絶望と自殺(6/6)

2019年5月29日

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秋葉原事件の容疑者の養育環境はどうだったでしょう。
報道から推測する限り、彼の家庭は今の社会に適応し、そこで成功できるような「良い子」を求めるものだったように見えます。

おそらく、彼は小さな頃から自らの欲求(「他者との関係を求める叫び」)を無視されたまま、社会の価値観を体現した親の要求に応じるようしつけられ、その期待に応えるべく努力してきた人間だったのでしょう。

傷ついたときにほっとできたり、つらい目にあったときに逃げ込んだりできるような安全な居場所。「自分は自分のままで価値がある」と思え、助けを求めることができるような他者との関係を彼は持っていたのでしょうか。

たぶん彼にとって他者とは、絶えず要求を突きつけてくるもの。その要求に応えられなくなれば簡単に切りすてるもの。自らを搾取し、孤独へと追い込むもの・・・そんな対象でしかなかったのではないでしょうか。

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親(おとな)の期待をくみ取る子ども

格差をつくり、子どもに「社会で役に立つ人間であれ」と要求し、親が子どもに顔を向ける機会を奪う競争社会では、人々は市場原理で振り分けられます。
市場原理にどっぷり使った親(おとな)は、子どもに市場で価値の高い“商品”になることを自らも気づかないうちに要求します。市場価値の高い“商品”に育てあげることこそ子どものためだと考え、「子どものニーズ(思いや願い)などそっちのけ」のことも少なくありません。

子どもは無意識のうちにそうした親の期待をくみ取り、ときには必要以上に過大に推測し、期待通りの“優良品”であり続けようと頑張ります。

でも、期待に応え続けられる子どもはそう多くはありません。大多数は、競争に敗れて落伍者になっていきます。万が一、勝ち続けることができたとしても、人とつながることができない寂しい人間になっていきます。

社会への復讐

いったん市場での競争レースから降りた者に対して今の日本社会は過酷です。
引きこもりや不登校、非正規雇用など、市場で認められない“不良品”は、地域からも仲間からも分断され、根無し草となって生きのびる人生を強要されます。
一度“不良品”の烙印を押された人は、人とつながる可能性も奪われ、ネットなど人ではない“何か”に居場所を求めるようになります。

多くは場合は、「こうなったのは自分のせいだ」「能力のない自分が悪いんだ」と自らのを責め、分に応じたあきらめの生涯を送ります。

しかし、中には社会の不条理に気づき、自分をそんな人生へと追い込んだ社会への復讐を企てる者も出てきます。

第二、第三の秋葉原事件も

政府の諮問機関である教育再生懇談会は、「携帯電話依存の小中学生が増加」との報告を受け、「小中学生から携帯電話を取り上げよ」との提言を出しました。それによって犯罪を未然に防げると考えているようです。

でも、ことはそう簡単にはいかないでしょう。
携帯依存の増加に加え、小中学生の自殺者数が急増との報告もあります。2004年の警察庁統計によると、2003年に自殺した小中学生は93人(前年は34人)で57.6%も増加。それ以降、小中学生の自殺者数は、毎年73〜95人で推移しているのです。

胸にぽっかりと空いた空洞を抱え、孤独と絶望の中でなんとか生き延びている子どもたちは確実に増えています。
その痛みをきちんと受け止め、子どもが発する「他者との関係性を求めるを叫び」にきちんと顔を向け、子どもの願いや思いにきちんと応えられる社会へと転換しない限り、必ず第二、第三の秋葉原事件は起こります。

つい先日(7月22日)にも、京王線八王子駅(東京都)で無差別事件が起こりました。
報道によると容疑者は「家族が相談に乗ってくれなかった」「とっさに無差別に人を殺そうと思った」などと供述しているそうです。

責められるべきは社会

生まれ落ちた瞬間に「いつかは人を殺してやろう」と誓う赤ん坊など絶対にいません。そのままで愛され、思いや願いを受け止められ、きちんと社会に受け入れられた経験を持っていれば、世の中への復讐を思い立つ人間になど成長するはずがないのです。

19世紀の経済学者であるJ・S・ミルは言っています。

「社会が子育てに失敗し、非行者を生み出してしまうとするなら、そのことについて責められるべきは社会自身である」(『自由論』)

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Posted by 木附千晶