見」とは「欲求(思いや願い)」のこと

生まれたばかりの子ども、いえ、お母さんのお腹のなかにいる子どもでも、「自分に栄養を及ぼすすべてのことについて意見を表明する権利」を保障するにはどうしたらいいでしょうか?

答えは至って簡単です。「子どもの権利条約が言う『意見』とは『欲求』のこと」と考えればいいのです。
たとえ生まれたての子どもであっても、自分に影響を与えるすべてのことについて「ああして欲しい」「これは嫌」というさまざまな思いや願い(欲求)を形成する力を持っています。赤ちゃんだって「お腹が空いた」とか「寒いよ」とか「寂しいから抱っこしてよ」などなど、さまざまな意見を「泣く」とか「むずかる」などの方法でちゃんと表明します。

そうやって表明された子どもの「意見(欲求)」は、その子どもの年齢や成熟度によって考慮されるわけですから、周りのおとなは「子どもが今何を思い、願っているのか」を推測したり、考えたり、配慮したりして、子どもの「意見(欲求)」に応じる義務があります。

つまり、12条は、「子どもが今できる方法で自分に関わるあらゆることへの思いや願い(欲求)を自由に表現することを保障し、それに対して身近なおとなは子どもが語れていない思いや願いまでも深く“聴いて”受け止める義務がある」と言っているのです。(続く…

続く…

そしてこの12条は、心理学的に考えれば「子ども自らが安定した愛着関係を築くことを可能にする」という点で、画期的な権利です。

子どもは、自分の欲求に応えながら世話をしてくれる親との間に、愛着関係を築いていきます。この関係性は子どもに安心感をもたらし、自己肯定感と呼ばれるものと同時に、「困ったときには世の中は自分を助けてくれる」という基本的信頼感も育てていきます。

こうした安全感をもたらしてくれる関係性は、安全基地として子どもの心のなかに取り込まれていき、やがては目の前に親がいなくても、不安やおそれを感じずにやっていけるようになります。多少のトラブルがあっても、心のなかにある安全基地でエネルギーを充填し、困難に立ち向かって行くことができるようになっていきます。

子どもの欲求を受け止め、応えるという関係性は、子どもの権利条約が前文でうたい「調和の取れた人格の形成」に不可欠なものなのです。

「応答的な関わり」の重要性

こうした「応答的な関わり」が、母親に無関心で、愛情や世話を求めようとしない「回避型」と呼ばれる不安定な愛着スタイルを築きやすい「育てにくい子ども」の場合であっても安定的な愛着形成をもたらすという研究結果もあります。

精神科医の岡田尊司さんは、著書『生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害』(朝日新聞出版)のなかで、オランダで行われた気むずかしい気質を示す乳児を百人ピックアップし、そのうち無作為に選んだ半分は通常の指導だけ行い、もう半分には生後6カ月から3ヶ月間、母親に赤ちゃんに対してできるだけ反応を増やし、身振りや表情豊かに反応するよう特別な指導を行った研究を紹介し、次のように書いています。

「通常の指導だけを行ったケースでは、その後、多くの子どもが回避型の愛着を示したのに対して、特別な指導を行ったケースでは、大部分が安定型の愛着を示した」(115ページ)

「些細な違い」が決定的に

そして、なぜそんなことが可能なのかをこう説明しています。

「愛着の形成において、スキンシップや抱っこと並んで、重要なのが、応答的な反応ということだからだ」。応答的な反応とは、子どもが泣けば、すかさず注意を向け、何か異変が起きてはいないか、何を欲しがっているのかと、対応することであるし、子どもが笑えば笑い返し、気持ちや関心を共有しようとすることである。
逆に応答的でない反応とは、求めているのに無視するかと思えば、求めてもいないのに、親の都合を押し付けることである。ミルク一つ与えるのでも、時間が来たのでそろそろ与えなければという与え方は、この応答性を無視したやり方である。赤ん坊が、おなかが空いたと泣いたときに与えるという与え方が、子どもの主体性を尊重した、応答的な方法だと言える」(115~116ページ)

おとなからすれば、「些細な違い」にしか見えないものが「決定的な違い」になってしまうのです。(続く…

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近年の愛着(アタッチメント)理論を中心とする研究結果や子どもの権利条約の内容を含めてよく考えれば、「カーリングペアレントがなぜダメなのか」も、ちょっと意味合いが変わってくるように思えます。

