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あきらめる子どもたち

image070820.jpg「下位校の子どもを見ていると『どれだけ早いうちに諦めるか』という感じです。
親は生活に手一杯。教師も、現場の状況を無視した区の教育『改革』に振り回されて子どもを見る余裕がありません。
親身にかかわってくれるおとなに出会うことができず、『支えられて最後までやり遂げた』とか『頑張って何かに取り組んでほめられた』などの経験を持てない子どもが増えました」(足立区の中学校教諭)

こうした子どもたちの多くは、小学校段階で「自分は駄目だ」と諦めているといいます。成功体験を持つことができなかったからです。
「小学校時代の勉強までさかのぼって教えようとしても『もういい』と、やる気になれない子も多い」(足立区の中学校教諭)そうです。


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それだけでなく、中学生になったころには「進学校に行く子と自分は住む世界が違う」と格差の壁をしっかりと意識してしまっていることも少なくありません。
授業中に立ち歩いたり、騒いだりしてしまうのは、こうした子どもたちが多いそう。どうしようもないやるせなさを隠すため、つい“はしゃいで”しまうのです。

校長や教師へのプレッシャー

学力テストをすれば、絶対に学校は序列化されます。必ず一位になる学校はあるし、逆に最下位になるところも出てきます。
一位になれば「このまま頑張れ」、二位だと「もっと頑張って一位を目指せ」、下位なら「とにかく少しでも上に」と言われます。「これで十分」という終わりがないのです。

しかも、その“頑張り度”が学校の予算や評価に反映されるのです。校長や教師たちが受けるプレッシャーはどれほど大きくなるでしょう。

そのうえ、学校選択制も実施されています。「できることなら下位校ではなく上位校に通わせたい」と思う保護者が増え、学校によって生徒の数や学力に偏りが出るのは必然です。
足立区に住む小学生の母親は言います。

「予算に差がつくのは反対だし、頭では『テストの順位なんてあてにならない』『いろんなタイプの子どもと交わった方が子どものためになる』と分かっています。でも、なんとなく下位校には問題児が多い気がして避けたくなってしまう。『どうせ選ぶのならなるべくリスクは減らしたい』と思ってしまうんです。多くの人に選ばれる中学校を選んでおいた方が安心な気がして・・・」(続く…

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実は、この母親の子どもが通う小学校の学力テスト成績はあまり良いほうではありません。そのせいか他校の保護者や教師から「授業も成り立たない困難校に違いない」と誤解されることも多いそうです。
でも、中身はまるで逆。子どもと教師の関係はわりと良く、学級崩壊などもありません。行事が多く、子どもたちも楽しそうに通っています。

「でも最近、校長先生が『学力向上』とよく言うようになって学校の雰囲気が変わって来ました。校長先生は行事を削ってプレテストの時間を確保したいんだと思います。上位校の親に聞くと、その学校は毎月のようにプレテストをして学力テストに備えていると言います。テストでいい点数を取るためには“テスト慣れ”も大事。行事や授業を削ってテスト対策をすれば点数は上がるでしょうね」(母親)

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「選ばれる学校」であり続けるために

蛇足かもしれませんが、いわゆる上位の中学校に子どもが通っている足立区在住の母親の話も紹介しておきましょう。

「学校の雰囲気はけして良くはありません。落ち着かない子が多く授業が成り立たない時があったり、男子の間ではイジメが日常化しています。子どもたちは仲間をつくるとか、つながりを大事にするという意識が希薄。教師のなかには、子ども同士がトラブルを起こしてもかかわろうとしない人もいます」

こちらの母親の子どもは上位校のなかでも成績優秀。そのため、いつも教師に「この調子で頑張れ」と言われています。そのため、学力テスト前には「成績が下がったらどうしよう」とかなりのプレッシャーを感じているようだと話していました。

統廃合されない「選ばれる学校」であり続けるためには、子どもの気持ちなど考えてはいられないのです。(続く…

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足立区独自の教育「改革」がもたらした学力テスト、そして学校選択性(学区制廃止)、生徒の質と数に合わせた予算配分。その結果として顕著になった学校間・子ども間の競争と序列、生徒の質や数に合わせた予算配分、あきらめる子どもの増加。

そこには、教育というものを「子どもを中心に考える」という姿勢が欠落しています。
そしてそれはそのまま、これから日本全体が進もうとしている教育「改革」の方向性と重なります。

