最近の日本は、つくづく「矛盾社会」だなぁと思います。

本質からずれたことがあたかも「よいこと」であるかのように喧伝され、根本的な問題についてはまったく触れようともせず、表面上「ちゃんと取り組んでいますよ」というふりをする姿勢や取り組みが多すぎます。

「落ち穂拾い社会」と言ってもいいかもしれません。

たとえば「真夏の怪」のときに書いたように、今の大学生の就職は「就職氷河期」以下。60%を割っています。

それにもかかわらず、就職支援といえば就職カウンセリングだの、スキルトレーニングだのの話ばかり。「卒業して数年たっても新卒枠で採用する」などという新しい?発想も生まれていますが、その考え方そのものがよく分かりません。

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それならいっそ「新卒採用」という枠を外し、いつでもだれでも応募できるようにすればいいだけではないのでしょうか。
何しろ「新人を育てる余裕などないから即戦力が欲しい」というのが本音なのですから。

でも、「なぜ企業がこんなふうに追い込まれているのか」ということはやっぱりまったく振り返ることはされません。

実態をともなわない活動

ワークライフバランスとか育休の推進など実態をともなわない活動のひとつでしょう。

だれだって「仕事とプライベートのバランスを取りたい」と思っていますし、「子どもが小さいうちくらいもっと子どもと関わりたい」と考えているはずです。

ワーカホリックの方は別として(なぜワーカホリックになったかという原因を考えずにおけば、ですが)、できれば早く仕事を切り上げ、家族や恋人とともに過ごしたいと思っている方が、世の中の大半なのではないでしょうか。

でも、それができないのです。

たんなるポーズに過ぎない

だれの目にも明らかなように、不安定雇用社会だからです。よっぽどの大企業務めや公務員であれば別ですが(それも出世と引き替えということがまだまだあるらしいです)、ほとんどの人は「仕事を休む=解雇」の現実に直面する可能性があります。

契約社員や派遣社員であればなおのこと。「うかつに休んだら、次回の契約更新はしてもらえないかも」という恐怖にさらされながら働いています。

企業の規約や目標には「家族に優しい」とか「男性社員にも育休を」と書かれていても、それを信用するわけにはいかないという事情があります。

その現実を変えるには、就職率の向上と同様、企業利益追求型の今の社会を抜本的に変える必要があります。

いくら「ワークライフバランス」を謳って自治体ごとにポスターを作成したり、ワッペンを配ったり、区報や市報で「お知らせ」しても、それはたんなるポーズに過ぎません。だって、実態を変えることにはなんら作用していないのですから。(続く…

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そろそろあの「啓蒙活動」「啓発活動」というものを振り返ってみる時期なのではないでしょうか。
もちろん啓蒙や啓発が不必要とは言いませんが、「それだけではダメ」というのはもう自明のことのように思います。

まさに落ち穂拾い

児童虐待防止推進月間であり、DV防止推進月間であった11月。あちこちで虐待の防止やDV防止を訴えるイベントやチラシ配り、シンボルタワーのライトアップなどが行われていました。こうした活動には国や都道府県、自治体などから補助金が出ていることも少なくありません。

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確かにこうした取り組みによって地域の人や、サイレントマジョリティーの何人かが虐待やDVに関心を持つことはあるかと思います。でも、それは本当に微々たる数で、まさに落ち穂拾いのようなものです。

どうせお金を投入するなら、たとえばDVならば自治体の相談時間を長くするとか、支援者が自由に動けるよう資金援助するとかするほうがよっぽど有効なように思います。
虐待を受けたりした子どもが最初に入る一時保護所を増やし、子どもがくつろげる場所にするのもいいでしょう。東京都の場合、一時保護所の入所率が200%を超えているとの話も聞きました。

虐待の温床

人が簡単に解雇され、企業の「かき入れ時」だけの臨時雇いが当たり前になり、だれもが心身共に余裕を無くし、いらだっています。

DVの相談を受けていると「家族のために頑張って稼いでいる俺に向かって文句を言うな!」と妻を殴ったり、「だれのおかげでメシが食える!」と妻をののしったりするバタラーの話をよく聞きます。

そうしたバタラーの多くは子育ても家事もしません。すべてを妻(まれに夫の場合もありますが)に押しつけながら、「子育てや家事なんて取るに足らない仕事」と、家の中を切り盛りする妻を蔑んでいます。

