「子どもの意思を尊重しよう」とか「子どもの意見を聴こう」という声をあちこちで聞くようになりました。「子どもアドボカシー」や「子どもアドボケイト」という言葉を耳にすることも増えています。

子どものアドボカシーとは、子どもに代わって、子どもの権利を擁護・代弁し、権利の実現を支援する機能。子どものアドボケイトとは、そのための代弁者のことです。子どもアドボケイトの取り組みが進んでいるイギリスでは、その役割は「マイク」に例えられたりします。つまり、「おとなの考えや都合を入れずに、子どもが語った言葉をそのまま大きくして第三者(社会)に届けるための道具」が、アドボケイトということなのでしょう。

 
「子どもの意見尊重」の機運の高まり

「子どもの意見を尊重しよう」という機運は、①2013年に制定された家事審判手続法で子どもが家事事件の当事者として訴訟に参加する制度が設けられたこと、②2019年の児童福祉法の改正で子どもが意見を述べる機会の確保とその際に支援する仕組みの検討が盛り込まれたことにより、強まりました。

さらに③2010年代後半に相次いだ虐待死事件も制度づくりを後押ししました。痛ましい事件をこれ以上起こさないためにも、「当事者である子ども自身の意見がしっかり聴かれるべきである」という考えが強まり、子どもの意思を措置や処遇、調停や審判等にも子どもの意見を生かすべきだという流れができてきました。

2022年5月には、厚生労働省の子どもの権利擁護に関するワーキングチームが、児童相談所が親子を分離する一時保護や、里親委託・施設入所を決定する際には、子どもから意見を聴くことを児童福祉法で義務付けるよう提案しました。

 同年6月に成立した改正児童福祉法では、施設入所等の措置や一時保護の決定時などに、子どもの意見を聴取することが義務化されました。意見表明等支援事業が創設され、そのための環境整備が都道府県等の業務に明記され、子どもの意見を代弁する「意見表明支援員」(アドボケイト)の配置が本格的に始まりました。

極めつけは「こども基本法」

極めつけは、2023年4月に施行された「こども基本法」でしょう。政府は「日本国憲法および児童(子ども)の権利に関する条約の精神にのっとり、全てのこどもが、将来にわたって幸福な生活を送ることができる社会の実現を目指し、こども政策を総合的に推進することを目的として」定めたとし、その6つの基本理念にも、子どもの権利条約の意見表明権(第12条)そっくりな文言が入りました(こども家庭庁ホームページ)。

家庭裁判所でも、「子どもの意見」がかつてないほど重用されるようになりました。子どもの権利条約第12条「意見表明権」を前面に出し、監護親を決めたり、面会交流を行うかどうか決定するケースが増えているのです。

そうしたことが、ほんとうに子どもの権利条約第12条「意見表明権」の実現なのでしょうか?

子どもに「どちらの親と暮らしたいか」の決定を迫ったり、「別居親と会うか会わないか」を尋ねたりすることが、子どもの権利を認めることになるのでしょうか?

ちょっと難しい話になりますが、そもそも「意見表明権」がどんな権利として考えられてきたのか、というところから考えてみましょう。

「意見表明権」は社会に参加する権利?

これまで、「意見表明権」は、「子どもは未熟な存在だ」という考えを克服し、子どもが権利行使の主体となることを保障するためのものとされてきました。条約13条「表現の自由」などと同じように市民的自由の流れに属すると理解されてきたのです。そのため、子どもが表明した意見の内容その中身を尊重すること(限りなく自己決定権に近づく)や、子どもが社会に参加する権利を保障したものとされていたのです。

子どもの権利条約の4つの原則のひとつとされる「意見表明権」も、長らく「参加の権利」だとされてきました。

赤ちゃんには使うことができない

しかし、そのような考え方で「意見表明権」をとらえれば、まだ未熟な子ども相手に「自分で決めたのだから、自分で責任をとりなさい」と、早い自立を促したり、自己責任を問うことになってしまいます。なにより、赤ちゃんでは、使うこともできません。

確かに、子どもには年齢や成長発達の度合いに応じて自分の気持ちを表すことができます。ものすごい虐待を受けてきた子どもが、親に恐怖を覚えて、会うことを拒否することも皆無ではないでしょう。

しかし、多くの子どもは、たとえひどい親であっても、親が大好きで、愛されたいと願います。恐怖を感じる一方で、「本当は抱きしめてほしい」と思っていたりします。守ってくれるおとながいなければ生き延びられない子どもという存在にとって、当たり前なことです。

そんな子どもという存在の特性を考えれば、子どもと親の決定的な別離、それを子ども自身に決定させることの残酷さがわかるはずです。

子どもに残酷な決定を迫ることになる

・・・だとすれば、そのような残酷な決定を子どもに迫るものが、子どもの幸せのために存在する子どもの権利条約の重要な「意見表明権」であると言ってしまっていいのでしょうか。

