愛馬が教えてくれたこと(3/6)
私が馬の一生を知ったきっかけは、愛馬が足腰を痛めたためでした。もう15年ほど前になります。それまで全国大会で入賞を果たしていた馬だったため、乗馬クラブからこう勧められたのです。
「競技を続けたいなら、馬を買い換えた方がいい。今、手放せば、高く売れる」
そう言われて頭に浮かんだのは、以前に持っていた馬のことでした。
その数年前、私は馬を買い換えていました。当時の私は、馬の人生がどんなものかなどまったく知りませんでした。自分が手放した後も、ずっとだれかの自馬(オーナーのいる馬)としてかわいがられて生きていくと思っていました。だから、いつでも会いに行けると信じていたのです。
ところが、1年とたたないうちに、その馬の行方は分からなくなってしまいました。だれに聞いても、いったいどこへ売られていったのか教えてくれません。
それが馬をあつかう世界のルールであり、おかげで馬とかかわった人が「きっとどこかで元気に生きているはずだ」と、はかない夢を見続けることができるのだと分かったのは、後になってからでした。
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役に立たなくてごめんなさい
前の馬のことがあり、ふんぎりのつかないまま時間だけが過ぎていきました。愛馬は、競技に出ると、またすぐに休ませなければいけない状態の繰り返し。競技会での成績も以前ほど振るわなくなってきており、全盛期を過ぎたことは明確でした。
そんな折、愛馬のあつかいをめぐって乗馬クラブの担当者とトラブルになり、急遽、新しい預け先を探さなければいけなくなりました。
・・・とは言え、一生、馬を養い続ける自信はありませんでした。動物愛護団体やら、牧場やらを回り、どうにか一生のんびり暮らせる方法はないかと探しました。
そうした中で「過酷な馬の人生」のことを知ったのです。
前回紹介した『競走馬の文化史—優駿になれなかった馬たちへ』(筑摩書房)という本も、このとき知りました。この本の「最後の家」という頁に、肩身狭そうに横たわっている馬の写真があるのですが、その目が「大きくて邪魔でごめんなさい」「役に立たなくてごめんなさい」・・・そう、つぶやいている気がして、心が痛みました。
馬は経済動物だけど・・・
「馬は経済動物なのだから仕方がない」
そんな声が、どこかから聞こえてきそうです。
私も否定はしません。人間のために働いてもらったり、命の糧として食したりすることを間違っているなどと言うつもりは毛頭ありません。
多くの人を競馬場に呼び込み、早い馬をつくるために過剰生産し、ほんのわずかなタイムを競わせる。人間の勝手で競走馬としてしか生きていけないよう早くから調教し、体も出来上がらないうちから無理に走らせる。そして、人間の期待に応えられなければ、ほとんどの馬が生きる道を閉ざされてしまうというシステムに疑問を感じているだけです。
馬がどんなに働いても、その利益が無冠の競走馬や、活躍できなかった乗馬馬たちに回ることはありません。欧米には多い養老馬牧場も、日本には数える程しかありません。
さらに、そんな事実を覆い隠し、イメージだけを売り込むことも、どうかと思います。
せめて人間の都合で生産され、競争させられ、酷使され、そして殺されていく馬の一生を「美しいイメージ」でカモフラージュするのは止めるべきではないでしょうか。
「癒されるから」と競馬場や乗馬クラブを訪れる馬好きの人たちに、馬の一生をきちんと知らせた上で、「それでももっと能力の高い馬がいいですか?」と、問いかけてみることも必要なのではないでしょうか。
「これからの馬の運命を決めていくのは、結局、私たち人間の欲望であり、夢なのだから」(『競走馬の文化史—優駿になれなかった馬たちへ』162ページ)(続く…)