「人と生きる」ことを学ぶ学校(2/7)
「学び合い」の授業
どの授業風景もとても印象に残るものでしたが、とくに印象深かったのは小学二年生でやっていた算数のグループ学習(三〜四人)です。
学習障害と思われる友達に一生懸命教えている仲間の姿があったのです。最初から答えを言うのではなく、相手に考える時間を与えながら、根気よく友達が答えにたどり着くのを待っていました。
休み時間になっても、学習障害の子が理解して、答えを出すまで付き合っていたのです。
そして、その学習障害の子が、机から物を落としそうになったとき、ひとりの見学者が落ちないよう手を添えると、同じグループの子どもが「ありがとうございます」と、代わってお礼を言ったのです。
その様子を見ていて「ああ、これが犬山の『学び合い』の授業なんだ」と、つくづく思いました。
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「学び合い」の仕掛け人は教師
教師は子どもからお呼びがかからなければ、原則として手は出しません。グループの周囲をぐるぐる周りながら、子どもたちの「学び合い」の様子を見守ります。
でも、そうした「学び合い」が成り立つような仕掛けづくりや工夫にはかなりの時間を費やします。
たとえば、暴れん坊の男子の周囲はおとなしい女子で固めます。最初から答えを教えがちな子には、日頃から「何が相手のためになるか」を言い含めておきます。
学習状況だけでなく、一人ひとりの子どもの特徴や家庭の様子、友だち同士の人間関係までをなるべく多くの教師が共有できるよう、職員室での情報交換やざっくばらんな話し合いも欠かしません。
すべての子どもがクラスに溶け込む
見学終了後に聞いたのですが、楽田小には各クラス2〜3人程度、学習障害の子どもがいて、日本語が苦手な外国籍の子も多いそうです。でも、私がそれと気づいたのは、たったひとりだけでした。
「もちろん、テストをすればハンディのある子どもの点数は低くなります。でも、クラスではまったく目立たず、溶け込んでいます。教師との信頼関係の中で、友だちとかかわりながらいろいろな子が一緒に学ぶことで人を大事にすることを学びます。
望ましい人間関係があると子どもは自ら学ぶようになるし、人の話もしっかり聞けるようになります。それが学力にも反映されていくのです。
いじめはほとんどないし、家庭の事情以外での不登校もありません」(校長先生)
競争を無くし、人と共に生きる喜びを実感できるような教育を目指してきた愛知県犬山市。その全体で学力が上がり、子どもたちの共感能力が伸び、ひとりひとりの持つ能力が開花し始めていることはこのブログで以前書いた「子どもの権利条約が生きた町」を参考にしてください。(続く…)