世の中一般で言われているように、「子どもは厳しく育てるべき」で「苦労は買ってでもさせた方が良く」て、「子どもの意見など聴いていたら親の言うことを聞かなくなる」から、カーリングペアレントが問題なわけではないでしょう。

そうではなく「先回りして障害物を取り除こうとする」ことで、「子どもの欲求をつぶしてしまって」、結果的に「子どもへの応答性を忘れて親の思い通りに子育てしようとする」から、問題なのです。

増える「回避性」の人

もしカーリングペアレントが増えているとしたら、前回ご紹介した『生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害』(朝日出版社)のなかで、岡田尊司さんが指摘しているように「生きることに伴う苦痛や面倒毎から逃れようとする傾向で、もっとも本来的な意味で『面倒くさい』心理状態が病理の根本にある状態。人の世の煩わしさから逃れたいという願望を持ち、現実の課題を避けようとする『回避性』」(46ページ)の人が急増しているのも当たり前と言えるでしょう。

すでに書いたように子どもの「生きる力」を伸ばす、安定した健全な愛着の形成は、「子どもが求めれば応える」という応答性によって成り立ちます。そしてこうした関係性をもたらしてくれる存在が子どもの心の中に内在化していき、安全基地となっていきます。

ところがカーリングペアレントの場合はどうでしょう。子どもの欲求を無視し、子どもが求める前に何でもしてあげてしまうわけですから、当然、安定した健全な愛着は形成できず、親は安全基地として機能しないということになります。

親自身が障害物に

このような親・・・期待が大きすぎたり、完璧主義であったり、本人の気持ちをくみ取れない親・・・による行為を岡田氏は「善意の虐待」(124ページ)と呼び、「そういった親の押し付けや支配を受け続けて育つと、まるで強制収容所で育ったかのような、ただ目の前の不快から逃れることだけを優先する、主体性や思いやりの乏しい無気力な人間ができあがってしまう」(125ページ)と、「回避性」の人が増える理由を記しています。

皮肉なことに子どもを心配し、思いやっているつもりの親自身が子どもの成長・発達を邪魔する障害物になってしまっているということです。(続く…

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そもそも子どもに何かを教え込もうとか、しつけようとか、指導しようということ自体がナンセンスなのです。

「develop(発達する)」の語源は、de(取り除く)+velop(包む:ラテン語のvolvoから派生)。つまり、人間として生きるためのあらゆる能力を秘めてこの世に生まれてくる子どもが、その内に秘めた能力を表出させることを「発達する」と言います。

それは「education(教育)」の意味ともリンクします。educationはラテン語のeducare(大きくする)とeducere(引き出す)の二つから成っています。ここからも分かるように教育というのは、子どもが生まれながらに持っている能力の発現を待ちながら、その能力が活かせるよう引き出してあげること。それが教育の本来あるべき姿です。

「教育の目的」とは

だから子どもの権利条約は「教育の目的」(29条)について、「子どもの人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること」と記しています。

私たちおとなにできるのは、子どもが生来持っている能力を存分に発達させられるよう、その土台を用意してあげること。子どもが、のびのびと、自信を持って自由にその翼を広げられるよう、安心できる人間関係を紡いであげることです。

もっと具体的に言えば、子どもが「助けて欲しい」「困っているよ」「寂しいよ」などというメッセージを発したときに、すかさず子どもに顔を向け、「なぁに? どうしたの」と応答してあげることです。

子どもの権利条約を心に置いて

子どもを愛していればこそ、子どものことが心配になり、私たちおとなはついつい先回りして、いろんなことをしたくなってしまいます。子どもが困らないよう、壁にぶつからないよう、備えてしまいたくなります。

今、ちまたにはそんな親の心配を煽る広告や宣伝があふれ、それに乗じて利益を上げようとする企業が虎視眈々と待ち構えています。よく耳にする情報は、「鉄は熱いうちに打て」とばかりに、早期教育を進めます。
よっぽど意識していなければ、だれもがかんたんにカーリングペアレントになってしまう世の中になってしまっています。

そんな現実に流されてしまわないよう、私も「子どもの成長・発達のための世界的な約束事」である子どもの権利条約の精神を心の片隅に置き、「子どもとどう関わるべきか」と日々、考え、自分を戒めています。

去年くらいから、オフィシャルサイトの更新がほとんどできずにいます。

「おうち時間」だの「おこもりで時間が増えた」という人も多いのに、「いったい私は、何にこんなに時間を取られているのか?」と考えると、大きな要因は大学の授業のほとんどがオンラインになったことだと思います。

