愛馬が教えてくれたこと(6/6)

2019年5月29日

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image080205.jpg ところで、愛馬と乗馬クラブの犬は大の仲良しでした。
たとえば寒い冬の夜、愛馬は自分の夜食である干草を、暖を取るために犬小屋に貸してあげていました。そして犬は、朝、愛馬がお腹を空かした時間になるとちゃんと干草を返してくれていました。

過去何度か、愛馬が倒れたときも、真っ先に気づいて大騒ぎするのはその犬で、状態の悪いときは、乗馬クラブのスタッフと一緒に、寝ずに看病してくれました。スタッフたちは、犬の様子から愛馬の病状が深刻なものかどうか判断していたほどです。

最期の日も、犬は、愛馬が倒れた際にすりむいた傷をきれいになめてくれました。そしてもう動かなくなった愛馬の馬着をひっぱり、耳元で吠え、どうにか起こそうと必死になっていました。


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私が駆けつけたとき、すでに愛馬は息絶えていたのですが、犬は私に「何とかしろ!」と言いたげに、ずっと訴えていました。日頃はそんなふうに人に向かって吠えない犬なのに、です。
その日はほんとうに一日中、ずっーと吠え続け、時折、愛馬を見つめては悲しそうに鼻を鳴らすのです。

その犬にとっても、愛馬は他の馬とは違う、特別な存在だったのでしょう。もう歩けないほど足が弱っても、体が衰え、やせ細っていても、他の馬では代わりにならない、唯一無二の存在だったに違いありません。

私が、今の乗馬クラブに愛馬を預け代えてから15年くらいがたっていますが、その間、ふたり(一頭と一匹)は、1日と離れたことがないのです。お互いの存在が、もう自分の一部のようになっていたのでしょう。

「千の風になる」ということ

『千の風になって』という詩(歌)がヒットしています。私は今まで、その意味を「亡くなった者も温かい思い出として、残された人を元気づけたり、心の中で生き続けたりしていく」というくらいに考えていました。

けれども、そんな簡単な意味ではなかったのだと、今は思います。
亡くなった者と過ごした時間、その存在があったからこそやってきたこと、考えたこと、出合った人・・・そうやって積み上げられた歴史が、今の私の人生であり、生活であり、私という人間の一部になっています。

もし、愛馬の存在がなければ、もし、出合ったのが他の馬であったら、今ここにいる私は、また違う人間になっていたはずです。
だからこそ、あらゆる生命はその存在そのものに価値があり、生きとし生ける者はすべてかけがえがないのです。

私の一部となった愛馬は、これからも私と共に生き続け、未来をもつくっていきます。それが「亡くなっても、残った者とともに生き続けるということなのだ」と、愛馬は教えてくれました。

実は、まだ夢の段階ですが、愛馬が引き合わせてくれた多くの人たちと一緒に、愛馬の遺志(?)を継ぎ、ホースセラピーができる場をつくれないかと、新たな展開も考えているところです。

最後にかえて

私が愛馬の残したメッセージを未来につながるものと受け止められるよう、私の傷みに寄り添い、悲しみを分かち合ってくださった人々に感謝したいと思います。

そして、最後になりますが、こうした長い長い語りの場を与えてくださり、さらにそれを読んでくださったすべての方々に、心よりお礼申し上げます。

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Posted by 木附千晶