だからこそ、足立区の不正問題が明るみになる前から、多くの人が今年4月に行なわれた全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)に反対の声を挙げたのです。

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無頓着な教育行政

ところが、日本の教育行政はまったく無頓着です。全国学力テスト直前に話を聞いた文部科学省初等中等教育局教育学力調査室の担当官は次のように話していました。

「そういった話は私どもの耳には届いていません。しかし、もしそんな事態が起きているなら区教委が速やかに対処すべきです。競争の激化は私たちの望むところではありません。今回の調査においては競争の道具とならないよう、実施要項で不開示情報にするなど配慮しています。全国学力テストの目的は、あくまでも『児童生徒の学力・学習状況を調べ、各教育委員会や学校の問題を把握し、改善すること』です」(続く…

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教育行政の不勉強?

image070910.jpg もし、本当にそう信じているなら、文部科学省は大変な勉強不足です。
なぜなら、60年代の全国学力テストが二度実施されただけで中止となったのは、試験日に成績の悪い子を休ませたりするなどの不正があったためです。
「全員参加にした方が、より正しい学力や学校などが抱える問題を測ることができる」
というのは間違いだと言わざるを得ないことは歴史が証明しています。

そして、そのような過去の教訓を無視して全国学力テストの復活を公の立場で主張したのは、常々「国家の発展のための人材育成には競争意識を高めることが大事」と発言していた中山成彬文部科学大臣(当時)です。
その後、この発言を「待っていました」とばかりに内閣府に置かれた経済財政諮問会議(2005年)や規制改革・民間開放推進会議(2006年)などが「公教育への競争と選択の導入とセットで全国学力テストを行う必要性」を繰り返すようになります。

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競争激化は避けられない

ちなみに、これらの会議の構成メンバーは、政府の機能や公共の役割を後退させ、なんでも市場経済原理にゆだねることを「よし」とする学者や大企業のトップばかり。つまり経済活動を何よりも優先と考える人たちです。

アメリカやイギリスでの教育「改革」を見れば、そうした人たちの教育におけるねらいは明らかです。
競争を激化させ、国際社会で勝ち残ることができる企業の人材を確保するため、エリートにだけ手厚い予算配分を可能にする教育システムをつくること。そして、その他の子どもたちや子どもをエリートにするためにお金をいとわない保護者たちには、できるだけたくさんの教育サービスを買ってもらうことです。

たとえ文部科学省が本心から競争主義を排除したいと考えていたとしても、最も中枢の機関である内閣府が競争主義的な教育を応援しているのです。中途半端ななり方では、防ぎようはないでしょう。

結果を不開示情報にしても効果はない

テスト結果を不開示情報にするくらいでは、競争を抑える効果はまったく期待できないのです。何しろ「住民に公開を問われた際の判断は、ぞれぞれの自治体に委ねる」(文部科学省)ことになっています。

学力低下を気にかけ、学力向上のために運動会なども無くすべきだとまで主張する保護者が増える昨今、多くの自治体で公開を迫る住民が出てくることは必至です。
今年二月には、大阪府枚方市で、市が実施した学力テストの学校ごとの結果を公表するよう促す大阪高等裁判所の判決も出ています。(続く…

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こうして改めて見てみると、文部科学省は、長年、教育行政に取り組んできた自らの立場を守るため、本音と建前を使い分けながら、競争を推進する教育「改革」の要となることができる道を探っているかのように見えます。

その立場上、文部科学省はさすがに「競争によって学力の向上を図る」とは公言できません。しかし、経済界がリードし、内閣府が進める教育「改革」の流れに逆らうこともできません。
そのために考え出した策が、全国学力テストを行なって、その結果を検証し、地方行政と学校運営をコントロールするという方法だったのではないでしょうか。

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私と話したときにも文部科学省の担当官は「学力問題解決のためにPDCAサイクルというマネジメントサイクルを確立していく」と、はっきり語っていました。
そして、実際、今回学力テスト不正問題の起きた東京都足立区で、大手企業を参入しての「マネジメントサイクルに基づく戦略的な学校経営の調査・研究」を行なっています。

