新型コロナウイルス不安

 国は、あくまでも「要請や自粛」を求めているだけですから、もし感染したら「ちゃんと自粛しないからですよ」と感染した人や店に責任を押しつけられます。逆に休業して経済困窮すれば、「あなたの意思で休んだんでしょう」と言い逃れればすむのです。
 
 こうして考えると、一見、緩やかに感じる二度目の緊急事態宣言は、国民にとって極めて厳しい内容です。

「自助、共助、公助」を理念に掲げ、「まずは自分でできることは自分でやってみる。そして、地域や家族で助け合う。その上で、政府がセーフティーネットで守る」と総裁として決意表明した菅義偉首相らしい、と言わざるを得ません。

「経済再生担当大臣がコロナ対策」の謎

GOTOトラベル

 個人の痛みは「自助」に任せ、コロナ対策の責任を放棄した政府(菅首相)。そんな政府が関心を寄せるのは、経済利益だけのように感じます。

 オリンピック開催に固執し、「GO TO トラベル(やEAT)」の再開にも未練を残す菅政権。「給付金を出しても貯金が増えるだけ」と再給付を拒む麻生太郎財務相(『東京新聞』21年1月26日)を政権の懐に抱え、「コロナ対策」を錦の御旗に急ピッチでIT関連事業を進めています。

 2021年度予算の概算要求では、デジタル関連が約1兆円に迫る勢いです。そこには、菅首相肝いりのデジタル庁創設の布石となる「IT調達の一元化」や、マイナンバーカードの普及に関連した政策も目立つと言います(『日経XTECH』2020年12月7日https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/cpbook/18/00064/00003/ )。

 そもそも新型コロナ対策担当大臣を経済再生担当大臣が兼ねていること自体が、実にへんてこな話と感じるのは私だけなのでしょうか。

国民が望むコロナ対策は?

 この国のコロナ対策は、私たち国民が望んでいるものと合致しているでしょうか。

 少なくとも、多くの国民が望んでいるのは、安く外食ができること、安く旅行に行けることなどではないはずです。家にこもり、ひたすらパソコンとにらめっこする働き方や、課題におわれるだけの勉強などでもないはずです。

“見せしめ”が同調圧力を生む

自粛

 改正新型コロナ対策特措法が施行されれば、ますます政府の力は強まっていきます。「コロナ対策の一環」だと言われれば反論しがたい空気がつくられていきます。

 1月17日に行われた大学入学共通テストで受験生が、監督者からマスクで鼻まで覆うように6回にわたり注意を受けても、指示に従わなかったとして不正行為と見なされた事件がありました。

 こうしたニュースが“見せしめ”のように使われ、「コロナだから仕方が無い」という諦めのなかで、さらなる同調圧力を生まないことを心から望みます。

自分の考えや価値観に合わない人をたんに批判するというだけでなく、バッシングしたり、人格誹謗までする人が増加した社会を「不寛容社会」と呼ぶそうです。

①SNSによって、いつでも、どこでも、匿名性を保ったまま他者を攻撃・批判できる環境ができたこと、②スマートフォンなどのテクノロジーの進化で、個人主義が進んで“リアルな他者”を感じる機会が減っていること、などが原因のようです。


コロナ禍が拍車をかけた

他者との接触、リアルな関係を減らせというコロナ禍は、この状況に拍車をかけました。

もともと同調圧力が強く、異質なもの、多数派で無いものを排除し、「空気を読んで他人に迷惑をかけないこと」が大事な日本社会では、この傾向はさらに強まっていくでしょう。

「自分は我慢して迷惑をかけないようにしているのに」と、周囲に気を遣わないように見える人や、我慢していないように見える人への妬みを“正義”の名の下に晴らせるのですから、こんなすっとすることはありません。

間接自殺事件

社会に妬みや恨みが鬱積していることは、21年後半に立て続けに起きた間接自殺(拡大自殺)とも言える無差別殺人(未遂)事件からも分かります。

8月6日には小田急線内で20代の女子大生らが男性に刺される事件が、10月31日には京王線内で男性が乗客を切りつけ火をつける事件が、12月17日には大阪で心療内科クリニックに放火し25人が亡くなった事件がありました。

大阪クリニック放火事件の容疑者は意識不明のままですが、小田急線刺傷事件の容疑者は、「幸せそうな女性を見ると殺したくなった」「乗客が逃げ惑う姿を見て満足した」(『東京新聞』21年9月17日)」と言い、京王線刺傷自県の容疑者は「人を殺して死刑になりたかった」と供述しているそうです(『NHK NEWS Web』21年11月1日)。

