持続化給付金

 非常事態宣言を出すのであれば、それによって必ず起こる国民の不安や経済困窮に対応するための生活支援、経済支援は必須だったはずです。

 支援については「少なすぎる」「遅すぎる」「申請に手間がかかりすぎる」「申請方法が分かりにくい」と酷評が続き、窓口の混乱も続いています。国民から見て「いったいどれが自分に使える支援なのかも分からない」との声も聞こえます。

不備が出にくい申請書が必要だった

 安倍首相は、持続化給付金の支給が遅れている理由について、「(国民が作成する書類に)不備が多い」と、堂々と国会答弁しました。が、緊急事態対策と言うのなら、だれもが簡単に理解でき、手間が少なく、分かりやすい、不備が出にくい申請書を用意すべきだったのではないでしょうか。

 持続化給付金については、「中堅・中小企業、小規模事業者、フリーランスを含む個人事業主に対して、事業継続を支え、再帰の糧としていただく」(政府)ためにつくったはずなのに、事業を受託した一般社団法人サービスデザイン推進協議会が、業務の大半を電通に再委託していたことがわかり、「トンネル団体をつくって電通やその子会社パソナなどが大企業が利益を分け合う実態がある」との批判もあります。

 国民一人あたり10万円の特別定額給付金も、多くの人が手にできるのは7月から8月になりそうです。

何のための非常時代宣言?

東京アラート

 そうしたなか、国は首都圏も含む非常事態宣言を5月25日に解除しました。また、東京都は、5月15日に策定した「東京アラート」をわずか一月足らず(6月12日)で終了させました。

 北九州では第二波を警戒する声が聞かれ、「東京アラート」の基準のひとつ1日あたり20人を越える新しい感染者が見つかっていても、もう警戒する非常事態ではないようです。

 いったい何のための非常事態宣言、何のための「東京アラート」だったのか。公務員を休ませ、PCR検査を滞らせ、「自粛」の名の下に経済活動を停滞させたあの騒ぎは一体何だったのでしょう。結局は、いたずらに不安を煽り、自営業や中小企業など、もともと苦しい生活を強いられていた人々を疲弊させただけです。

 あまりにも謎すぎて、きちんと検査をしたら感染者が次々と発見されてしまい、東京五輪はますます遠のくから? それとも、アベノミクスの失敗を「コロナで経済活動ができなかったから」と見せかけたったから? などと、うがった見方もしたくなります。

緊急事態宣言

 本来、国がすべき努力を怠っておきながら、「緊急事態宣言」でお茶を濁し、国民に自粛と我慢を強いる。さらにこれからは、国民に「新しい生活様式」で過ごすよう迫ります。

「ソーシャルディスタンスを取る」「人との接触、会話を減らす」「人と接近する場合は、マスクを着用する」・・・。

 どれもこれも、関係性の中でしか生きられない、濃厚・濃密な接触がなければ心身の健康を保つことができない哺乳類に属する人間存在の根幹を揺さぶるような生活様式に聞こえます。


もちろん注意や配慮は必要

 もちろん、外出した際には意識的に手洗いしたり、不特定多数の他人と接近せざるを得ない電車内などでマスクを着用することに反対するつもりはありません。

 多くの人が集まる場所、密閉された空間では意識的に換気をするべきだとも思います。効果的な治療薬やワクチンができるまでは、持病があったり、体調が悪かったりした場合には、特別な注意や配慮も必要でしょう。

賛成できないことも

公園でさえソーシャルディスタンスを取って遊べ しかし、信頼関係を築くべき人とのリアルな接触を無くしてオンラインでの授業や会議を日常化。食事のときにははす向かいに座り、無言。病院や施設にいる家族との接近・面会禁止や、離れて暮らす親と子どもが会う(面会交流)ことの中止。

 あらゆる場所でアクリル板やらビニールシート、下手をすればフェイス・シールドで隔たりをつくり、公園でさえソーシャルディスタンスを取って遊べというような生活(写真)には、賛成できません。

