以前、『搾取される子どもたち(7)』などでもご紹介した大川小事件。子どもを失った遺族54家族中19家族が石巻市と宮城県を相手に訴訟の決意を固めました。
仙台地方裁判所で、5月19日に初公判が行われる予定です。
時候ぎりぎりでの苦渋の判断でした。

どうして遺族は、訴訟に踏み切ったのでしょうか? 最後の引き金を引いたのは2014年2月に大川小学校事故検証委員会がまとめた最終報告をまとめたです。


助かる条件がそろいながら、なぜ?

最終報告、そして検証委員会の問題に入る前に、大川小事件をざっとおさらいしておきましょう。

宮城県石巻市立大川小学校では、2011年3月11日の東日本大震災による津波で、全校生徒108人中70名が死亡、4名が行方不明となりました。教師も11名が命を落としました。

下校途中などとは違って、学校の中で、教師も一緒にいるという完全なる学校管理下での悲劇です。
しかも、津波襲来まで51分もの時間があり、体育館のすぐ裏には、日頃から子どもたちが遊び場にしており、低学年でも40秒程度で登れる山(私も実際に登りました)があって、すぐ動けるようスクールバスも待機していました。

「それなのに、なぜ・・・」

子どもを失った遺族が抱く当然の疑問です。

これだけの避難できる状況、悲劇を回避できるだけの客観的条件がそろいながら、どうして子どもたちはただ校庭にとどまり、波にのまれ、命を落とさねばならなかったのでしょうか。

ていねいな話合いを重ねてきた遺族

私がお会いした遺族の方々は、口々に「できれば訴訟などしたくなかった」と話されました。

事実、震災から3年間、遺族の方々は、傍から見ていて、心が痛むほどていねいに、冷静に、石巻市教育委員会や文部科学省、検証委員会と話合いを重ねてきました。

「教育に携わる人たちなんだから、きっと理解してくれる」「恐怖の中で命を落としていった子どもの気持ちを分かってくれる」ーーそう、信じていたのでしょう。(続く…

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大川小事故検証委員会は、石巻市の依頼を受けた第三者機関として2013年1月に活動を開始しました。

委員会発足当初、付いた予算は当初2,000万円。しかし、2014年8 月の補正予算で審議のないまま3,700万円上乗せされ、合計5700万円ものお金が投じられました。

そんな委員会には遺族の思いや願いに誠実に応える義務がありました。

なぜなら、本来、最も真実を明らかにする義務があるはずの石巻市教育委員会は、

①遺族説明会を開かない
②だれよりも真実を知っているはずであるただひとり生き残った教師を「病気休職中」として表に出さない
③最初の段階で聴取した子どもの証言を改ざん・隠蔽し、重要な証拠となるはずの聞き取り時メモを廃棄する

など、不誠実な対応を重ねてきたからです。

設置段階から誤った検証委員会

重要な責務を負って発足した検証委でしたが、まず設置段階から道を誤りました。

「中立性を保つ」との理由で委員の人選は文科省が行ったのですが、「市や県の教委と結びつきの深い人物は入れないで欲しい」「遺族も検証に加わりたい」などの遺族の要望はまったく聞き入れてもらえませんでした。

石巻市の受注先であり、委員会の事務局を担う株式会社社会安全研究所の代表と。委員会のメンバーである委員のひとりが実の親子であることも疑問視されましたが、文科省は押し切りました。

委員会の設置要項には「目的」が無く、「だれのために何を検証するのか」も不明確なまま検証はスタートしたため、当然、検証は「ゼロベースから」行われるしかありませんでした。

そのため、遺族が必死で集めた重要な証拠のほとんどが、検証に活かされませんでした。

たとえば遺族が「子どもたちは日常的に裏山に登っていた」証拠として震災前年に撮影した裏山で写生をしている写真を提出しても、1999年から2010年に大川小学校勤務験者へのアンケート等から「教職員は裏山は危険と認識していた」と、結論付けました。
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続く…

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検証の方法も、とうてい理解できるものではありませんでした。

