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前出の教師が、「それはいじめじゃないの?」とやられている側の子に尋ねたときも、「いじめなんて言われたらプライドが許さない」との答えが返ってきたとのこと。

やられている側の子も笑ってはしゃいでいるため、教員の方も「遊んでいるんだ」と思ってしまいがちです。“いじられキャラ”が、たとえいじめの延長線上にあるものであったとしても、周囲はおろか、本人でさえ気付かないのです。

実はよくある話

こうした昨今のいじめ事情は、ある雑誌の取材を通じて知ったことでした。でも、実は同じような話ーー「いじめなのか違うのか判断が付かない関係の対応に困っている」ーーそんな話は、日常的な相談や講座の講師を務める中で何度も聞いたことがありました。

たとえば、東京都の児童館職員は「みんなで遊んだ遊び道具の片付けをいつも1人の子に押しつけるが、押しつけられた子も嫌がる素振りも見せず、黙々と片付けている」と語っていました。

また、福島県の学童保育では「グループ内で一目置かれた存在の子がいて、その子の気分次第でだれかを無視したり、小間使いのように使ったりしている。けしていい関係には見えないのに、されている子もグループから離れようとしない」との話を聞きました。

しかし、恥ずかしながら私も、そのいじめ取材をするまでは、「こうした人間関係がいじめの延長線上にあるものでは?」とは思い至りませんでした。

スクールカースト

そんな子ども間に見られる上下関係。たとえば上司と部下のように決定づけられてはいないけれども、クラスメイトの間に存在する序列・ランク付け。そのことを教育研究者らの間で「スクールカースト」と呼びます。

『教室内(スクール)カースト』(鈴木翔著・光文社新書)や、ドラマ『35歳の女子高生』(日本テレビ)で話題になりました。

同書によると、小学校時には「個人間」の地位の差だったものが、中学・高校時になると「グループ間」による地位の差に変化するとのこと。その関わりは空気を読んで行われ、クラスに笑いが起きるもので、上位のグループにはさまざまな特権が与えられるだけでなく、それを行使する義務があるなどの特徴があり、そして、子どもたちはそれをいじめとは認識していないのだそうです(141~142ページ)。(続く…

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本当にスクールカーストなるものは存在するのでしょうか。

都内に住む高校一年生の女生徒に尋ねてみました。すると、驚く答えが返ってきました。

「うちの中学には『ハデーズ』と『ジミーズ』というグループがあった。きっちりした基準みたいなものはなかったけど、みんなだれがどのグループか認識していた。グループは固定されていて、入れ替わることはなかった」

彼女によると、「ハデーズ」は、明るくていい意味でも悪い意味でもみんなを引っ張って行く子たちのグループで、強い発言権を持っていたそうです。対する「ジミーズ」は地味な子たちのグループで、たとえばアニメ好きなどのオタクと呼ばれる子たちが入っていたとのこと。

「ハデーズ」はいつも偉そうな感じで、「ジミーズ」を“いじって”いて、見下しているようだったとのことです。
たとえばプリントを取りに行くとか、ちょっと面倒なことを「ジミーズ」にさせていて、「ジミーズ」は黙って従っていたとのこと。

いわゆる「アゴで使う」ような感じだったようなのですが、言葉としては「取って来て」と言うだけ。そのニュアンスを文字で表現するのはとても難しと思います。

だれも気づかないいじめ

どちらのグループでもない中間層に属していた彼女は「なぜ同い年の子を恐れないといけないんだろう」という疑問は感じていました。でも、「ハデーズ」の行為をいじめだと思ったことはなかったそうです。

なぜなら、彼女の考えるいじめは、大勢でよってたかってひとりを攻撃するというもの。グループ間での上下関係は含まれません。
だから中学校時代たびたび行われた『いじめに関するアンケート』の「いじめられている人はいますか」という設問の回答は、いつも「いいえ」でした。

そしておそらく教師も「ハデーズ」がやってることをいじめとは思っていなかったのではないかと言います。

「『なんでも頼めるくらい仲良し』と思っていたんじゃないかな」(女子生徒)(続く…

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前回ご紹介した『教室内(スクール)カースト』(鈴木翔著・光文社新書)という本でも、教師がこうした上下関係をどのように理解しているのか、興味深い考察が記されています(第4章後半から第5章)。

端的に言うと、教師は「自己主張ができて『カリスマ』的な『強い』生徒は『上』で、『やる気がなく』『意思表示しない』『弱い』生徒は『下』であると考え、「教師はこうした生徒間の上下関係を利用して、教室内の秩序を維持しようとしている」(302ページ)そうです。

教師は「能力」の差と理解?

