静かなる反乱(8/8)

2019年5月29日

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私たち人間はだれしも、「厳しい現実」を見たくありませんし、「安心して暮らしたい」と願っています。

だから、耐えられない現実に出会ったとき、それを「無かったこと」(否認)にしたり、わき上がってくる不安や恐怖を「意識の外に閉め出す」(抑圧)ことなどをして、自分を防衛します。

原発事故を前に「原発は安心安全なはず」と戸惑い、「(政府の言う)10キロ圏内の避難計画しか立てていなかった」などと言う報道を見ると、あるDV被害女性のセリフを思い出します。
彼女は夫との生活を振り返り、こう言いました。

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「夫はいつでも『俺のことを信じてくれ』と言っていました。そう言われると、『不安を解消したい』、『夫を信じたい』という気持ちになり、夫の仕打ちや『信じろ』と言うに足る根拠について考えをめぐらすることができなくなっていました。そして、知らず知らずのうちに『夫がひどい人間である』という事実を打ち消していたのです」

こうした心の機能は、日々をやり過ごしていくためには一定程度の効果を持ちます。しかし、それはときに、取り返しのつかない崖っぷちまで、私たちを追い詰めてしまうこともあります。

“冷静”な言動の裏に

海外の人々を驚かせる日本人の“冷静”な言動の裏には、こうした心の機能が影響しているのではないでしょうか。

私たちは「話をする大切さ」は教えられても「話をする場」は与えられず、理不尽なことでも忍耐で乗り切るよう訓練され、へたに意見を言うと白い目で見られる社会に生きています(『静かなる反乱(6)』)。

そんな社会では、怒り(意見)を表すことはとてもリスクの高い行為です。自らの身が脅かされたり、危険にさらされたことを知らせるシグナルであるはずの怒りも、「なるべく感じ無いよう」に抑圧されていきます。

もしかしたら、自分を脅かしているはずの他者の行為をまったく違う感情を持って迎えるように頑張ったりするかもしれません。たとえば「ありがたいもの」と感じるように、など・・・。

怒りは大切な感情

こうした工夫は、一時の社会適応には便利ですが、私たちからリアルな感情を奪い、人間関係を築きにくくし、抑うつ的になったり、無気力なったり、さらに危険な事態を招いてしまうことにもなります。

怒りは自分を守るための大切な感情です。へたに抑え込もうとすれば、予期せぬ時に破壊的な行為となって飛び出すこともあります。それを防ぐには、まずきちんと怒りを感じ、「どうやって表出させるか」と考え、怒りをもたらすような環境(社会)を変化させる創造のエネルギーとして使うことなのです。

利益を貪る人々の誤算

確かに日本には、リビアのカダフィ氏のように、エジプトのムバラク前大統領のような独裁者はいません。一見、自由な国のようにも見えます。

しかし実は、怒りを表現できないよう「仕組まれた自由」が張り巡らされています。そして仕組みの後ろ側には、その仕組をつくり、恩恵を受けている人々がいるのです。
危険性を隠して次々と建設・運転されてきた原発にむらがり、利益をむさぼる人々のような・・・。

ただ、利益を貪る人々は誤算をしています。イエスマンや無気力な人が増えていけば、自らのあたまで考え、行動し、責任を引き受けようという人間はいなくなります。自由に発想し、新しいものにチャレンジできるような人間もいなくなります。

そうなれば当然、きちんとリスク管理ができたり、緊急事態に適切に対応できたり、国際社会で活躍できる人間もいなくなってしまいます。日本経済は衰退の一途をたどり、利益を享受することもできなくなるでしょう。

でも、もしかしたらそれは、言葉を奪われ、仕事が無いのも自己責任として切り捨てられ、自ら命を絶つしかないよう仕組まれたこの国で、見えない権力者に拳を振り上げることもできず、「迷える子羊」として生きるしかなかった人々の「静かなる反乱」なのかもしれません。

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Posted by 木附千晶