また、DV被害者が家族など身近な人に相談すると「食べさせてもらっているんだからそのくらい我慢しなくちゃ」と“諭される”という話もよく聞きます。

こうした孤立した妻の存在や「自らを養っていけない人間は養ってくれる人間に従うべき」という考え方が虐待の温床にもなっていることは言うまでもありません。

暴力社会

競争を奨励する社会は人間を暴力的にします。人間から立ち止まって考える機会を奪い、人の身になって感じることを奪い、優しさを奪っていきます。

今の日本は、その育った環境や犯行に至る理由をていねいに聞き取り、明かすこともしないまま、「更生の可能性は低い」と断じ、平気で19歳の少年に死刑判決を下す社会なのです(裁判員「命奪うのは大人と同じ刑に」 石巻少年死刑判決)。

裁判員制度が導入されれば、当然、厳罰化になり死刑が増え、このような判決が出ることはこのブログで「生育歴が無視される裁判員制度」を書いたとき、すでに予測はしていましたが、やはり大きなショックと憤りを禁じ得ません。

こんな暴力社会をつくっておきながら、「DV防止」や「虐待防止」をいくら叫んでも、それは絵空事にすぎません。

ところが、こうした本質は振り返られないまま、今度は「死刑判決を下す裁判員の心のケアが大切」だというのですから、滑稽としか言いようがありません。(続く…

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そうそう「こころのケア」で思い出しました。

最近、暗澹たる気持ちになったもののひとつに、さいたま市教育委員会が出したいじめに関する緊急アピールがありました。

アピールは群馬県や千葉県で、いじめを受けていた小中学生の自殺が相次いだことを受けて出されたもの。タイトルは「とても大切なあなたたちへ」で、市内の小中高校と特別支援学校全164校に配布したそうです。

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『読売新聞』(2010年11月22日付)によると、アピール文には、〈1〉嫌いだからといって、いじめるのは人としてやってはいけない〈2〉いじめられていると思っている人は、必ず周りの大人に相談する〈3〉いじめを見たら、勇気をもって周りの大人に知らせる〈4〉苦しいときは、誰でもいいから相談する――との4項目が盛り込まれているそうです。

市教委は24時間対応のいじめ相談窓口の案内とともに、このアピールを子どもたちに徹底させるよう求め、子どもが発する危険サインをチェックするシートも用意し、保護者に渡すよう指示したとのこと。

こんな方法でいじめが防げると信じているとしたら、もうおめでたいとしか言いようがありません。

2006年から何一つかわらないいじめ対策

2006年にも、このブログでいじめ自殺について書きました。

当時、「生まれかわったらディープインパクトの子どもで最強になりたい」という遺書を残して自殺した中学生のことが話題になっていました。その頃も、伊吹文明文部科学大臣(当時)をはじめ、多くの教育関係者が「いじめはいけない」「いじめられている人はまわりにおとなに相談して欲しい」と呼びかけました。

でも、結果はどうだったでしょう。何一つ変わらなかったのではないでしょうか?

当時のブログでも書きましたが、まわりに相談できるようなおとながいるなら、とっくに相談しているはずです。見たこともない大臣や、アピール文を出すだけの教育委員会にわざわざ言われなくても、助けを求めているはずです。
そんなおとながいないからこそ、自殺という選択をしていくのです。

なぜ助けを求められない?

ではなぜ、周囲に助けを求められないのでしょう?

今年5月に国連「子どもの権利委員会」でプレゼンテーションした子どもはこんなふうに言っていました。

「苦しさをだれかに打ち明けたくとも余裕のないおとな達に『ねえ、私辛いよ』なんて言えません。子ども同士でも同じです。私達は『苦しくてあたりまえ』という奇妙な連帯感に縛られていて、へたに声を発すれば嫉妬や恨みを買ってしまうので、自分の本当の心を殺し、お互いに演技を続けています」

チェックシートを配っても・・・

何しろ今、親たちの多くは長時間労働を強いられ、子どもとかかわる物理的・精神的な余裕がほとんどありません。いちばん子どもと関わる時間が長いはずの乳幼児でさえ、長時間保育が当たり前。地域によっては24時間保育を行っているところもあります。

乳幼児でさえそんな調子なのですから、小学生や中学生になった子どものことをつねに気にしていられる親がどのくらいいるのでしょうか。危険サインのチェックシートを配ったとしても、そもそも子どもと向き合う時間そのものが親に欠落しているのです。(続く…