私にはとうていそうは思えません。

 では子どもの権利条約の中でも、最も大切な権利である意見表明権(12条)とはどのような権利なのでしょうか。

 ズバリ言うなら、「意見表明権は子どもが自らが身近なおとなに呼びかけ、人間関係をつくる権利」です。

 理性的な存在とされるおとなが、自己決定によって主体的に、自律的に物事を判断し、自らの人生を歩んで行きます。しかし、子どもはまだ理性的ではありません。そんな子どもが自己決定をする権利を手に入れても、きちんと使うことはできません。

子ども自ら使える権利(力)としての意見表明権

 だとしたら、子どもが自ら使える権利(力)とはどのようなものなのでしょう。それは親などの身近なおとなに対して「ねぇ、ねぇ!」「顔を自分に向けてよ!」と呼びかける、本能的な欲求としてのアタッチメント行動なのではないでしょうか。

 そう考えれば、12条「意見表明権」の言う、「意見」が、皆の前で演説するとか、議論によって考えを伝えるというようなものではないことは明白です。意見というよりも、子どもが、身近なおとなに向かって出す思いや願い(欲求)と考える方が自然です。

 実際、子どもの権利条約の原文でも、子どもの意見はopinionではなくviewsとなっています。つまり、子どもの「見方」「考え方」ということです。これなら、生まれたての赤ちゃんであっても、自ら使うことができます。

重要なのは表明された意見そのものではない

 子どもは、幼ければ幼いほど不確定なかたちでしか自分の思いや願いを表明することはできません。赤ちゃんが「アー」「ウー」と意見表明しても、それが、恐怖や不安からくるのか、何か望んでいるのか、あるいは拒否感情なのかなどは不明確です。

 ここで重要なことは、分かるかたちで表明された意見そのものではありません。子どもは、今できる精一杯のやり方で身近なおとなに呼びかけていて、それに対しておとなが顔を向けてくれることを待っているという点なのです。

 表明された意見がおとなの目から見たら馬鹿げていたり、無意味に感じたり、とうてい実行不可能なものであったとしても、自分の呼びかけに無条件で応答し、その思いや願いを受け止め、子どもが今抱えている問題・困難を一緒に考えて援助してくれるおとながいるということが、重要なのです。

 そんな安全基地となるおとなとの関係性こそ、子どもの権利条約前文が子どもの成長発達権の保障に不可欠だとしている“愛情と幸福と理解のある環境”なのです。

 子どもの権利条約は、「愛される地位」にある子どもに対し、子どもの意見表明権を保障することで、子ども自らが、その成長発達の場で出会う身近なおとなとの間に「受容的な応答関係」をつくる権利として具体化し、「愛される権利」を子ども自身が実現できる権利としてのです。

 このようにとらえれば、たとえ赤ちゃんであっても十分に権利行使の主体となり得ます。また、ともすればおとな都合になってしまう「最善の利益」や、子どもの管理・支配の道具ともなり得る「愛情」を子ども自身がはねのけることもできます。

 12条「意見表明権」は、13条「表現の自由」とはまったく違うものです。

赤ちゃんでも使える権利

 もし、12条「意見表明権」を自己決定権だとしてとらえれば、まだ未熟な子どもに対し「自分で決めたのだから、自分で責任をとりなさい」という、早期の自立をや自己責任を問うという残酷なものとなってしまいます。
 
 何より、産まれたばかりの赤ちゃんには使えません。おとなとは違う、おとなよりも脆弱な子どものために用意された「子どもの権利」でありながら、最も弱い乳幼児が使えない権利では、まったく意味がありません。

12条「意見表明権」の中身

 これらを踏まえて、もう一度、12条「意見表明権」を見てみましょう。

 12条「意見表明権」1項は次のように謳っている:「自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする」

 たとえ赤ちゃんでも、何を欲求し、何を願っているのか、その年齢や成熟度に応じたかたちで表明することは可能です。乳幼児は、自分に影響するあらゆる事項について、泣いたり、むずがったり、手足をばたつかせながら、今、感じていること、何をして欲しいと思い、何が不快なのかを養育者に向かって必死に伝えようとします。

 おむつが濡れたとか、お腹が空いたという事実は、その子どもに大きな影響を及ぼします。

「子どもの意見を聴く」とは

 子どもがある程度、成長したときには、親への暴言などの攻撃的なものや、試みに合わせるような表現や行動、非行などの問題行動や無言の抵抗として現れることもあるでしょう。

 そうやって子どもは、本能的な欲求を通して権利行使をし続けているのです。そして身近なおとなには、これらの真意を探りながら、子どもの次の表現を待ちつつ受容的な関係を築き、応答を続ける義務(12条「意見表明権」)があるのです。

 こうした子どもの思いや願いに応えること。それこそが、子どもの言葉にならない思いや願いまでも含め、「子どもの意見を聴く」ということです。