わかりやすい例を挙げましょう。たとえば、検証内容の振り分け方です。
検証委員会には六名の委員のほか、四人の調査委員がいます。その中には、弁護士や学者などさまざまな専門家が入っているのですが、当日の津波について検証したのは、津波工学の権威とされる委員ではなく、心理学者である調査委員でした。

それだけでもびっくりですが、さらに続きがあります。

この調査委員は、7月に出された中間とりまとめ(検証の中間報告)のとき、「学校への津波到達時刻は3時32分」と、それまでの通説だった「3時37分よりも早い」との見解を示し、みんなを驚かせました。
そして、遺族やマスコミ関係者らから、科学的根拠を示すよう求められ、疑問を投げかけられると、あっさりと新見解を引っ込めたのです。

無駄な時間を費やした検証

ちなみに、検証委員会の最終報告では、津波到達時刻は「37分頃」と明記されています。

他方で、津波工学の専門家である委員がPTSDについて熱弁をふるい、子どもへの聞き取りに難色を示したこともありました。

どうして心理学の専門家が津波について調査をし、津波工学の専門家が心の傷について語るのか・・・。まったく理解できません。

あげくの果てに、まるで思いつきのような検証結果を示し、その真偽を確かめることに時間を費やすなど、絶対にやってはいけないことです。

生き証人の検証を軽んじた

そもそも遺族は、当初から「津波の検証は不要」と言っていました。

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なぜなら遺族が知りたいのは、「裏山や運転手の乗ったバスなど、十分に逃げられるだけの客観的条件がそろっていて、教師が一緒にいながら、なぜ子どもを救えなかったのか」というただ一点だけだからです。

それにもかかわらず、検証委は、その問題の核心からほど遠いことばかり、熱心に検証を続けました。
津波の挙動や天候など、核心ではない、事件の周辺の検証に力を入れ、最も肝心な生き証人の検証を軽んじたのです。(続く…

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何しろ検証委員会は、せっかく集めた証言までも「プライバシー保護」を盾に、どんな立場の、どんな人物が証言したものかをぼやかしてしまいました。

そして、相反する証言をただ並べ立て、羅列しました。
「山への避難を訴えたり、泣き出したり、嘔吐する子どもがいた」と書いたと思えば、その一方で「遊び始めたり、ゲームや漫画など日常的な会話をしていた」と記すなどして、検証という行為を放棄しました。

こうして検証委員会は、何一つ新しい事実を提示できなかっただけでなく、遺族の方々が事故直後から集め続け、積み上げてきていた事実を曖昧にしてしまいました。

そうして「津波予想浸水域に入っていなかったから危機意識が薄かった」「裏山は危険で登れないと思っていた」など、「子どもたちが命を落としたのは仕方なかった」と言わんばかりの最終報告をまとめたのです。

震災後の大川小学校校舎

遺族の方々は、「学校にいるから、先生と一緒にいるんだから、絶対に大丈夫と信じていた」と口をそろえます。

私がお会いした遺族の方々も、「大きな揺れの後、時計を見たら、まだ学校にいる時間だったから『ああ、うちの子は大丈夫』と、まるで心配しなかった」「先生がちゃんと避難させてくれているはずだから、明日になれば必ず会えると信じていた」と、語っておられました。

そうした胸を打つ数々のご意見のなかでも、ひときわ私の心に響いた発言がありました。小学校6年生の長男を亡くし、検証委員会をずっと傍聴し続けてきたお母さんが語った言葉です。

「『たったひとつだけでも、先生が子どもたちを守るためにしてくれたことがあれば』と、検証の行方を見守って来ました。でも、検証を重ねて分かったのは、助けるどころか、逃げようとした子までその場に止めていたということでした」

保護者の切なる願い

子どもを亡くし、市の教育委員会からは不誠実極まりない対応を受け、核心に迫ろうとしない検証委員会・・・。それらと対峙するだけでも、計り知れないほど辛い思いをされてきたことでしょう。

でも、それでも、「どうにかして先生を信用したい」「『先生もあなたを守るためにがんばってくれたんだよ』と子どもに伝えたいと」という切なる願いが、このお母さんの言葉から、ほとばしるように感じられました。(続く…