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そしてさらに言えば、物理的な時間や余裕があっても、子どもの気持ちを受け止める大切さを見失っているおとなもたくさんいます。

前回も紹介した「子どもの声を国連に届ける会」のべつな子どもは、国連でのプレゼンテーションの中で、いじめについて周りのおとながどう反応したのかをこう語っています。

「クラスの男の子たちから『死ね』『っていうかうざくね?』などと言われ、教室に入れなかった。行き場所もなく泣きながら保健室に行くと、『熱がないなら戻りなさい』と入れてくれなかった。トイレに逃げると猫なで声で先生たちが『大丈夫なの?』『早く出てきない』と説得に来た。
両親に話すと、父は『そんなの社会に出ればよくあること。俺だっていじめられている』と言い、母は『全員殺してやる』という私の言葉に『全員もどうやって殺すの?』と言うだけだった」

勇気を振り絞って言葉にし、辛さを態度で示しても、こんなふうにおとなから返されたら、もう二度と相談する気持ちになどなれないでしょう。

すべては“子どもの問題”として

こんなふうに子どもを突き放しておきながら、子どものコミュニケーション能力を高めるロールプレイやら、自己肯定感を高めるプログラムなどが大人気なのですから、理解に苦しみます。

もっとも学校現場で行われているこうしたプログラムは、「暴力の低年齢化」や「友達をつくれない子どもの増加」などを解決するために行われているようです。

つまりおとな側のことは棚上げにしたまま、すべては“子どもの問題”として押しつけ、「子どもの心の有り様や行動様式をおとなにとって望ましい方に変化させよう」というわけです。

自己肯定感を育くめない親

本来、自己肯定感は、この世に生まれ落ちた子どもが養育者との関係性の中で獲得すべきものです。

養育者がいつでも自分のことを見ていてくれること、自分の欲求に応え、そのニーズを満たしてくれることによって「愛されている」と感じ、「自分は大切な存在だ」と実感していきます。

今、こうした関係性を養育者との間に持てない子どもがたくさんいるのは事実です。

それはよく言われているように貧困の問題も大きいですが、それだけではありません。
多少なりとも経済的にゆとりのある家庭では、小さな頃から手のかからない“いい子”であること、なるべく早く何でも自分でできる“自立した子”になること、親を安心させ、親の願いをかなえる優秀な子になることなど、親の欲求に応え、そのニーズを満たすような子育てがなされているからです。(続く…

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たびたびこのブログでも書いてきたように、こうしたことはもちろん、個々の親のせいではありません。
「幸せとは何か」を見失ってしまった社会の当然の産物です。

発達障害という“くくり”

それから発達障害という“くくり”もくせ者です。

この発達障害という“くくり”をよく耳にするようになったのは2003年頃から。

4歳児を全裸にして立体駐車場の屋上から突き落として死亡させた事件(長崎県)で補導された男子(当時中学1年生)が、脳の機能障害とされる広汎性発達障害のひとつであるアスペルガー障害とされた頃から頻繁に聞くようになりました。

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ところが昨今は「社会が容認したがらない言動や特徴を持つ子どもをレッテル付けして排除するため」に使われている感が否めません。

たとえば、ちょっと他の子よりも元気だったり、おとなしく座っていられなかったり、先生の指示にしたがえなかったり、他のこと違ったところがあったりすると、すぐに「発達障害かもしれない」と養育相談やカウンセリング、精神科の受診を勧められます。

一方、多くの親は「子どもがかわいい」と思えばこそ、「自分の子を社会に受け入れて欲しい」と、率先して子どもの欲求や自発性をつぶす治療に荷担しがちです。それが、子どもの自己肯定感を低め、将来、大きな代償を払うことにつながるとは思いもせずに。

溢れる発達障害

もちろん世の中には「特別な支援」を必要とする子(人)がいるのは分かります。

だけど、こんなにも発達障害が溢れているのはいくらなんでもおかしくはないでしょうか?