こんなときだからこそ

「人が集まるから」と、屋外の娯楽施設や海水浴場まで閉鎖したり、開放的な自然への立ち入りを禁じるのはいかがなものかと思います。

「人が来ると困るから」と、バラ園でつぼみを切り取ったり、海辺にバリケートを築いたりしているニュースを見たときには、恐ろしささえ感じました。

 こんなときだからこそ、親しい人と触れ合ったり、子どもが遊んだり、心和むような場所を解放することが必要なのではないでしょうか。

品薄

 それでなくとも、自粛や非常事態宣言で人々は疲弊しています。

 春のマスクの買い占めに始まり、トイレットペーパーやソープ類など衛生用品が不足しました。スーパーには連日、人が殺到し、お米などいつもはあふれかえっていた食料品まで一時品薄状態となりました。

 安倍首相が要請した「一斉休校」は、保育園や学習塾まで巻き込んで前代未聞の事態を招きました。子どもを預ける場所を無くした親は右往左往。受験を意識する年代の子どもと親は、不安にかられました。

 非常事態宣言による大型店舗の休業や商店街の自粛営業なども重なって、街のなかは閑散とし、夜は明かりも無く静まりかえっていました。


“日常”の崩壊

 こうして、昨日まで当たり前だった“日常”が、いともたやすく崩壊したのです。

 私たちが安心して生きていくためには、「今日は昨日の続き」で、「明日もきっと今日と同じようであろう」という一定の秩序と連続性が必要です。
 
 ところが、国のコロナ対策は、予測可能な“日常”という基盤を大きく揺さぶりました。

何よりの犠牲者は子ども

在宅学習

 何よりの犠牲者は子どもたちです。クライアントさんや、そのお子さんたちからは次のようなエピソードを聞きました。

「ひとりでNHK講座を見ながら勉強している」
「休校中に自習した内容は『学びを終えた内容』と見なして試験をすると言われた」
「ずっとオンライン授業で家に閉じこもっている」

 無理をしてまで、「とりあえず授業を」とか「学びを止めない」と、頑張るくらいなら、いっそのこと本当にすべて休みにしてしまえばよかったのにと思います。

「子どもの成長」につながった?

 いっとき「日本も9月入学に切り替えてはどうか」という議論もありました。かたちだけの一斉休校をするくらいなら、半年・1年のスパンで学校を閉じ、受験も中止にしてしまえばよかったのではないかと思います。

 そうすれば来年に受験を控えた子どもたちが、塾の閉鎖や突然のオンライン授業に不安を感じることも減ったでしょう。自主学習に任せ、個々の子どもに学びや受験のプレッシャーを追わせことも減ったでしょう。

 日頃から、塾だ、テストだ、受験だ、と追い立てられている今の子どもたち。

 そんな子どもたちにとっては、ぽっかり空いた時間を使って、自分で何かにチャレンジしたり、ゆっくりとものごとを考えたりするほうが、ずっと「子どもの成長」につながったのではないかという気がします。

子ども

 学校が再開しても、子どもたちを待っていたのは「新しい生活様式」を取り入れた日常とは違う学校生活でした。

「分散登校・分散クラスで、前後左右にはだれも人がいないし、話しをするのもはばかれる雰囲気」
「マスクを取っていいのは体育のときだけ」
「先生(教卓)との距離をうんと離して授業している」

 ・・・そんな話を聞きました。

 

学校教育は単に知識を得る場ではない

学校

 常々、このブログでも書いてきましたが、学校教育は単に知識を得るためにあるわけではありません。知識をつけるためだけなら学校など行かず、個々人が自分の家で学べば良いのです。

 学校教育が大切なのは、そこに「人との関わり」があり、それによって知識だけではなく、人が人らしく豊かに生きていくための力を身につける場所だからです。
 
 人は、人間関係を通して人格を形成します。学び合いや助け合いを経験することで共感能力を育てます。見つめ合い、相手の表情を読むことでコミュニケーション力を獲得し、自分とは違う存在・考えに触れながら自分らしい考え方を育てていきます。