もちろん、新しい相談室(CAFIC 池袋カウンセリングルーム)を立ち上げたことなどもありますが、ダントツで時間を割いているのは、オンライン授業の準備です。

対面授業であれば、その場で資料を示したり、説明したり、ホワイトボードに書いたりすればいいことを、あらかじめコンテンツをつくりこまなければならなくなりました。

しかも私の場合、ほとんどがオンデマンド授業となったため、パワーポイントをつくってから、そこに音声を乗せていく必要があり、吹き込み作業というのも必要になります。

これが思いのほか、時間がかかります。去年などは、1コマ分の授業のコンテンツをつくるのに丸々1日はかかるという状況でした。

オンライン授業の評価

オンライン授業については、「好きなときに学習できる」「繰り返し学習できる」など、学生からの肯定的な意見も聞きます。

文部科学省が2020年12月に発表した学生調査でも、過半数の学生がオンライン授業の継続を望むという結果になっています。

しかし、私が学生から聞く生の声では、否定的な意見が大多数です。

「対面授業を増やして欲しい」「対面授業のほうが、圧倒的に頭に入ってくる」などという意見をよく聞きます。

“授業時間そのもの”だけでなく、休み時間や行き帰りに交わす友達との何気ない会話が「課題のヒントになる」とか、「勉強の仕方を知る機会になる」という意見もありました。

オンライン授業は、どうしても“ひとりで課題をこなす”作業になりがちです。
しかし、人間は感情の動物であり、関係性のなかで生きる生き物です。無機質で変化の無い空間で、ひとりで学ぶよりも、だれかと一緒に五感を使って、感情を動かしながら学ぶ方が記憶に残るし、深い洞察や思考に結びつくというのは当然のことです。

ひとり黙々と課題をこなす毎日では、学べることは限られます。
“真の学び”とは、自らの力を伸ばし、その力を他者のために喜んで使えるよう、共感能力や好奇心を育てながら人格形成まで行うことです。

人格形成まで行う教育には、信頼関係や安心感が持てる他者との親密な関係が欠かせません。自分の成長を喜んでくれる仲間や、伸びた力を仲間のために使う経験、同じ場で、同じ空気を感じながら共に喜びを分かち合う一体感などが必要です。

どれもこれも画面越しのやりとり、オンラインでは得られないものです。

だから私たちの社会は、学校という教育機関をつくり、そこに信頼を置いてきました。学校が学習塾とは違う、ゆえんです。

とくにかわいそうな新入生

ところが、昨今は、「密を避ける」のがいいことと、対面授業もサークルもゼミもほぼ中止。新入生歓迎会や合宿などの行事も無くなり、せっかく大学に行っても「黙食の勧め」が各所に貼ってあり、「他者と接触するのは悪」というような空気感です。

なかには事務手続きや健康診断などで1~2回大学に足を運んだだけという学生もいます。

とくにかわいそうなのが去年の新入生でした。入学以来、一度も大学で授業を受けられていないという学生もいて、退学や休学に追い込まれるケースも見聞きしました。

自宅でたったひとり、ひたすら課題をこなすオンデマンド授業やライブ配信授業では、行き詰まりも感じます。地方出身者の中には、「オンライン授業なら実家に戻ろうと思ったが、親に周囲の目があるから帰ってくるなと言われた」という学生もいました。そんな状態で頑張って学べというのは酷というものです。

教育の原点の死滅

ワクチン接種が進み、コロナが収束した後はどうなるのでしょうか。「コロナ対策」として、各大学は遠隔授業のインフラ整備に多大なエネルギーと資金を投じました。
経済発展を望み、デジタルが大好きな政府も、そうした大学にたくさんの助成金をばらまきました。

いったん仕組みがつくられるとそれを止めることが難しいのは、コロナ禍で授業も満足に行えなかったのに実施された全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を見ても分かります。

2007年、43年ぶりに全国学力テストが復活するとなった頃は、競争をあおり、教育格差を広げて、点数稼ぎのためだけの教育や不正行為が横行することなると警鐘を鳴らす声も多かったのに、最近ではもうほとんどそんな声は聞こえません。

いつの間にか「やるのが当たり前」になり、その問題点すら指摘されなくなってしまったのです。

“真の学び”に必要なもの

真に学び成長発達するためには、師として、友として安心し合える人間関係が不可欠です。一方的で無機質なオンデマンド授業を常態化させ、どんな教育で、どんな人間を育てようとしているのか。

コロナを口実に、教育の原点が死滅させられようとしています。