お金のかかる障害児教育や手のかかる子どもへの対処に頭を痛めていた文部科学省が、2007年に「個々のニーズにあった支援を」として特別支援教育をスタートさせたとき、医学上は広汎性発達障害に含まれないADHDをも含めて発達障害と定義したことも発達障害とされる子どもを増やす一因となったはずです。

その後、特別支援学校(学級)に入る子どもは増加。不適切な養育を受けていたり、逆にのびのびと育った子どもにありがちの、じっとしていられない、自己主張が強いなどの特徴を持つ子が、すぐにADHDとされることも増えました。

発達障害と言うよりは、「その子のメッセージ」として受け取った方が分かりやすく、解決の道も探りやすい言動までが「発達上の問題行動」と片付けられやすくなったのです。

「ちょっと変わった子」まで治療対象

そして病院へ行けば、簡単に診断は付き、すぐに薬物治療の対象になります。

薬物依存については「ダメ、絶対」などというポスターをばらまいて反対している国も、「他の子と同じように振る舞えない子」への薬物投与にはまるで反対する雰囲気がありません。

私の子ども時代には「ちょっと変わった子」というくらいで、普通にクラスにいたようなタイプの子どもまで、治療の対象になっています。(続く…

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子どもの権利条約に基づいて批准国の子ども状況を審査する国連「子どもの権利委員会」は、「ADHDについても薬物治療されるべきものとみなされており、社会的決定要因に対して考慮が払われていない」との懸念を示しました(2010年6月)。

つまり、国連からも日本のADHDを含む発達障害のとらえ方、治療法は疑問視されているということです。

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障害児関連への予算・資源の拡充はほぼゼロ

障害児について、ちょっと補足させてもらうなら、国のやり方はまさに「矛盾社会」の象徴です。

何しろ、すぐに発達障害という診断がつきやすい環境をつくり、いわゆる“障害児”と呼ばれる子どもを増加させておきながら、障害児関連の予算や資源の拡充はゼロに近いのです。

かねてから「人手不足」「予算不足」とされてきた障害児の支援の現場では、特別支援学校の大規模化や設備・教員の不足などがますます深刻化しています。障害のある子どもが通う学校や寄宿舎の廃止や統廃合も後を絶ちません。

パーソナリティにも大打撃

このような矛盾した社会、矛盾した価値観を受け入れなければならない環境は、子どものパーソナリティの形成にも大きな打撃を与えます。

たとえば今の学校では、表面上は「みんな仲良く」と教えられるのに、実際には競争を是とする社会に適応することを迫られます。
いくら「助け合いが大事」と教えられても、実際の社会では、敗者への助けの手は極めて貧弱です。

こうしたバラバラな価値観を内面化することを強要されるのですから、パーソナリティの奥深くに隠れた自我も、健全になど育ちようがありません。

その状態を一橋大学名誉教授で社会心理学者の南 博氏はこうつづっています。

「パーソナリティを形成するいろいろな場によって社会価値が違い、その内面化が不連続的に行われると、ひとりの人間が、互いに矛盾し衝突する習慣や習性を身につけるようになり、統一のないパーソナリティができ上る。現代人の心理的な不安定にはこのようなパーソナリティの不統一が、その土台によこたわっている」(『社会心理学入門』岩波新書 44ページ)

悲鳴を上げる自我 

本来、「本音と建て前を使い分け、そのときそのときでその場に合ったように振る舞う」なんていうことは、自我が確立したとされるおとなでも難しいこと。子どもならばなおのこと、です。

そんな無理を迫る社会では、自我は、分裂したり崩壊したりしないよう、さまざまな防衛を試みます。それは一見、「無気力や無関心」のような姿に見えることもありますし、依存症や自傷行為のような形態を取ることもあります。

「矛盾社会」を放置して、スキルトレーニングやロールプレイをいくらやっても無駄なこと。矛盾に絶えきれなくなった自我は、いつか悲鳴を上げます。

「矛盾社会」をわずかでも変えていけるように

心理臨床の現場は、そんな生の悲鳴を身近で聞かせてもらうことのできる貴重な場です。

そこでの経験、実感を元に、今後も「矛盾社会」をわずかだけでも変えていけるようなお仕事を続けていきたいと思います。

今年一年、拝読くださってどうもありがとうございました。
すべての生ある存在が喜びにあふれた新年を迎えられますよう、お祈りしつつ、感謝に変えたいと思います。

  さらに森田浩之さんは次のように、記事(「復興五輪」という言葉に、拭いきれない違和感が湧いてくる)を書き進めています。

「須田善明・女川町長が河北新報のアンケートにこたえたように、これは〈「被災3県五輪」ではない〉のだ。彼の言うように〈観光振興など過剰な期待は方向違い〉と考えるくらいがちょうどいいのかもしれない。
1964年の東京オリンピックは、戦後復興の象徴と言われる。しかし東京都心が整備されただけで、地方との格差が拡大したという側面もある。
2020年大会にも同様の問題がある。オリンピックに向けて再開発やインフラ整備が進み、一極集中が加速している。
しかし1964年大会に比べてさらに厄介なのは、菊地健次郎・多賀城市長が河北新報のアンケートにこたえたように『東京に建設需要が集中することになり、結果として国の予算が被災地に回らなくなる』ことだろう」