個々の学校における教育活動の成果が測定できなければサイクルは動きません。だから文科省は抽出ではなく「全員参加」の学力テストにこだわるのです。

品物のように管理される子ども

ここで気をつけておきたいのは、このマネジメントサイクルが、元々は「企業が製品の品質向上や経費削減のために用いてきた経営改善手法」であることです。

そんな手法が学校教育に導入されれば、子どもは品物のように管理され、品質向上のために競わされ、トップ(内閣府と経済界)が望む品質を持った子どもを集めることができる学校に多くの予算配分がされるようになります。

そうなれば、トップにとって市場価値の低い子ども、いわゆる“できが悪い”と見なされた子どもが、どんなふうに遇されることになるかは、火を見るより明らかです。
そして、一個の人間としてきちんと向き合ってもらうことができず、自分という人間に価値を見出すことができなくなってしまった子どもがどんなふうになっていくのかも・・・。(続く…

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全国学力テストに反対する識者のひとりである名古屋大学の中嶋哲彦教授は、全国学力テストを容認できない理由をこんなふうに語っています。

「競争で向上させることができるのはせいぜい得点力。本当の学ぶ力、つまり自然や社会、人間を認識する世界観を獲得する力は育ちません。なぜならそれは人格形成そのものだからです。人との共生、人との関わりの中で人間性を育てながら得るもの。そうしたプロセスがあって初めて、獲得した知を他の人に還元できる人間になるのです」

以前にブログで紹介した愛知県犬山市の子どもたちの様子を思い浮かべても、中嶋教授のセリフはもっともだと思います(「子どもの権利条約が生きた町」参照)。

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犬山では、少人数の「学び合い」の教育が、教師に子どもと向き合い、応答できる環境をつくり、受容的な関係性をもたらしました。徹底的に競争を廃した教育と、教師との豊かな関係性が子どもに安心感や信頼感の種をまき、好奇心や学ぶ意欲が芽吹いてきています。さらにだれひとり置いてきぼりにせず、助け合うという経験が「困っている人は助けてあげたい」と考える共感能力も育んでいます。

東京都足立区で起きた区の学力テスト不正問題、そしてその背景に広がる子どもたちの状況を見直してみれば、学力テスト体制というものが、犬山の教育環境とどれほど離れていることか・・・。すぐに分かることです。

「改革」の中身を直視すべき

内閣府が昨年発表した「社会意識に関する世論調査」の「国に対する意識について」を見ると、「悪い方向に向かっている」ものに教育をあげた人が36.1%で一番多いという結果があります。
多くの人が日本の教育に危機感を抱いているのです。

もし、そうであるなら「改革」という、一見、響きの良い言葉にごまかされず、きちんと「教育とはどうあるべきか」を考え、「改革」の中身を直視するべきです。

もちろん、「目の前にいる子どもの顔を見て、その声を聞く」ということを忘れてはいけません。子どもたち以上に、子どものことを教えてくれる“子どもの専門家”など存在しないのですから。

一月末、愛知県犬山市に行ってきました。犬山市立楽田小学校の公開授業を参観させていただいたのです。

犬山市は以前にもこのブログで紹介した「子どもの権利条約が生きた町」です。

この2月には、今年度に引き続き来年度の「全国学力テスト」(全国学力・学習状況調査)への不参加も決めました。同市の市長をはじめ、市民の間には「犬山だけが参加しないのはいかがなものか」との声もありますが、このテストの問題性を重視し、不参加としたのです。

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「子どもらしい」子どもたち

それはさておき、楽田小の話です。
実は、実際に学校の授業風景を見せていただいたのは今回が初めて。たびたび話に聞いていた「学び合い」の学習とはどんなものなのか、ワクワクしながら訪れました。

まず感じたことは、子どもたちが良い意味でとても「子どもらしい」ということ。
見知らぬ来訪者に興味津々。自由時間になると挨拶をしてくれるだけでなく、屈託なく「どこから来たの?」「何してるの?」などなどと話しかけてきます。
形式通りの挨拶というのではなく、本当にお客さんが来たことを喜んでいるという雰囲気です。

低学年になると、さらにパワーアップです。私と一緒にいたカメラマンさんの大きな機材入れを担ごうとしてくれる子、カメラに写りたくて身を乗り出して来る子、勉強を教えようとしてくれる子・・・いろんな子がいました。