こうした事実を受け、同書の解説を書いている東京大学大学院教育学研究科教授の本田由紀さんはこう指摘しています。

「生徒にとっては『スクールカースト』は逃れがたい『権力』として作用している。他方で、教師にとっては『スクールカースト』における上下関係は『コミュニケーション能力』など生徒の『能力』を基盤として成立しているものと解釈されている」(302ページ)

空疎ないじめ対策推進法

このように子どもたちのいじめ事情を見てきたとき。「いじめなのか違うのかわからない微妙な関係」がスクールカーストと呼ばれて、教室内の日常になってしまっている事実を知ってしまったとき。
政治家たちが胸を張って「今までにない画期的な法律」と語るいじめ対策推進法はとても空疎なものに見えてしまいます。

いくら道徳を強化しても、いくら方針や委員会を策定しても、いじめっ子には毅然とした対応をするよう呼びかけても、目の前で行われていることが「いじめである」と認識できなければ何の手立てを打つこともできません。

子どもの成長・発達の大問題

確かに「スクールカーストはいじめではない」という主張もあります。「『本人がいじめではない』と言っているのだから、それ以上深読みする必要はないではないか」というご指摘もあるでしょう。

しかし、お互いを値踏みしてランク付けし合い、強者が弱者を貶める・・・。そんな関係が子どもたちの間に蔓延しているのだとしたら、それは子どもの全人的な成長・発達を支えるための国際的な約束である子どもの権利条約が唱える「調和の取れた人格」(子どもの権利条約・前文)へと日本の子どもたちが成長・発達できていないという紛れもない証拠です。

それはもう「子どもが人間としての成長が歪んでしまっている」ということなのですから、大きな問題と言っていいのではないでしょうか。(続く…

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ではなぜ、こんなにも子どもたちがうまく成長発達できなくなってしまったのでしょうか。
相手を値踏みし合ったり、ランク付けし合ったり、貶め合ったり・・・そんな、人間として恥ずかしいことを日常的に平気で行うことがめずらしくなくなってしまったのでしょうか。

理由は簡単です。
競争によって成果を奪い合うことを是とする私たちの社会が、常に相手を値踏みし、人を序列・ランク付けし、さまざまな意味で、少しでも自分より下の人間を見つけては安心感を得る社会になってしまっているからです。

競争を激化させた結果

そんな社会に子どもたちを適応させるため、グローバル経済の中で勝ち残れる多国籍企業のリーダーを育成するため、社会にならって教育システムもどんどん競争的にしてきました。

第一次安倍晋三政権下では、一人ひとりの子どもが生来持っている能力を最大限に伸ばす「人間教育」を目的としていた教育基本法が「改正」され、あらゆるおとなが競争による「人材育成教育」に荷担せざるを得ないよう追い込む新しい教育基本法がつくられました(2006年)。
さらに翌2007年には、新教育基本法を具体化するために教育関連の法律が「改正」され、46年ぶりに、全員参加を原則とする全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が復活し、否が応でも、競争の土俵に乗らざるを得ない仕組みが出来上がりました。

この全国学力テストがなぜ、どのように問題なのかということを知りたい方は、「学力テスト不正問題」の回を参考にしていただくとして、ここは先に進みます。

国連を無視した果てに

こうして、国連「子どもの権利委員会」(国連)が「競争(管理)と暴力、プライバシーの侵害にさらされ、意見表明を奪われ、その結果、発達が歪められている(Developmental Disorder)」という衝撃的な勧告を日本に突きつけた第一回目の日本政府報告書審査(1998年)以来、三回にわたって「競争主義的な教育制度を見直せ」と勧告されているのに、日本政府は無視し続けてきました。

それどころか、競争的な教育制度をさらに押し進め、国(経済界)が「よし」とする目標を教え込み、その期待に応えられる程度で序列化し、「下位に位置付くことも自己責任」の格差社会に子どもを適応させ続けてきました。(続く…

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これでは、子どもたちがお互いをランク付けし合うようになるのも当たり前です。

「だれかとつながる」のではなく、「だれかを蹴落とす」競争は、人と人とを分断します。子どもが生まれながらに持っているはずの、他者とつながるために必要な「他者の痛みを自分のものと感じる能力」(共感能力)を蝕みます。

だからたとえば、強い立場にいる子は「相手は傷つくかもしれない」と想像をめぐらせたり、自分の利益につながらないことは「なるべく止めよう」と思うようになってしまったりします。

一方、弱い立場にいる子は、下に見られ、理不尽な扱いをされても「それは自分が悪いんだ」と、自己責任の論理を受け入れ、不当なことでも甘んじて受けるようになります。
強者に刃向って序列から外されることは、その世界から抹殺されるよりは、よっぽどいいからです。

「自分は価値ある存在」と思えない

そもそも、いつでも市場価値ではかられ、だれかと比べられ、社会で「価値がある」とされる何かで秀でていないと認めてもらえない昨今。“ありのままの自分”を認められた経験がない子どもが増えています。

