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私の意見はさておき、本題に戻りましょう。
同書には、すべて紹介してしまいたいくらい、ユニークなエピソードがいっぱい詰まっていいます。

前回紹介した自殺予防因子「その一 いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい」という、いわゆる「多様性を重視する」傾向を伝える話としては、現在でいうところの中高を卒業した年頃の主に男子が入る江戸時代発祥の相互扶助組織についても書かれていました。

こうした相互扶助組織はかつてあちこちに見られました。でも、他の地域は状況は旧海部町とはかなり事情が異なっています。簡単に言うと、他の地域では先輩後輩の上下関係が厳しかったり、さまざまな規則があったりするかなり窮屈な組織でした。

相互扶助組織の違い

それを裏付けるものとして筆者が聞き取った他県にある同様の組織の元メンバーたちの意見として、次のようなものが載っています。

「入会してからの最初の三年間がいかに忍従の日々で合ったかを口々に語った。どのように理不尽な無いようであっても、先輩の言いつけにそむいたり対応できなかったりした場合には厳しい制裁が待っている。八〇歳代の元メンバーは、のちに軍隊に入ったときにむしろ楽に感じたほど、それほどまでに辛い日々だったと言いきった」(同書55~56ページ)

対して旧海部町で今も盛んに活動を続けている相互扶助組織「同朋組」はまったく違います。年長者が年少者に服従を強いることは無く、たとえ年少者の意見であっても、妥当と判断されれば即採用されてきたそうです(53ページ)。
会則と呼べるものは無きに等しく、入退会にまつわる定めも設けていないとのこと(43ページ)。

今につながる多様性重視

このような素地が、たとえば旧海部村では特別支援学級の設置に異を唱えるというようなことにもつながっていると筆者は見ます。そしてある町会議員の次のような意見を紹介しています。

「他の生徒たちとの間に多少の違いがあるからといって、その子を押し出して別枠の中に囲い込む行為に賛成できないだけだ。世の中は多様な個性をもつ人たちでできている。ひとつのクラスの中に、いろんな個性があったほうがよいではないか」(46ページ)(続く…

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前に紹介した5つの自殺予防因子の中で、どういうことなのかよく分からないものに「その四 『病』は市に出せ」があります。

一言で言ってしまえば、「たいへんなことを一人で抱え込まない」ということのようです。
病気はもちろんのこと、家庭内のトラブルや事業の不振、あらゆる問題を「公開の場に出せ」ということだそう。

自分だけで抱え込まず「市に出せ」ば、「この薬が効くだの、あの医者が良いだのと、周囲が何かしら対処法を教えてくれる」(73ページ)というのです。

近隣地域との違い

そして著者が海部町と対比させた自殺多発地域であるA町や近隣の地域とのさまざまな違いが述べられています。

たとえばA町の高齢者は「迷惑」という言葉をよく口にしたと言います。

そのことを著者は、隣人が常に支え合わなければ生活が成り立たなかった時代、「ひとたび援助を求めれば、相手はどんな無理をしてでも応えてくれることがわかっていたからこそ、かえって『助けてくれ』と軽々しくは言えなくなってしまったのではないか」(78ページ)と分析しています。

また海部町と近隣地域でうつの受診率を比べた場合、海部町が最も高いということも確認されました。

さらに海部町では「だれかがうつだ」という情報があると、「見にいてやらないかん!」(81ページ)と見舞いに行き、隣人に対して「あんた、うつになっとんと違うん」と面と向かって指摘することもめずらしくないそうで、この話を自殺多発地域のA町の住人人に話したところ、「ほないなこと、言うてもええんじゃねえ」と目を丸くしていたそうです(82ページ)。

済州島でのこと

この話を読んで、私は以前、臨月間近の大きなお腹をした友人と一緒に韓国の済州島へ旅行したときのことを思い出しました。(このシリーズの最初の記事へ“>続く…)

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韓国旅行のとき、友人のお腹はほんとうにぱんぱんで、「すぐにも子どもが飛び出してきそう」な大きさでした。飛行機会社によっては臨月が近すぎて乗せてもらえないところもあったほどです。

そんな友人とタクシーに乗れば運転手さんが「何ヶ月なの?」と尋ねて来るし、市場や商店街を歩いていると、必ず地元の人たち(多くの場合、おばさんたち)が「何ヶ月なの?」「大事にしないと」「男の子? 女の子?」と呼び止めてきて、「これを食べるといいよ」と商品である食べ物を差し出されたりしもしました。

そして話は発展し、たとえば「(友人の)夫はどんな人なのか」とか、隣にいる私には「あんたは結婚しているのか」とか、かなりプライベートなことまで聞いてくるのです。

日本で同じこと口にしたら「セクハラだ!」と怒られそうですが、韓国の下町?のおじさん、おばさんたちがあっけらかんと聞いてくると、こちらも嫌な気持ちがまったくせず、逆に距離が縮まった感じがしました。