どちらも社会に深い恨みを抱えていたと推測されます。

共感力の低下

怒りの増大と同時に不寛容社会の養分となっているのは、競争とそれによる共感力の低下です。

私たち人間は、「だれかとつながる」ことで厳しい環境を生き延び、捕食動物から身を守ってきました。今日の経済発展も、仲間と協力し、お互いの能力を惜しみなく出し合うことで成し遂げてきました。

他の生き物たちを見てみても、通常は同じ種同士で生存を脅かすような競争はしません。
本来、生物は競争し、「だれかを蹴落とす」ようには出来ていないのです。

ところが、現代のような競争社会では、「他者は自分の成功を妨害する者」と、他者への適を者への敵意を植え付けなければなりません。そのようなことを続ければ、共感能力は蝕まれ、他者に心を閉ざし、攻撃的な人間が増えるのは当然のことです。

真に闘う相手はウィルスではない

コロナ禍の中で、私たちが真に闘わなければならないのは、コロナウィルスそのものではありません。コロナの蔓延に乗じて、私たちから「人間らしさ」を平気で奪い、利益を生もうとする輩なのです。

そのことを忘れず、来年もまたコロナ禍であっても人とつながり続け、不寛容社会に異を唱えていきたいと思います。

コロナ禍もあり、とんと明るいニュースが少なくなった昨今。なかでも今年ほど暗いニュースが多かった年はなかったような気がします。

ロシアによるウクライナ侵攻、知床観光船の沈没事故、オミクロン株の大流行、安倍晋三元首相襲撃事件、ボロボロ出てくる旧統一教会絡みの政治問題、相次ぐ北朝鮮のミサイル発射・・・。

最も弱い存在への暴力も

最も弱い存在である子どもへの暴力もたくさん話題になりました。

たとえば園児が車やバスに置き去りにされた事件が何件も報道されました。
12月には静岡県裾野市の保育士3人が園児虐待で逮捕されました。この裾野市の一件以後、仙台市の保育所で園児に下着姿のまま食事をさせる、富山市の認定こども園では園児を狭い倉庫に閉じ込める、などのいわゆる「不適切保育」のニュースが後を絶ちません。

虐待相談対応件数は、相変わらず右肩上がり。10代の自殺も増えています。

化けの皮をかなぐり捨てた

こんな問題山積の社会で、私たちの生活を預ける政府と、それを率いる岸田首相についても失望の連続でした。いよいよ「柔和を装っていた化けの皮をかなぐり捨てた」感じです。

安倍元首相の国葬断行と正当化、原発再稼働だけでなく、その新規建設や60年以上の運転延長、「反撃能力」の保有を明記した新たな「国家安全保障戦略」、防衛費の増強とそのための増税・・・。

閣僚らの旧統一教会やお金がらみの問題はさておいても、重要な政策転換や決定でも、議論を尽くさず、野党や国民の意見も聞かず、「内輪で話して決まったから」と、平気でうそぶく神経を疑わずにはいられません。

「小さき者の声は聞かず、アメリカを頼ってそのご機嫌さえ取っていれば政権は安泰である」と元首相に学んだのでしょうか。

今年よりは悪くならないよう祈る

このブログを始めてから、「来年は良い年になりますように」と何度も書いてきました。しかし今年はそんな気持ちにさえなれません。
せめて「来年が、今年よりも悪くなりませんように」ーーそんなふうに思ってしまう、年の瀬です。

一か所にカメラを据え、そこにやってくる人々の人生や生活などの人間模様を72時間にわたって定点観測する NHKの『ドキュメント72時間』というドキュメンタリー番組を見ました。

その日の舞台は、パキスタンの首都イスラマバード。アフガニスタン料理のレストランから始まりました。わざわざ「始まった」と書いたのは、なんと撮影開始早々にレストランから撮影を拒否されてしまったから。

その後の撮影は、レストラン近くのストリートで行われ、そこで出会った人の自宅を訪れるなど、異例の展開になっていきました。

身の危険を感じる人がいたため撮影拒否

番組の後半、その理由が明らかになりました。レストランのオーナーが「ドキュメンタリーは価値のあることだからOKしたけれど、お客の中にはタリバンを恐れ、カメラに映ることさえも嫌がる人がいた」と、突然の取材拒否を謝罪したのです。

NHKの同番組(『異国の地 アフガニスタンの食堂で』)の紹介ページには、「40万人以上が隣国パキスタンに逃げてきた」とあります。身の危険を感じる人も多くいたのでしょう。

先の見えない生活

このレストランのスタッフ25人も、全員アフガニスタンから逃げてきた人たちです。彼らは夜になると店内のいたるところで雑魚寝し、朝になると仕込みを始めるそうです。

3人の子どもと妻と一緒に、18時間かけて逃げてきたというコピー店で働く男性は、「日々の食事はタマネギとジャガイモを炒めたものだけ」と話していました。

ストリートで物乞いする女性と小さな子どもたちもいました。ひとりやふたりではありません。何十人という女性や子どもが、みな夫や父親などの大黒柱を失い、買い物客がナンを恵んでくれるのをひたすら待っていました。

