相模原障害者施設殺傷事件から2年(4)
なぜ、ヘイトクライムが日常化しているのか、どうしてたくさんの法律をつくっても障害者差別が無くならないのか。
置き去りにされた本質的な問題は、どこにあるのでしょうか。
前々回のブログで紹介した、クローズアップ現代を見ていて胸に刺さった言葉があります。事件が起きた施設に重い知的障害がある息子さんを通わせていた垂水京子さんという方が、ご自身の息子さんについて語った、言葉です。
「心の底から、かわいいなと。何もできないけれども、笑っている顔、どこのイケメンや俳優よりも、私はかわいい。役に立たなくてもいいし、ちゃんと存在しているだけで幸せだと思う。役に立たなくて悪い?」
「役に立たないものは価値がない」という現実
その言葉は、障害を持った子どもの親として、きれい事だけでは住まない毎日を生き、迷ったり、悩んだりしながらも、息子さんを愛してきたからこその一言だったと思います。
そして、相模原障害者施設殺傷事件のなかで置き去りにされた本質的な問題を示唆しているように聞こえました。
命の差別は、もちろん絶対にあってはならないことです。しかし現実には、「優秀なものと劣ったもの」を区別し、「役に立たないものは価値がない」という考え方は、日本社会に蔓延しています。
空前の内部留保を持つ大企業は、非正規社員を捨て駒のように扱い、国は福祉を削り続け、大企業優先の施策を続けています。
「平成28年国民生活基礎調査」によると、会社・団体等の職員の平均年収は437.2万円、正規雇用の職員・従業員の平均年収が302.5万円、非正規の職員・従業員の平均年収が125.8万円、パート・アルバイトの平均年収が125万円だそうです。
胎児にまで至る命の差別
「貧困に陥るのも、競争に勝てないのも、成果を上げられないのも自己責任」として甘受を強いられているのが、今の日本社会です。
そんな社会の価値に合わせて、子どもたちも幼少期から、勉強や習い事に振り回され、ことあるごとにだれかと比べられ、序列化され、社会の物差しで自分を計ることを余儀なくされています。
「何もできないありのままの自分」を受け入れてもらうことなど想像もできない毎日のなかで、常に「優秀であろう」とし、自分らしさを否定し、自己評価を下げ続けていきます。
そんな命の差別が胎児にまでおよぶようになりました。合法化された新出生前診断によって、受診した妊婦の9割が中絶を選んでいます(『毎日新聞』2016年9月14日)。