海部町民に通じる匂い

前回のブログで紹介した「海部町では隣人がうつっぽくなっていると『あんた、うつになっとんと違うん』と面と向かって指摘することもめずらしくない」という話を読んだとき、どことなくあの韓国旅行で出会ったおじさん、おばさんたちに通じる匂いを感じました。

同じ言葉を口にしても、そこに他の気持ちや評価・・・たとえば「うつになるのは良くないこと」だとか、「子どもを産んでいないのはいけないこと」だとか・・・が入っていると、受け取った側は敏感にその“含み”をキャッチし、不愉快になります。

値踏みされているような、批判されているような、ダメだしされているような、そんなネガティブな感じになります。

でも、そういった“含み”がないストレートな言葉は、「あなたにとっても関心がありますよ」というメッセージになり、受け手側に「『自分を気にかけてくれているこの人の前でなら、自分を出してもいいかもしれない』という安心感をもたらすことがあるのだ」と、あの韓国旅行で知りました。

確信させてくれた話

それを確信させてくれたのは、韓国旅行中、通訳をしてくれた方のお子さんの話でした。

その通訳の方は日本人で、お子さんは幼少期を日本で過ごし、日本の学校では不登校だったのに、韓国では問題無く学校に通えているといい、その理由をお子さんはこんなふうに語ったのです。(続く…

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「韓国の子は『私はこう思う』とか『あなたはこうだよね』とか、はっきり言ってくれるから安心してつきあえる。日本の子たちは、表面上は楽しそうにつきあっている子のことを影では悪く言ったりするし、本音を見せないから何を考えているのか分からなくて怖かった。会話していても『本当はどう思っているんだろう?』っていつも探るような感じで疲れてしまった」

こうした日本の学校、友人関係における息苦しさは、学校に行くことが難しかったり、「人の目が気になる」という悩みで来室される10代のクライアントさんから、最近もよく聞きます。

いえ、もしかしたら最近の方がずっと多いかもしれません。

空気を読めなければ人間じゃない?

確かに「KY」(空気 読めない)という言葉がはやった頃も「空気を読めないのはいけないこと」という状況はありました。

でも今は、それよりも何歩も進んで「空気を読む」ことは「空気を吸う」くらいに当たり前のことになってしまっているように思えます。誤解を恐れずに書くなら、10代の方たちの話を聞いていると「空気を読めなければ人間じゃない」くらいの勢いを感じるのです。

子どもは、おとなより敏感に時代の空気を感じ取ります。そして、その空気をつくっているおとなが、心の中で何を思い、何を期待し、何に価値を置いているか、何が否定されることなのかなどをいち早く察知し、乾いた砂のように吸収します。

福島の子どもへのいじめは典型的

昨今、話題になっている福島県から避難してきた子どもへの「福島へ帰れ」とか、「(賠償金などをもらっているのだから)おごれ」などといういじめは、まさにその典型です。

もちろん学校や教員の対応のまずさ、いじめっ子の問題は否定しません。しかし、最も根本的な原因をつくっているのはだれでしょうか?

子どもを含めた追加被爆量の限度を従来の20倍である20ミリシーベルト・・・これは放射線を扱って仕事をするおとなに厳重な管理が課される数値です・・・に設定し、「その基準値以下だから安全なんだ」として、強制的に福島に帰るよう促す政府。

国が進めてきた原発の事故という人災によって、土地や仕事、人間関係を奪われ、将来を狂わされてしまった人に支払ってしかるべき保障を渋る政府。

そんな政府を許し、そういった政策を進める政治家を選んできた私たちおとなではありませんか。(続く…

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そんな子どもたちの状況から察するに、今の日本はとても閉塞的で画一的な社会になってしまっているということなのでしょう。

そう考えると、今までにご紹介した海部町の「いろんな人がいた方がよい」や「『病』は市に出せ」という予防因子が、それも自然発生的に成立していることは驚くに値します。

どうしてそんなことができたのでしょうか?

「どうせ自分なんて、と考えない」町民気質

どうも「どうせ自分なんて、と考えない」(自殺予防因子ーその三)という町民気質が重要な気がしてなりません。

著者はこの三つ目の自殺予防因子の根拠のひとつに「『自分のようなものに政府を動かす力はない』と思いますか」というアンケートの調査結果を挙げています(57~58ページ)。
自殺多発地域のA町では、「動かす力はない」という回答が51.2%と半数を上回ったのに対し、海部町ではわずか26.3%だったというのです。

また著者は、「若いときから毎日畑に出て日の出から日の入りまで働き、家庭を支えて子どもを育てて、きちんと税金を納めてきた人」(69ページ)であるA町の老女が、働かない(働けない)ようになった今の自分を“極道もん”と呼び、人目を気にしてディケアに行くことさえ遠慮する様子を見て、「鼻の奥がつんとなった」(68ページ)記す一方、海部町のお年寄りのについて、町の医師とのこんなやりとりを載せています。