勉強ができなくても、立派な意見が言えなくても、おとなが望むようなことができなくても、「それでもあなたが一番大切だよ」「あなたはかけがえのない存在だよ」と言われたことのない子がたくさんいます。

そんな経験や実感がない子どもは、「自分は価値のある存在」などとは思えようはずがありません。だから、どんなに理不尽なことをされても、ひどい扱いを受けても、「仕方が無い」と受け入れるしか無くなってしまいます。(続く…

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子どもが、真に自分を大切にし、自分らしく生きながら、他人のためにもエネルギーを注ぐことができるような人間へと成長・発達するためには、身近なおとなに無条件で愛される必要があります。

たとえ市場価値に合わない“ダメな子”でも、「そのままでいいんだ」と抱えられ、受け入れてもらう必要があります。

なぜなら、そうしたおとなとの関わりを持てなければ、「自分はそのままで価値がある」という自己肯定感や「世の中は自分を受け入れてくれている」という基本的信頼感、「自分の痛みに共感してもらった」という共感能力は決して発達しないからです。

これらの感覚や能力は、道徳教育や法律をつくることで、外から埋め込めるものでは決してありません。

本当にいじめを無くしたいなら

本当にいじめを無くしたいなら、「驚くべき数の子どもが、情緒的・心理的充足感(well-being)を持てずにおり、その決定的要因が子どもと親および教師(おとな)との関係の貧困さにある」と述べ、さらには「知的な人材教育偏重を改め、人間として成長発達出来るような教育制度とのバランスを取れ」と言う国連の勧告(2010年)を重く受け止めるべきです。

そして、身近なおとなが、目の前にいる子ども一人ひとりと真摯に向きあうことができるようによう、あらゆる仕組みを変えていくべきです。

こうした視点を持たない、いじめ防止対策推進法。そんな法律が、いじめの延長線上にあるスクールカーストが状態化した子どもたちの現状を救うことなどできないことは明らかです。

 社会、いや、世界全体が新型コロナ・ウィルスに振り回されたこの1年。その全体を振り返って、つくづく感じるのは「正義を振りかざして他者を攻撃する」人が増えたということです。

 ベストセラーにもなった脳科学者の中野信子さん著書『人は、なぜ他人を許せないのか?』でも「正義中毒」という言葉が話題になりました。

「テラスハウス」事件

 思い出されるのは、フジテレビのリアリティー番組「テラスハウス」に出演し、視聴者から誹謗中傷を受けた女子プロレスラーの木村花さんが、享年22歳という若さで自殺した事件です。

 つい最近、警視庁が「ツイッターで中傷する投稿を繰り返した」として、20代男性を書類送検する方針を固めたとの記事を読みました。
男性は5月中旬ごろ、木村さんのツイッターの投稿に「生きてる価値あるのかね」「ねぇねぇ。いつ死ぬの?」などと匿名で複数回書き込み、侮辱罪の容疑がもたれているそうです。

マスメディアの「正義中毒」

 ところが今も、視聴率稼ぎのため、悪感情をあおったテレビ局の責任はいまだ問われません。弱い者を利用して、都合の悪いときはほおかむりを決め込む。まるでどこかの政治家のようです。

 たとえ少数派となったとしても権力者を監視し、弱者を代弁するーーそんな「真の正義」たるジャーナリズムの役割を昨今のメディアはほとんど果たしていないような気がします。
 それどころか、大多数と一体化して決して反撃できない者をなぶり者にし、徹底的に避難しているというのが現状ではないでしょうか。

 そんなマスメディアの「正義中毒」を感じたのが、お笑いコンビ「アンジャッシュ」の渡部建さんが複数の女性と性的関係を持っていたという一件です。

理解に苦しむ

 記者会見時の「渡部さんにとって多目的トイレとはどんな場所ですか?」というメディアからの質問には、本当に吐き気がしました。「自分は正しい」というナルシスティックな思い上がりが、プンプンに匂っていました。

 複数の女性と関係を持つことがいいことだとは言いません。報道されているように、相手の女性を軽んじた扱いをしたのだとしたら、それも許されないでしょう。

 しかし、妻子がおり、芸能人という注目を集める立場にいながら、こうした行為が止められなかった彼の“病”には、それなりの理由や不安があるはずです。その事情も知らない者が一方的に責める行為は、たんなるいじめです。

 そもそも、夫婦関係、男女関係のことをどうして他人が「正しいの」「間違っているの」と声高に叫べるのかも、理解に苦しみます。

今やコロナに感染した方々までが対象に

 こうした「正義中毒」は、今やコロナに感染した方々やその家族、医療従事者にまで向けられています。

 どんなに用心していたって感染するときは感染します。それは一個人が対策を怠ったかとか、規制や自粛を守ったかという道徳の問題ではなく、政治や行政の感染症対策の問題です。