 それには、感情を伝え合える距離やリアルな接触、肌と肌が触れ合う感覚、ぬくもりが伝わる行為などが不可欠です。

 こうした経験がなければ、子どもは自分のために生きながら、他者のことも考えられる幸せな人生を生きることができません。「ワクチンが出来るまで」「薬が完成したら」と言うかもしれませんが、子ども時代に獲得できなかったものを取り返すことは容易ではありません。

三密こそ子どもの権利(条約)の本質

先生と子ども

 私が関わっている子どもの権利のためのNGOでは、こうした流れに警鐘を鳴らそうと、機関誌に「“三密”こそ子どもの権利(条約)の本質」と、次のような記事を載せました。

「コロナウィルスの蔓延を回避するために、人同士の緊密な接触が禁止されています。“自粛”という名の下で、監視のための自警団も暗躍しています。死に際に手を取ることも許されません。
 緊密な接触は、人間、いや生きるすべての、愛情と幸せと相互理解の原点です。子どもが、自分らしく、人のことも考えられるような人間へと発達するためには、どろどろの人間関係と接触が不可欠です。コロナのために、『ねぇ、ねぇ』と呼びかける子どもや人との『受容的な応答関係』まで奪うことは、絶対に許されません。私たちすべての幸せのために!」

「接触禁止ありき」でなく

 子どもの成長・発達を考えるなら、まず、「接触禁止ありき」ではなく、コロナのなかでも「どうやって緊密な接触を維持するのか」を考えるべきです。

 不謹慎な例かとも思いますが、コロナで死亡するより、交通事故で亡くなる確率の方がずっと高いのです。
 
 それでも「車は事故があって危険だから廃止していこう」という話にはなりません。危険だからこそ、どうやったら安全にコントロールできるのかを学んだり、新しい技術の開発に努めています。

濃密な人間関係が必要

ふれあい

 コロナに対するときも、同じであって欲しいと思います。

 他者と接触しなければ、ずっと部屋に閉じこもっていれば、コロナの感染確率は確かに減ります。しかしそのために失うものの大きさを視野に入れるべきです。

 人が生きる意味は、たんに「生存している」ということではありません。豪華な部屋や食事を用意され、ゲームや漫画を山と積まれたら、たとえひとりぼっちでも私たちは健康で幸せに生きられるでしょうか。

 いや、そうではないでしょう。少なくとも哺乳類はそうした環境を生きられるような進化を遂げていません。どこまでいっても哺乳類である私たち人間が、幸福感や安心感を持ち、心の健康を保っていくためには濃密な人間関係が無くてはならないのです。

COVID-19報道

 ニュースを見ても、ワイドショーを見ても、インターネットを見ても、話題はコロナ、コロナ、コロナ・・・。

 それ以外にもたくさん大事なニュースはあるのに、うっかりすると見過ごしてしまうほど小さくしか報道されません。

 個人的にもっと知りたかった事件のひとつが京都アニメーション放火殺人事件です。ちょうど去年の7月に事件があったので、コロナがなければ今年7月にはその後の状況や被疑者の人となりなどが大きく報道されていたのではないでしょうか。

 同様のことが2017年7月に起きた相模原障害者施設殺傷事件についても言えます。気をつけて見ていないと、報道されたかどうか見落としてしまうほどでした。ご遺族の方が「忘れないで欲しい」と、事件の風化を訴えておられました。


コロナ一色でいいのか?

原発

 確かにコロナのニュースは重要です。世界的に感染が広がり、1800万人を超える感染者が数えられるなかで、注目されて当然のことだと思います。未だ薬が無い、ということが人々を不安へと駆り立てることも理解できます。

 しかし、一方で、「ここまでコロナ一色でいいのか」という気持ちが日に日に強まります。

 未だ収まらない放射能の問題も、各地で断続的に起こっている自然災害のその後の様子も、沖縄の基地問題も、日々ウォッチングしなければならないとても大事なニュースだと思うのです。