「『デイケアに行くのだって、大威張りですよね』。私が言うと、医師はくっくっと笑い、『ああもう、大威張りですよ』と同意した」(70ページ)

「自己効力感」とは

こうした海部町の町民気質について、著者は社会学習理論で有名な心理学者のアルバート・バンデューラが提唱した「自己効力感」の現れであるとし、「一般の人においては『自己信頼感』や『有能感』という言葉に置き換えた方が理解しやすいかもしれない」(63ページ)と述べています。

ちなみに、「自己効力感」とは「人が何らかの課題に直面した際、こうすればうまくいくはずだという期待(結果期待)に対して、自分はそれが実行できるという期待(効力期待)や自信のこと」(ナビゲート:ビジネス基本用語集)。

かんたんに言うと、「自分はできる!」という感覚というのでしょうか。(続く…

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自己効力感の提唱者・バンデューラは、この「自分はできる!」という感覚を高める要素として次のようなものを挙げています。

(1)遂行行動の達成(実際に行動したことの成功体験)
(2)代理的体験(自分が行おうとしている行動をうまく行っている他者の観察)
(3)言語的説得(自己教示や行おうとしている行動を優れた他者から評価されること)
(4)情動的喚起(生理的な反応の変化を体験してみること)

なるほど、なるほど。ですが私にはもうひとつ、いちばん大切なものが足りないように思います。
それは「自己肯定感」です。

「ありのままの自分でいい!」感覚

「自己効力感」が「自分はできる!」ということだとしたら、「自己肯定感」は「ありのままの自分でいい!」と思えることです。

つまり、何か秀でているとか、とくべつな能力や才能があるとか、一角の人物であるとか、そういったことなしに「何者でもない自分にかけがえのない価値がある!」と思える感覚というのでしょうか。

この感覚は、ただ泣くしかできない無力な乳幼児の頃から養われます。

迷惑をかけたたり、おとなの手を煩わせるしかできない乳幼児が、その不安や恐怖、思いや願いを養育者にきちんと受け止めてもらい、ニーズを満たしてもらうことで「自分は愛されている」「自分は大切な存在である」と、自己を肯定的に感じられるようになるのです。

「自分の見方」が人生を左右する

こうした「自分の見方」は、もちろん、後に変化することもあり得ます。たとえば愛してくれた両親との別離や、学校でのいじめ、受験競争における敗北など、せっかく獲得した「自己肯定感」を低める要因が人生には待ち受けています。

その逆もしかりです。乳幼児のときによい養育者に恵まれなかった人も、その後の人生のいずれかで「あなたはそのままで価値がある」という関わりをもらえれば、変わる可能性を秘めています。

しかしそれでも、人生の初期段階で獲得した「自分の見方」は、かなりの確率でその後の人生を左右します。(続く…

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同書を読んでいると「自己効力感」よりも、むしろ「自己肯定感」の高さが町民気質を左右しているように思えてなりません。

たとえば、「ありのままの自分に価値がある」と思えるからこそ、他者の価値観や支配に左右されず、きちんと自分を守りながら、自分の価値観に基づいて自律的に世の中を生きていくことができるようになります。

それは海部町の学歴や社会的地位に惑わされることなく、「その人物そのものを見る」という「自殺予防因子ーその二 人物本位主義をつらぬく」に通じるものを感じます。

「ゆるやかにつながる」ことも可能に

また、自己肯定感が高く、「自分は大切」と思える人は、「自分にかけがえのない人生があるように、他人にもかえけがのない人生がある」ことを自然に受け入れられます。

それが、他者を支配したり、規則で縛ったり、義務や負担を課すことなく、お互いのペースやパーソナルスペースをおもんぱかりながらも「自殺予防因子ーその五 ゆるやかにつながる」ということを可能にしているのではないでしょうか。

悲しい現実

もし、海部町の生き心地の良さを保障しているものが「自己肯定感」の高さなのだとしたら、自殺率を下げる方法は明確です。

子どもにおとなの都合や期待を押しつけず、おとなが子どもの思いや願いをちゃんと受け止め、「自分は愛されているんだ」という実感を与え続けてあげること。身近なおとなができなかったときには社会が替わって保障してあげること。

人生の早期に「自己肯定感」を獲得できなかった人がやり直せるような人間関係を用意し、「自己肯定感」を低める要因を減らすことです。

でも、それが思いの外、難しいのでしょう。

若年層(15~39歳)の死因のトップが自殺で、その数字は先進7カ国のなかでトップという事実(『自殺対策白書(2014年版)』が、「自己肯定感」を高めることなどまったくできていない悲しい日本の現実を物語っています。