静かなる反乱(5/8)
同書は、「助けてと言えない」のは、競争教育、過度の自己責任論の洗礼を浴びてきた30代の特徴と位置付けていますが、はたしてそうでしょうか?
今回の大震災・原発事故で、避難所に入ることを余儀無くされた人々のインタビュー風景を見るたびに、そのことを考えさせられます。
ひたすら堪え忍ぶ被災した方々
被災者の方々は口々に、「(避難所に)置いてもらえるだけで十分」「こんなにしてもらってありがたい」「ワガママは言えない」など、「他人の世話になっていることへの申し訳なさ」を訴えます。
本当は「もっと暖かい場所で暮らしたい」「野菜や魚が食べたい」「ふわふわの布団で眠りたい」などなど、いろいろあるだろうに、そうした欲求は飲み込んでいます。
一時、避難所に入っていた知人からは「避難所も大変だけど、避難所まで行けない人たちもすごく大変。炊き出しに並んでいたときに『自分たちが食べると、他の人の食いぶちがへるから』と、1日1個のおにぎりを分け合っているという年配の夫婦がいた」との話も聞きました。
こうした日本人の謙虚さというのでしょうか。自己犠牲の精神は、“美徳”として語られることが多々あります。
震災後、海外では「なぜ、こんな状況でも日本では暴動が起きないのだ!」と、静かに堪え忍ぶ日本人の様子に感嘆すると同時にたたえる報道が見られました。
こうした海外の声は、原発事故の被害の拡大とともに、感嘆というよりも、「理解できない」というトーンに変わりつつもありますが・・・。
ずっと助けてと言えなかった日本人
そんな様子を見るに付け、私はやはり、「今の30代に限らず、日本人はずっと『助けてと言えない』ままきたのだ」と思ってしまいます。
何しろ、今回の地震と津波も、原発事故も、当然ですが被災した方々は、文字通り被害者です。当然ながら、なにひとつ責任はありません。
巨大な暴力を受けた立場の者として、「なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか!」と、「なぜ政府の支援はこんなにも遅いのか!」と、「危機管理をしていなかった責任をちゃんと取れ!」と、声を上げてもいいはずです。
「このままでは自分は死んでしまう! 助けてくれ!!」と、もっともっと声高に叫んでしかるべきなのです。
「助けてと言えない」背景
こうした背景には、私たち日本人が何世代にもわたって「子どもの頃から欲求を抑えこみ、意見を述べることを潰してきた」ことが深く影響しているのではないでしょうか。
私たちの社会は「しつけ」という名で、子どもを調教し、社会に早く適応することを是としてきました。子どもが安心感を持ったり、成長・発達するために必要な思いや願いも、おとなの都合で「わがまま」と呼び、切り捨ててきました。実態のない「世間さま」に合わせて行動することを強いてきました。
そして一方で、だれかに頼ることを依存と呼び、自分で自分の面倒をきちんと見られないことを弱さととらえ、そうした存在を「ダメな人」「迷惑なもの」と位置付け、「すべてを自分でまかなえる人間」=自立した人間として、もてはやしてきました。(続く…)