 そんな冷静な判断もできず、欲求不満解消のために安全な場所から弱い立場の者を攻撃し、正義を気取った気持ちでいる。

 ーー来年こそは、こうした「正義中毒」に振り回されない1年になりますように。

10月4日、文部科学省が2022年度の「問題行動・不登校調査」の結果を公表しました。

全国の国公私立小中学校で30日以上欠席した不登校の数は10年連続の増加となり、29万9048人と過去最多を更新しています。『共同通信』(23年10月4日配信)によると、この2年間は前年度からの増加幅が2割を超え、計約10万人の大幅な増加となっているとか。

また、いじめ認知件数は10.8%(6万6597件)増の68万1948件で、身体的被害や長期欠席などが生じた「重大事態」は217件増の923件に上り、いずれも最多でした。

「いじめが理由」は0.3%

不登校といじめの関連性については、常々言われています。が、同調査では、学校が不登校の理由(3つまで選択可)と判断した「いじめ」はなんと954人(0.3%)という少なさでした。

文部科学省は、「必ずしも学校に行く必要はないとの認識が広まったことなどが不登校増加の要因」という認識で(同上)、専門家らから疑問の声が上がっています。

いじめへの認識が違う?

『東京新聞』(23年10月19日)は、他の文科省の各種調査と比較分析した東京電機大の鈴木翔准教授の下記のようなコメントを載せています。鈴木准教授によると、不登校を経験した児童生徒や保護者が直接回答した20年度「不登校児童生徒の実態調査」(20年度)から、不登校のきっかけが「友達のこと(いやがらせや、いじめがあった)」と回答したのは小学生25.2%、中学生25.5%だったそうです。

「(両調査はサンプル数が異なり『単純比較できない』とした上で)「いじめに対する子どもと学校の認識に大きな隔たりがあるのでは」

学校は子どもの世界のほぼすべて

学校は、子どもたちにとって「世界のほぼすべて」です。「1日の大半を過ごす」という物理的な理由だけではありません。友人、知識、価値観、コミュニケーション、所属意識未来など、あらゆるものが学校とつながっています。

子どもからすれば、学校から逃れることなど到底考えれません。

そんな「人生そのもの」の場所が、針のむしろになってしまったとしたら・・・。どれほどの苦痛を味わうことか。その絶望感たるや、想像を絶するほどではないでしょうか。

しかし、「いじめそのものが不登校の原因」かと問われると、少し疑問もあります。

確かにいじめは、不登校のきっかけとなる原因のひとつです。でも、周囲のおとなが、その子どもの辛さをきちんと受け止め、共に悩み・考え、真摯に向き合いながら助けようと努力したなら・・・。子どもの気持ちはだいぶ変わってくる可能性があるのではないでしょうか。

旭川女子中学生いじめ凍死事件

忘れられないいじめ事件があります。21年におきた旭川女子中学生いじめ凍死事件です。

女子中学生は、上級生の男子生徒から裸の画像を送るよう強制され、それを拡散されたりしていました。いじめはエスカレートし、深夜に呼び出されたり、目の前での自慰行為を強要されるなどしていたと言います。

女子中学生は、いじめを受けていた2019年6月学校に電話して「死にたい」と訴えて、自ら川に入ったりもしていました。学校は上級生らから聞き取りをする一方、女子生徒本人には事情を聞かないまま、「いじめではない」と判断しました。女子生徒の母親は、学校にたびたび相談したのに、じめを否定され続けたそうです(『読売新聞オンライン』22年4月16日)。

いじめの認定は訴えから3年後

その後、転校するも女子中学生は不登校となり、SNSで「いじめを受けてから1年たちそうなのに私は何もできません。何もかもが恐くてたまらない」などと発信していました。

警察が動く事態にもなっていましたが、学校や教育委員会の動きは鈍く、いじめが認定されたのは訴えから3年たってからでした。

何が不登校、自殺へと追い込んだか

はたして、彼女を不登校、そして自殺へと追い込んだのはいじめっこたちだったのか。私にはそうは思えません。そうではなく「こんな地獄に自分を置き去りにしたまま平然としているおとなたち」だったのではないでしょうか。

「自分がこんなに辛いのに、その状況を放置しておく世界」ーーそれが「怖くてたまらなかった」のではないか? と思ってしまうのです。

本当の責任はおとなと社会にある

また、女子中学生のSNSなどからは、「自分が悪い」「自分でどうにかしなくては」といった思いも読み取れました。

なぜこんなことまでされながらも、自分を責め、おとなたちへの怒りさえも出そうとしなかったのか。彼女のそれまでの人生も気になりました。

もちろん、いじめはあってはならないことです。不登校のきっかけになることも十分に考えられます。しかし、子どもを本当に追い込んでいるのは、「事なかれ主義」で保身に走る、私たちおとなと社会そのものなのではないでしょうか。