私たち見学者が別室で給食をごちそうになっていると、入れ替わり立ち替わり、その様子をのぞきにきては、目が合うと恥ずかしそうに逃げていきます。

「子どもは風の子」

授業が始まると、ものすごい集中力で先生の話を聞き、意見も出し合います。そして長い休み時間になると、みんな一斉に教室を飛び出して行きます。
校庭を駆け回る姿を見て、思わず「子どもは風の子なんだなぁ」と、つぶやいてしまいました。

ゲームや携帯電話で遊んでいる子はひとりも見かけませんでした。学校に持ち込んではいけないルールがあるのかと思って校長先生に尋ねると、

「べつに禁止はしていませんが、持ってくるあまり子はいませんね。必要を感じないのではないでしょうか」

という回答。「禁止にすることなんて考えたこともなかった」というような表情です。(続く…

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「学び合い」の授業

どの授業風景もとても印象に残るものでしたが、とくに印象深かったのは小学二年生でやっていた算数のグループ学習(三〜四人)です。

学習障害と思われる友達に一生懸命教えている仲間の姿があったのです。最初から答えを言うのではなく、相手に考える時間を与えながら、根気よく友達が答えにたどり着くのを待っていました。
休み時間になっても、学習障害の子が理解して、答えを出すまで付き合っていたのです。

そして、その学習障害の子が、机から物を落としそうになったとき、ひとりの見学者が落ちないよう手を添えると、同じグループの子どもが「ありがとうございます」と、代わってお礼を言ったのです。

その様子を見ていて「ああ、これが犬山の『学び合い』の授業なんだ」と、つくづく思いました。

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「学び合い」の仕掛け人は教師

教師は子どもからお呼びがかからなければ、原則として手は出しません。グループの周囲をぐるぐる周りながら、子どもたちの「学び合い」の様子を見守ります。

でも、そうした「学び合い」が成り立つような仕掛けづくりや工夫にはかなりの時間を費やします。
たとえば、暴れん坊の男子の周囲はおとなしい女子で固めます。最初から答えを教えがちな子には、日頃から「何が相手のためになるか」を言い含めておきます。

学習状況だけでなく、一人ひとりの子どもの特徴や家庭の様子、友だち同士の人間関係までをなるべく多くの教師が共有できるよう、職員室での情報交換やざっくばらんな話し合いも欠かしません。

すべての子どもがクラスに溶け込む

見学終了後に聞いたのですが、楽田小には各クラス2〜3人程度、学習障害の子どもがいて、日本語が苦手な外国籍の子も多いそうです。でも、私がそれと気づいたのは、たったひとりだけでした。

「もちろん、テストをすればハンディのある子どもの点数は低くなります。でも、クラスではまったく目立たず、溶け込んでいます。教師との信頼関係の中で、友だちとかかわりながらいろいろな子が一緒に学ぶことで人を大事にすることを学びます。
望ましい人間関係があると子どもは自ら学ぶようになるし、人の話もしっかり聞けるようになります。それが学力にも反映されていくのです。
いじめはほとんどないし、家庭の事情以外での不登校もありません」(校長先生)

競争を無くし、人と共に生きる喜びを実感できるような教育を目指してきた愛知県犬山市。その全体で学力が上がり、子どもたちの共感能力が伸び、ひとりひとりの持つ能力が開花し始めていることはこのブログで以前書いた「子どもの権利条約が生きた町」を参考にしてください。(続く…

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実は、人間が持つさまざまな能力を伸ばすには、競争よりも「みんなで伸びる」ことを目指す犬山のような教育の方がはるかに効果的です。

協同教育を研究している中京大学の杉江修治教授(教育心理学)は『全国学力テスト、参加しません。—犬山市教育委員会の選択』(明石書店)で、こう書いています。

「最近の教育改革では、教育に競争原理を導入しようという議論が多いのですが、競争が効果的だという話はそのほとんどが神話(根拠のない空論)に過ぎず、協同が一貫して有効なのだということが実証研究では明らかになっているのです。(略)競争と協同とを比較すると、学習でも作業でも、ほぼ一貫して協同のほうが効果的なのです。競争は勝つ見込みのある一部の人しか意欲づけることはありません。また、自らの成長より人に勝つことのほうが目的になってしまいます」(90頁)