再開発が進む東京

 311以降、地震や火山の噴火や集中豪雨に土砂災害、台風被害と日本列島は相次ぐ災害に見舞われています。
 しかし復興の歩みは遅く、建築資材や職人さんなどの建設業者が足りないという話は、あちこちで聞きます。

 一方で、東京周辺では「2020年に向けて」再開発が進み、ウォーターフロント地区では高層・高級マンションが林立し、銀座や渋谷などの商業施設はどんどん新しくなっています(東京の再開発スポットまとめ – 商業施設やホテルなど続々オープン!来るオリンピックに向けて)。
 
もうひとつの疑問

「本当にこれは『復興五輪』なのか」や、そこに参加するボランティアについての疑問をるる述べてきましたが、実はもうひとつ疑問があります。

「はたして日本人はそんなにボランティアが好きだったのか」

 ということです。

 ここのところ、何か震災被害が起きるたびに、「ボランティアがかけつけ・・・」という報道をよく見ます。週末や連休になると、「各地からやってきたボランティアが・・・」と、アナウンサーが連呼するニュースも、よく耳にします。
 バスやツアーを仕立てて、ボランティアに行こうという人たちを支援する人たちの話もよく聞きます。

「困っている人を助けたい」「たいへんなときはお互い様」ーーそんな気持ちでいる人がたくさんいるというのなら、それはもちろん素晴らしいことです。

日本は冷たい国

 でも一方で、「日本人は弱者に冷たい国(社会)」であることを示す調査もあります。

 たとえばイギリスのチャリティー団体Charities Aid Foundation (CAF)が毎年公表している世界寄付指数 (World Giving Index)です。人助け、寄付、ボランティアに関する指数があります。
 2014年版の世界寄付指数をもとに、「世界と日本のあたたかさ」を分析した記事(世界で最も他人に冷たい先進国、日本を見つけました。記事中の地図はその指数の値により暖色から寒色に色分けされていますが、日本は見事に真緑。

 つまり冷たい国(社会)であることが分かります。

なぜかボランティアに費やす時間は増加

 とくに人助け指数が135カ国中134位で世界ワースト2位。寄付指数は311があった2011年にピークに達し、以後は下降線です。それにもかかわらず、なぜかボランティアに費やす時間だけが増加傾向という不思議な現象が見て取れますが、総合的な世界寄付指数は90位と下位に位置しています。

 もうひとつは、「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」と考える人の割合が世界で圧倒的1位という調査(日本人が弱者に異常に厳しいのはなぜなのか?自己責任論と弱者叩きの心理)です。2007年のもので少し古いのですが、衝撃的なのでご紹介したいと思います。

 同調査によると、なんと自己責任の国アメリカよりも「助ける必要は無い」と考えている人が10%以上も多い人のです!!

 最初に、この調査を知ったとき、私はかなりびっくりしました。
 子どもの頃から「日本はおもてなしの国」「親切な国」というふうに教えられてきたはずなのに、実態はまるで違うということになります。

不思議な現象

「寄付や人助けはしない」
「生活に困るのは自己責任」

 それなのに「ボランティアをしよう」という人は増えているという、この不思議な現象を私たちはどう受け止めればいいのでしょうか。

 単純に考えられるのは、文部科学省とスポーツ庁の「通知」に象徴されるように、「自発的」「自由意志」ではないかたちでボランティアをしている人が多いという予測です。つまりソフトな強制力が働いて、ボランティアに行かなければならないという状況があるということです。

 しかし、報道等で受けている印象になってしまいますが、休みのたびに、ときには「受け入れ制限」が出るほどに熱心なボランティアの人たちが、みんな何らかの強制を受けているというふうには見えません。

 ではいったい、どういことなのでしょうか。

「人の役に立ちたい病」?