アフガニスタンから避難してきた人が夜になると集まるサッカーグラウンドでは「難民として生きるのは大変だし、みんな経済的問題も抱えている」と語られていました。

どの人も、命からがら逃げ延び、異国の地で、先の見えない生活を送っているように見えました。

番組を見て驚いたのは、そんな大変な生活の中でも、多くの人が「未来」や「希望」を語っていたことです。

緑内障の治療のため、バスで22時間かけて病院へ行くという30歳の青年は
「少しでも良くなったら飲食店を立ち上げたい。人間は希望を持っているから生きて行ける。僕は希望を持って前へ進む」
と話していました。

中学3年生で逃げてきたというあるレストランスタッフは、
「希望は捨てていない。いつか学校へ戻れる日が来ると信じている」
と言います。

露店で、義兄とともに揚げパンを売っていた13歳少年は、今は学校に行けていなくても「夢は英語教師」と、覚えたての英語を披露してくれました。

「先の見えない生活」の中にいても、当然のように前に進もうとする人々の瞳は輝いていました。


不幸そうな日本の子ども・若者

なぜか、私が日頃、会っている若者や子どもたちの顔が浮かんできました。

きちんと家があり、食べる物に困らず、いくらでも学校に通える子どもや若者たちです。
アフガニスタンで難民として暮らす少年や若者に比べ、はるかに恵まれた境遇にいるはずなのに、ずっと暗い顔をしています。

マスクと長い前髪で顔を隠し、うつむく子ども。蚊の鳴くような声で自信なさげに語る若者。夢どころか本心や本音さえも見失ってしまったかのようです。

精神的幸福度の低さが象徴的

「こうしなければ」はあっても、腹の底から「こうしたい」と熱望すること・ものがある子ども・若者はまれです。

だから「自分らしさ」が分からず、アイデンティティも揺らぎます。「自分は何者で、どう生きるのか」という確信が無いのです。それでは「生きる意味」を見つけることも難しくなるでしょう。

「自分が何者か」が確信できないから、よけいに周囲の評価や他者の目が気になります。自分が無ければ、ちょっとした他者の言動に振り回され、傷つきます。それを避け、どんどん殻に閉じこもり、窒息しそうな毎日を生きています。

2020年に発表されたユニセフ調査によると、日本の子どもの精神的幸福度は、先進国38カ国中37位という驚きの低さです。

アフガニスタンの若者たちと、日本の若者たち。経済的な豊かさだけでは測れない、希望と絶望を分けるものは、いったい何なのか。番組を見ながら、ずっと考えていました。

たどり着いたのは、「周囲のおとなの違い」ではないかという結論でした。

たとえば、『希望と絶望の分岐点(1)』で書いた「英語教師になりたい」という少年の義兄は次のように話していました。

「(少年はアフガニスタンから逃げてきて)友達と離れて、ひとりで寂しそうだった。本人も手伝いたいと言うし、本人のためになると思ってここ(揚げパン屋)に連れて来た。本当は勉強させてあげて、大学へ行かせてやりたい。自分がやりたいことを選べる人生を送って欲しいから」

これを聞いて、「私だって、自分の子どもに対して同じように考えている」という日本人も多いのではないでしょうか。

日本人のおとなの多くは

しかし、その中身は違うように感じました。アフガニスタンのおとなたちは、「この厳しい現状のなかでも、子どもが自ら最善の道を選べるように」と考えています。

対して、日本のおとなの多くは、まず、おとなの側が選択肢を示します。
必ずしも言葉ではなくても、態度や自分の生き様、ちょっとしたため息などで「これか、あれか、それを選ぶべき」と、子どもに伝えています。

子どもが「学びたいことがあり、大学に行きたいから」ではなく、「大学を出ないと世の中で通用しない(と思い込んで)」子どもにお金や時間を注ぎ込み、それを愛情だと信じて、子どもに期待をかけます。

私は自分らしい人生を選択できているか

そして何より、日本のおとな自身が「こうでなければ」に囚われて生きています。自分の道を切り開いて行こうとするのではなく、日本社会が是とする道からはみ出さないよう、周囲を見て、自分が浮かないように生きています。

「自分が潰されてしまうくらいなら」と故郷を後にし、「自分の人生は自分で切り開いていける」と信じ、進んで行くアフガニスタンのおとなとはまるで違います。

希望と絶望の分岐点。それは自分を偽らず、自らの意思で、自分らしい人生を選択できているかどうかなのではないでしょうか。

はたして私はどうなのか。改めて考えさせられた番組でした。