絶望と自殺(5/6)
ところで、ここのところ「死刑になりたい」ーーそんな動機で、見知らぬ他人を殺める事件が相次いでいます。いわば「他者の力を借りた自殺」です。
自殺願望を持つ人の増加は統計からも明らかに読み取れます。
内閣府が5月に発表した「自殺対策に関する意識調査」では、20歳以上の男女の約20%が「本気で自殺を考えたことがある」と答えています。最も多かったのは30代(27.8%)と20代(24.6%)でした。
また、警察庁の統計(06年)では自殺者は3万2155人。9年連続で3万人を超えています。
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本人の責任を強調
しかし、自殺(願望)者に対しての視線は相変わらず厳しいものがあります。
今回のブログの冒頭で紹介した会社員のように「甘えている」「努力したのか」などと言う人の声がまだまだ大きいのです。
「他者の力を借りての自殺」ともなるとなおさらです。しかもいわゆる“立場”のある人ほど、辛辣です。ワイドショー等では「自己中心的な犯罪」、「罪のない人を殺した理解不能の残虐非道な人物」などのコメントが繰り返されます。
今の日本社会の、様々なひずみを映し出した秋葉原事件の後でさえ、「注目を浴びたかった」「万事、責任転嫁」など、容疑者の責任を強調した心理の専門家の意見も少なくはありませんでした。
度重なるネットへの書き込みについても「現実から逃げようとしている」などの言葉が目立ちました。
環境にこそ問題がある
繰り返しになりますが、確かに人を殺した責任は容疑者が負うべきものです。
けれども、容疑者がそのような人間にしか成長できなかったこと。さらには、だれにも助けを求められず孤独の中でネットの世界に没頭し、世に恨みを持つようになったことも、本当に容疑者の責任なのでしょうか。
私には、そうは思えません。
あの生命力あふれた赤ん坊の姿。生き延びるために、どうにか他者を振り向かせようとする赤ん坊のどこに、他者を破壊し、自らをも破滅させる未来を感じられるでしょうか。
もし、自分を含むだれかを殺すに至ったのだとしたら、その環境の方にこそ問題があったと言うべきでしょう。
「人とつながりたい」という欲求
人はみな「人とつながりたい」という欲求を持って産まれてきます。ほ乳類の中でも、とくに未熟な状態で産まれてくる人は、たえず自分を気にかけ、寄り添い守ってくれる養育者(母的存在)がいなければ生き延びることはできないからです。
昼寝から覚めたとき、おしめが濡れたとき、おなかが空いたとき・・・赤ん坊は、今できる唯一の能力を駆使して泣き叫び、自らを守ってくれる相手、必要とするものを提供してくれる相手を求めます。
こうした赤ん坊の「他者との関係性を求める叫び」をきちんと受け止め、そのニーズをくみ取り、応じてくれる養育者に出会うことが出来れば、乳幼児の“泣き叫び”は、少しずつ洗練されていきます。
その子の発達度合いに応じて、“泣き叫び”よりも有用な方法で自らの欲求を表すようになっていきます。
自己主張や意見表明などと呼ばれるものへと変化するのです。
欲求を無視されると・・・
不運にも求めに応じてくれる養育者に恵まれ、安心できる環境を持てなかった場合、子どもは自らの欲求を表すことを止めていきます。「求めても他者は応じてくれない」と学習し、自らのニーズを他者に伝え、助けを求めることをあきらめ、人との関係性を築こうとはしなくなるのです。
乳幼児の研究では、母親から離された当初さかんに泣いていた赤ん坊が、そのうち泣かなくなり、無表情・無反応になっていくという有名な報告(『Hospitalism』Spitz:1945)もあります。
さらに、その後の報告では、そのまま養育者のケアが得られなかった場合、情緒的発達および身体的発達の生涯を来たし、死に至ることもされるとされています。(続く…)