静かなる反乱(2/8)
生活も職も心も不安にさらされている人たちの問題に取り組んでいる作家の雨宮処凜さんの近著『排除の空気に唾を吐け』(講談社現代新書)によると、日本では今「16分にひとりが命を絶っている」(38ページ)そうです。
さらに同書は、生活困窮者の支援をしているNPO「自立生活サポートセンター・もやい」の湯浅誠氏の唱える「五重の排除」ーー「教育課程からの排除」「企業福祉からの排除」「家族福祉からの排除」「公的福祉からの排除」「自分自身からの排除」という概念も紹介し、「この『自分自身からの排除』は、まさに自殺の問題と地続きだ」(42ページ)と書いています。
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私もまさに同感です。
必ずしも貧困に陥っていなくても、カウンセリングでお会いするほとんどの方が「自分自身もが自分を『見放して』いく」(44ページ)ようにさせられています。そして自分を責め、うつ的になり、さらに絶望すると、死への扉に近づいて行きます。
「自分はダメだ」「そしてそれは自分のせいだ」と思い込まされて・・・。
「自分自身からの排除」
同書(42~43ページ)には、「自分自身からの排除」に陥った30代男性の事例も載っています。
彼は、リストラにあって以来、6年間120社以上に求職活動をするも不採用。その間、派遣で働いた仕事は長期の予定だったのに、一月でクビ切りにあったそうです。気に入られるよう、毎日30分から1時間早く出社してそうじをし、私服OKの会社にスーツで出社するほど気を遣っていたにもかかわらず、彼の努力は一切、顧みられることはなかったのです。
さらに許せないのは、最近、彼が面接を受けた企業の採用担当者のこのコメントです。
「貴方の生きている目的はなんですか? こんな6年間も地に足が着かない事をして・・・。私には貴方のような人たちの生きている意味が理解できない」
そして彼は不採用になり、メールにこう書いてきたそうです。
「今の仕事が出来ないのもすべての原因は自分自身にあると思っており生きていることが社会に対して迷惑と思っております」
「本人の問題」と片付けられない
いったいだれが望んで、6年間も地に足の着かない事をするでしょうか。
だれが望んで、そんな人生を選ぶでしょうか。
ほんのわずかなりとも人間らしい共感能力があれば、すぐに分かることです。
彼のような気持ちに追い込まれ「うつ病」と診断された人のことを「心の問題」と考えることができるでしょうか。そして、「社会にとって迷惑な自分を消そう」と命を絶った人がいたとしても、その原因を「本人の問題」として片付けることができるでしょうか。
長い間、彼の尊厳を踏みにじり、おとしめ、排除という暴力を野放しにしてきた社会や、その代弁者である採用担当者にはなんら関係のないことなのでしょうか。
私はとうてい、そう思うことはできません。
日本は暴力にあふれた国
どう考えても、日本は豊かでも平和でもない、暴力にあふれた国です。
もし、それを「心の問題」や「本人の問題」として本人に押しつて片付けることができるのだとしたら、「そうできる人の心こそが病んでいる」のです。
そうした心を病んだ人の代表的な意見を、やはり雨宮さんの本から引用したいと思います。秋葉原で無差別殺傷事件が起きた後の『読売新聞』の「編集手帳」(2008年6月10日)の一節です。
「世の中が嫌になったのならば自分ひとりが世を去ればいいものを、『容疑者』という型通りの一語を添える気にもならない」(続く…)