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なお、実証研究について詳しく知りたい方は、『競争社会をこえて—ノー・コンテストの時代 (叢書・ウニベルシタス)』(アルフィ・コーン著/法政大学出版局)をご一読ください。
この本を読むと、競争がいかに無意味・・・いえ、悪であるのかが分かります。
競争によって、一時的には作業効率が上がったり、特定の能力だけが伸びたりすることはあります。でも、それよりも失うものの方がはるかに大きいことが実感できます。

競争によってダメージを受ける「共感能力」

最もダメージを受けるのは、「人の傷みを自分の傷みとして感じることができる能力」。つまり「共感能力」です。

「共感能力」は、人間が安全に生きるために欠かせない能力です。遺伝子に組み込まれたこの「共感能力」があるからこそ、人間は「他者とつながる」ことができました。そして、この能力によって、他の動物より無力な人間が、厳しい自然環境の中で生き残り、文化や文明を発展させてきました。

しかしだからこそ、今日の日本のような競争社会においては、早いうちから競争原理を子どもに教え込む必要があります。
東京大学大学院の神野直彦教授(財政学)は『教育再生の条件—経済学的考察 (シリーズ・現代経済の課題)』(岩波書店)で次のように書いています。

「自然淘汰は競争原理を抑制することを求める。というのも、同じ『種』同士で競争をすれば、『種』の存続は脅かされてしまうからである。同じ『種』同士では本能的に競争することがないとすると、子どもたちを教育する過程で競争を動機づけなければ、競争原理は機能しない。他者は自己の成功への妨害物として、他者への敵意を子どもたちに植え付けなければならない」(11頁)(続く…

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実はつい先日、「他者は自己の成功への妨害物として、他者への敵意を植え付けられた子ども」の影響を垣間見ることがありました。
東京都杉並区でのことです。

今、杉並区では小学校の“荒れ”が問題になっています。
授業妨害をするくらいは当たり前。下級生に鉄棒を突きつけて脅したり、街頭で消化器をばらまいたり、休日に校舎に入ってスプレーで落書きしたり、ドアを蹴り倒してガラスを粉々にしたりという事件も起きているそうです。

ところが、こうした事件はなかなか表面化しません。
日ごろは問題を起こしていても、保護者や見学者の前では“いい子”を演じられる子が多いためです。
日常の音楽の授業は成り立たないのに、合唱コンクールなどでは見事にピアノやウ゛ァイオリン弾きこなしたりするのだそうです。

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心が磨耗した子ども

事件の中心にいるのは、成績がトップクラスの、わりと裕福な家庭の子であることが多いといいます。
長く小学校で教えてきた教師は、その原因をこんなふうに話していました。

「席やクラス編成まで成績ごとに分けられる塾で、毎日遅くまで勉強していたらストレスもたまる。競争によって子どもたちの心が摩耗してしまっている」

競争を助長する多くの「改革」

杉並区では、現在三期目となる区長の旗振りの下、大手企業やメディアも巻き込み、競争を助長する多くの「改革」が断行されてきました。

いくつか例を挙げると、学校選択制、学校運営協議会に人事権や運営権限まで持たせる地域運営学校、三菱総合研究所に1200万円でカリキュラム作成を委託した小中一貫校、行政の負担を保護者に担わせ、寄付金を呼び込む受け皿にもなるボランティア団体・学校支援本部の設置などです。

競争が激化する中で、各学校は子どもがたくさん集まるような「良い学校」であることをアピールしようと、しのぎを削っています。
競争的な「改革」が進む他の地域と同じように、子どもひとりひとりの思いや願いよりも、学校の体面や見かけの良さを宣伝することに必死になるようになったのです。

競争で勝ち上がった民間人校長

こうした競争で勝ち上がったのが区立和田中学校(和田中)です。
和田中は、リクルート出身の校長を登用し、「日本初の民間人校長のいる学校」として注目されました。

民間人校長は、その職歴と人脈を活かし、著名人や芸能人による講演会や、外部の人や情報を取り入れて社会問題などを扱う「よのなか科」、英検講師が土曜日に授業する「英語アドベンチャーコース」など、今までの公教育ではとても出来ない特別授業で、保護者の気持ちをとらえ、多くの子どもを呼び込んできました。

中でも話題になったのは今年1月に同区立和田中学校(和田中)ではじまった大手進学塾・SAPIXと提携した有料の夜間授業「夜スペシャル」です。

注:文中の民間人校長は2008年3月末日で退任し、2008年4月からは別の民間人校長になっています(続く…