コロナ不安に陥れているのは

 もうひとつ気になっているのが、多くの人をコロナ不安に陥れているのは、この「コロナ一色に偏った報道」ではないか、ということです。

 私たちは繰り返し同じ映像を見せられたり、その危険性を繰り返し聞かされるたりすると、実際以上の恐れを感じ、実態の無い不安に人を駆り立てます。そしてこうした恐怖や不安は現実を見る目を曇らせます。

 東日本大震災のときがそうでした。いったい何百回、川を逆流してくる川津波の映像を見たことでしょう。真っ黒い海に呑み込まれていく家屋、車や家具などが水に浮かぶ映像、すっかり変わってしまった風景などは、私たちに大きな恐怖を植え付けました。

 このコロナ一辺倒の報道でも、同様のことが起きているような気がするのです。

通学

「実態と離れた不安」について考えていて、2006年に政府が発表した「子どもの防犯に関する特別世論調査」を思い出しました。

 この世論調査では、「子どもの犯罪被害の不安」が「ある」との回答はなんと74%! ものすごく高回答です。ところがその理由というのが、明らかな印象論でした。「テレビや新聞で、子どもが巻き込まれる事件が繰り返し報道されるから」が85.9%だったのです。


事件に遭う子どもは減っているのに

 この調査の前には、2004年に奈良女児誘拐事件で登下校中の女児が殺害された事件がありました。それらが国民に大きなショックを与えたのは明らかです。

 当時、子どもが被害に遭う事件は決して増えてはいませんでした。警察の犯罪統計によると、殺害された小学生数は1976年が100人、1982年が79人、2004年には26人と減り続けていました。少子化を考慮しても、30年間で4分の1に、子どもの減少を考慮した人口比でも半分以下に減っていました。

 これが現実です。それにもかかわらず、“ごくまれに起きたショッキングな事件”が、繰り返し報道されることで、国民の不安が必要以上に高まったというわけです。

「子どもの安全」という名目で

防犯 世論を背景に、子どもの安全対策として国は湯水のように予算を使いました。

 今では普通の光景になりましたが、地域住民や保護者が子どもの登下校に付いて歩く安全ボランティアや、警察官OBによるスクールガード・リーダーなども拡充され、子どもが、子どもだけで、道草をくったり、気まぐれに遊んだり、自分の世界に浸ったりすることが難しくなりました。

 この頃から、学校と警察の親密性がぐんと増したように感じます。警察官の立ち寄りやガードマン配置に乗り出す学校が増え、非行防止や健全育成を謳った「学校・警察連絡制度」も充実しました。それまで「教育に警察(処罰)はなじまない」と言っていた先生たちも、世論に押され、だまり込みました。

 子どもにGPS付きの携帯電話や防犯ブザーを持たせることも一般的になり、「知らない人が声をかけてきたら逃げなさい」と、子どもに「人間は本来信用できない」というメッセージを伝えることが普通になりました。

 今振り返っても、こうした社会・おとなの対応が子どもの成長・発達に有益だと、私にはまったく思えません。

防犯カメラ「子どもが危ない」というかけ声の下、街のあちこちに監視カメラも設置されました。

 いつの間にかそれは「子どもが被害に遭うのを防ぐ」という意味合いよりも、「子どもが非行に走るのを防ぐ」という目的の方が強くなっていったような気がします。
 平たく言えば、「問題行動を起こしたり、社会の在り方に反抗する子どもをいち早く選別し、排除ないし矯正する」ということです。

 街の「安全マップ」がつくられることで、地域に「危険な場所」が生まれました。不審者情報を流すことで、「他の人と違う」人が目に付くようになり、高い塀に囲まれた風通しの悪い家の中では、何が起こっているのか分かりにくくなりました。

 瞬く間に、異質な者の排除や、みなに同調できない者への糾弾が加速し、セキュリティ関連企業が大もうけする監視社会ができあがりました。

マスクが社会の一員の証?

