コロナ不安と報道(3)
「子どもが危ない」というかけ声の下、街のあちこちに監視カメラも設置されました。
いつの間にかそれは「子どもが被害に遭うのを防ぐ」という意味合いよりも、「子どもが非行に走るのを防ぐ」という目的の方が強くなっていったような気がします。
平たく言えば、「問題行動を起こしたり、社会の在り方に反抗する子どもをいち早く選別し、排除ないし矯正する」ということです。
街の「安全マップ」がつくられることで、地域に「危険な場所」が生まれました。不審者情報を流すことで、「他の人と違う」人が目に付くようになり、高い塀に囲まれた風通しの悪い家の中では、何が起こっているのか分かりにくくなりました。
瞬く間に、異質な者の排除や、みなに同調できない者への糾弾が加速し、セキュリティ関連企業が大もうけする監視社会ができあがりました。
マスクが社会の一員の証?
猛暑到来で、新しい生活様式を提案してきた政府も、「周囲に人がいない場所ではマスクを外そう」と言い始めたというのに、ひとりでジョギングをするときも、空いた場所で自転車に乗っていても、無言で犬の散歩をしていても、みんなマスクを付けています。
今朝もワイドショーでも、「人の目が気になってマスクを外せない」という街の声がありました。あるコメンテーターの「マスクをきちんと付けていることが社会の一員である証になっている」といった主旨の発言は、まさにその通りという感じです。
「たんにマスクを付けていないというだけで、社会からはじかれるなら」これは、なんと恐ろしい社会になっているのでしょうか。
夏休みをどう過ごす?
最近のコロナ報道では、「夏休みをどう過ごすのか」が大きなテーマです。墓参りや帰省、旅行に対して政府内部や自治体によっても意見が分かれるなか、「隣の人はどうするのか」とうかがいあう、何とも言えない嫌な空気が漂っています。
だれかに尋ねられれば、長引く自粛にうんざりし、「夏休みくらいハメを外したい」という本音を隠して、「今年はしょうがありません。我慢します」と答えるのでしょう。