 誤解を恐れずに私見を述べさせてもらうとしたら、「人の役に立ちたい病」の蔓延ということなのではないかと考えてしまいます。
 もちろん、その気持ちは人が人とつながって生きていくときに必要なものですし、私自身にもあります。だからこそカウンセラーとかセラピストなどと呼ばれる仕事をしているのだろうとも思います。

 その「だれもが持っている」気持ちが突出している人、もしかしたら、日頃の生活の中では生き甲斐や人のために生きている感覚が見いだせない人が増えているということが、このボランティアの急増という現象を生んでいるのかもしれないと、被災者側の意見(迷惑な被災地ボランティアする前に意見を聞いて!アンケート結果あり)を読んでいて思いました。

「迷惑になるような支援はNG」

 上記のサイトには、被災地でのボランティア活動において「①ちゃんと考えて現実的に役に立つ支援のみすべき(迷惑になるような支援はNG)」「②助けになりたい気持ちが大事 (とにかく動くことが大事)」「③どちらとも言えない」のアンケート結果も載っていますが、約8割が①を選んでいました。

 それだけ迷惑になるような支援が多かったということでしょう。つまりそれは、「人の役に立っているはず」という自己満足で動いている人が多いとも言えるのではないでしょうか。

冷たい国に暮らしているからこそ

 前回ご紹介したように、さまざまなデータが「日本は冷たい国である」ことが明らかになっています。そんな社会では、なかなか承認を受けることは難しく、頑張っても頑張っても、ダメだしされることの方が多いでしょう。

 生活のために生き甲斐を捨て、自分を殺して上に従うことを「空気を読む」とか「忖度」と呼び、強要される社会では「自分は社会の役に立っている」と実感できる機会が少なくなっています。

 そんな国だからこそ、逆にボランティアに精を出す人が増えているのではないかと、あまのじゃくな私は考えてみたりしています。

緊急事態宣言

 緊急事態宣言が解除された今も、妙な「自粛」の空気が漂っています。

 まるで仕事をするのも、人と会うのも、食事に行くのも「これ、やってもいいんですよね?」と、見えないだれかにおうかがいを立てているような雰囲気です。

 緊急事態宣言中に耳にした最も嫌な言葉は「自粛警察」でした。この機に乗じて他者に自粛を強要する人々のことです。政府が、一定の基準で休業要請を行い、「不要不急の外出を控えろ」と繰り返すなかで、まるで正義の味方のように登場しました。

 そして休業要請に従いながら開店している飲食店等に対して、嫌がらせを越えた脅し行為を行い、「警察を呼ぶぞ!」などと恫喝する・・・びっくりするような監視社会が、またたくまにできあがりました。


休業要請などしなくても

 責められるべきは、「働くなければ食べて行けない」ぎりぎりの生活をしている個人なのでしょうか? コロナ不安が広がるなか、「できることなら休みたい」人の方がずっと多いはずです。

 イギリスのように給与や平均収入の8割程度を国が負担すれば、フランスのように従業員に原則70%、個人事業主には最大約18万円を補助したりすれば、ドイツのように従業員10人以下の事業所には3か月で最大およそ180万円、従業員5人以下の事業所には最大およそ107万円を給付するなどすれば、家にとどろうとする人は大勢いたのではないでしょうか(「事業者に直接補償する国はない」の政府答弁はフェイクニュース! ?報道機関なぜチェックしないのか

 アメリカ在住のある方から私が、「トランプさんから緊急経済対策の現金1200ドルが届いた」と聞いたのは5月半ば頃。私の周りでは安倍首相が約500億円かけて配布すると胸を張った布製マスクでさえ、届いた人はいませんでした。

 ちなみに、私のところに布製マスクが届いたのはちまたにマスクが出回り始めた5月末でした。

実効性の無い対策のなかで

臨時休業 「今、歯を食いしばって頑張っておられる皆さんこそ、日本の底力です」(4月7日の首相会見)と言った安倍首相。口を開けば「緊急に」「一日も早く」と言う政治家や官僚たち。

 そんな言葉を繰り返し、実効的な対策もされまいうちに、経営難に追い込まれたり、自粛警察に脅されたり、なかには自殺に追い込まれた人もいます。

 東京練馬区のとんかつ店で火災があり、油をかぶって全身やけどで死亡した店主のニュースが報じられました(『東京新聞』2020年5月3日)。同記事によると、店主は東京五輪の聖火ランナーにも選ばれていた方だったそうですが、「店を閉じる。もう駄目かもしれない」と将来を悲観する言葉をもらしていたそうです。