マスク

 今回のコロナ騒動が、こうした寛容性の無い社会への一助にならないことを切に祈っていますが、自粛警察やマスク警察がのさばる状況を見ると、どうもその願いは聞き届けられそうにありません。

 猛暑到来で、新しい生活様式を提案してきた政府も、「周囲に人がいない場所ではマスクを外そう」と言い始めたというのに、ひとりでジョギングをするときも、空いた場所で自転車に乗っていても、無言で犬の散歩をしていても、みんなマスクを付けています。

 今朝もワイドショーでも、「人の目が気になってマスクを外せない」という街の声がありました。あるコメンテーターの「マスクをきちんと付けていることが社会の一員である証になっている」といった主旨の発言は、まさにその通りという感じです。

「たんにマスクを付けていないというだけで、社会からはじかれるなら」これは、なんと恐ろしい社会になっているのでしょうか。

夏休みをどう過ごす?

 最近のコロナ報道では、「夏休みをどう過ごすのか」が大きなテーマです。墓参りや帰省、旅行に対して政府内部や自治体によっても意見が分かれるなか、「隣の人はどうするのか」とうかがいあう、何とも言えない嫌な空気が漂っています。

 だれかに尋ねられれば、長引く自粛にうんざりし、「夏休みくらいハメを外したい」という本音を隠して、「今年はしょうがありません。我慢します」と答えるのでしょう。

不況

 閉塞した社会、お互いの様子をうかがいあう監視社会では、人は不満やねたみをため込みやすくなります。経済不安が加われば、その状況は加速します。

 アベノミクスの失敗、コロナの影響で雇用を喪失する人が急増しました。2020年に旧廃業や解散に追い込まれる企業は全国で5万件を超える可能性があり、10数万人の雇用が失われるおそれがあるそうです(『東京新聞』2020年7月26日)。

 そんな社会で人々は、常にスケープゴートを必要とします。SNSが発達した昨今、対象さえ見つかれば鬱憤をぶつける攻撃は容易です。自分は安全な場所にいて、匿名のまま、対象を死に追い込むまで攻撃しても、だれからも責められません。

 フジテレビ『テラスハウス』の元出演者で、SNS上での誹謗中傷を苦に自殺した木村花さんを思い出していただければすぐにわかるでしょう。


いつしか同調を強いる人に

 個人的な問題なら、自分のやっていることを振り返ったり、思いとどまって現実的な対応を考えたりもしやすいですが、コロナのように社会的な問題となると、そうもいきません。

 他人の目は気になるし、「みんながこうしている」と言われれば、異を唱えることはなかなか勇気がいります。結果、疑問や本音は気づかないよう自ら抑圧し、同調圧力に屈して、いつしか自分も同調を強いる人になっていきます。

「自分は我慢しているのに、おまえはなぜ我慢しないのだ」
「ストレスをためながら自粛しているのに、どうしておまえは好き勝手に振る舞っているのだ」
「暑くても、熱中症になりそうでもマスクをしているのに、おまえはなぜ外すのだ」

不安は解消されない

不安

 自分のやっていることの正当性を、だれより自分自身に納得させるため、「自分の正しさ」を証明し、ことさらに正義を振りかざして、「正しくない人」の糾弾を始めます。

 こうするこことで、「自分の正しさ」は確固たるものになり、「我慢」も報われる気がするからです。

 しかし、それで安心できるかというと、そうはいきません。そもそも対象は「実態の無い不安」なわけですから、どれだけやっても、何をしても、解消はされないのです。

報道に躍らされず

不安

 不安を解消するには、その中身をきちんと見ることです。いったい自分は何を怖れているのか、その情報はどこからもたらされているのか、自分がしている対処は現実的なものなのか、をもう一度考えてみることです。

 そうして「対処のしようのある恐怖」と「漫然と感じている不安」を分け、前者については、きちんと向き合っていくことです。

 不安を煽るだけの報道に躍らされていては、いつまでたっても不安は募るばかりです。

緊急事態宣言

 新年早々、2度目となる緊急事態宣言が2月7日までの期間、首都圏の1都3県に発令されました。しかしその後も、収束にめどは立たず、緊急事態宣言の地域は11都府県に拡大されました。今後も追加される可能性があるという話もあります。

 確かに、緊急事態宣言(以下、宣言)後は、街を歩く人が多少減ったような感はあります。しかし一方で、「人の動きや人手はあまり押さえられていない」という報道もよく耳にします。

「長引くコロナ対策に慣れてしまった」
「若い人の間では『かかっても重症化しにくいだろう』という楽観的な見方が広がっている」
「仕事を休めない」

 ・・・そんな理由をよく聞きます。


2つの緊急事態宣言の違い

新型コロナウイルス

「1度目に比べ、2度目の宣言の方が縛りが緩やか」という指摘もあります。ふたつの宣言を見比べてみると、主に次のような違いがあるようです。

①人との接触:1度めは「最低7割、極力8割」の削減が目標。2度めは夜8時以降外出自粛。
②休業要請:1度目は飲食店や映画館、百貨店等。2度目は飲食店に対し、夜8時案での時短営業。
③出勤:1度目はテレワークの徹底。2度目は自治体によって異なるテレワークの数値目標化。たとえば東京都は「週3日」社員6割以上。
④イベント:1度目は中止や延期。2度目は人数の上限を5000人かつ収容率を50%以下とし、開催時間も夜8時まで。
⑤学校:1度目は一斉休校。2度目は学校・保育所とも休校・休止を求めない。

 このように見比べると確かに今回の宣言は緩やかな印象を受けます。

コロナ対策法の行方

不要不急

 実際にはどうなのでしょう。

 18日に政府が示した新型コロナ特別措置法や感染症法の改正案は、国や地方自治体は事業者に対する支援を「講ずるものとする」と明記し、義務規定に修正しました。
 当初は努力規定の予定でしたが、「経済的な下支えの責任が無い」との批判を受けて方針転換しました。

 それでも、支援規模や対象は相変わらず行政側の裁量任せ。これで十分な支援につながるかは疑問です。

 一方、国民に対しては入院を拒否したり、入院先から逃げ出したりした場合や、営業時間短縮や休業命令を拒否した事情者への罰則を導入すると言います。

時短営業中

 感染したら、だれだって休みたいと思います。休んでも生活が回り、経済的に保障されるなら、ほとんどの人が入院や休業を選ぶはずです。 よほどのことがなければ、入院拒否などしたくはないでしょう

 しかし、経済的な理由や子育てや介護など生活上の理由から、休業や入院が難しい人は少なくないはずです。

 それを法を改正して「罰する」というのですから、驚きです。


欧州のコロナ対策

 ロックダウンなど、日本よりはるかに強制力を持って人の流れを止めようとしている欧州諸国では、既存のセーフティーネットを使いながら、国民の生活を支えています。
 
BBC NEWS JAPAN』によると、たとえばイギリスの「ユニバーサル・クレジット」制度(低所得者向け給付制度)などが紹介されています。

企業に補助金

閉店

 企業に補助金を出すことで、従業員の雇用を維持しようという取り組みも目立ちます。たとえばオランダ政府は、対象となる企業の賃金コストを最大90%補助するとし、フランスは総賃金の84%を補助するだけでなく、最低賃金で働く人の賃金を最大100%補助するとのこと。

 また、イギリスは最低3カ月間、労働者の賃金の80%を最大約33万円まで(1月)、カナダでは賃金の75%を最大3カ月間補助するそうです

 こうした欧州の生活を支える方策と、「GO TO トラベル(やEAT)」のような消費を促す方策。経済対策としても、いったいどちらが有効かは、明らかなのではないでしょうか。

国の責任放棄と国民の自助努力

 罰則を導入する一方で、自粛や要請を求める緩やかな宣言を出す。それは結局、「国の責任放棄と国民の自助努力への丸投げ」ということです。

 国の休業要請は「飲食店に対し、夜8時案での時短営業」ですが、自粛の連鎖は他の業種にまで広がっていく可能性があります。

 たとえば、国が「原則開所」としている保育所でも独自に登園自粛を求める自治体が出始めています(『東京新聞』21年1月20日)。