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教師には、子どもの命と安全を守る義務があります。教師ではない、多くのおとなであれば見過ごしてしまうような危険であったとしても、それを予見し、回避することが求めらます。

そのような専門家であるからこそ、親は安心して子どもを学校に預け、教師を信頼することができるのです。

専門家集団として機能しなかった

ところが大川小では違いました。
教師は、ラジオなどから災害情報を得ながらも、川の様子を見に行くなど積極的な情報収集をしていませんでした。3.11の二日前に起きた震度5弱の地震のときには、川の様子を見に行き、教師たちの間で津波の危険性が話題になっていたにもかかわらず、です。

唯一、助かった生存教師をはじめ、山への避難を促す教師もいましたが、「津波は来な
い」と主張する古参の教師の声にかき消されてしまいました。
いったんは山に逃げた子どもは連れ戻され、かってな行動を取らないよう、注意されたそうです。
校長不在の中、教頭は決断を下せずにいました。

日頃の人間関係問題?

あるご遺族は、こんな重要な指摘をしています。

「生存教師は理科が専門でした。地震には一番詳しかったはずです。その教師が二回も山への避難を主張したのに、通らなかった背景には、日頃の教師たちの人間関係や力関係、校長の学校運営の問題があったのではないでしょうか。そうだとしたら、それは学校文化の問題です。ところが検証ではこの一番重要な部分が手つかずです」

実は、古参の教師と生存教師をめぐる日頃からの軋轢については他のご遺族の方々からもたびたび耳にしました。
そのせいもあるのでしょうか。「生存教師は職員室で浮いた存在だった」と話すご遺族もおられました。

教師間の意思疎通に問題?

形には見えない人間関係のことですから、はっきりとした結論を導き出すことは難しいことでしょう。証言者となるべく多くの教師が、命を落としています。

しかし、検証委員会がまとめた最終報告にも「生存教師が校舎二階で比較的安全に避難できそうな場所を特定している間に、三角地帯(地図参照)に向けて移動を始めた」(84ページ)と書かれています。

少なくとも、教師間の意思疎通や話し合いがうまくいっていなかったことは推測できます。(続く…

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もっとも津波や地震に詳しい教師の意見が通らなかったことも不思議ですが、「避難先に、なぜ新北上大橋たもとの堤防上にある三角地帯(学校から約250メートル離れたところにある)を選んだのか」も大きな謎です。

確かに、海抜1~2メートルの大川小から見れば、三角地帯は数メートル高い場所にあります。私が実際にこの場所に行ったときにも「校舎より高い」との印象は覚えました。

でも、3月11日のあの日、15時時32分にラジオが伝えた予想津波高は10メートル。しかも、津波が来る川は、すぐ目の前です。これでは、「あえて津波に向かっていく」ようなものです。

避難経路も不可思議

避難経路も不可思議です。文字で表現するのはわかりにくいと思いますので、まずは、『朝日新聞』の記事を掲載したサイトをご覧ください。

これを見ると、大川小と三角地帯の位置関係や、子どもたちがどんなふうに三角地帯を目指し、津波がどのように押し寄せたのかが分かります。

すでに津波が迫っていた?

サイトをご覧になった方はおわかりかと思いますが、一般的に大川小から三角地帯を目指すなら、学校を背に右に出で、大きな道(県道238号線)を通るのが自然なルートではないでしょうか。

ところが、子どもたちは、山に向かう左に出てから、道が狭く、ご遺族の話によると「袋小路に逃げ込むようなもの」である民家の隙間を進んで、三角地帯を目指しています。

どうしてなのでしょうか?

これは推測にすぎませんが、避難をはじめたときには、すでに右側から川津波が迫っていたからなのではないでしょうか。

右から水が来ているのを見れば、反対側(左)に逃げるのが生き物としての本能でしょう。(続く…

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「なぜ、山側(学校を出て左側)に逃げたのか」という謎は深まるばかりですが、その疑問はちょっと置いておきましょう。

せっかく山側へと逃げたのですから、そのまま三角地帯とは逆方向の、あの子どもたちが日常的に遊んでいた裏山を目指せば、もっと多くの命が助かったことでしょう。

なぜそうしなかったのでしょうか。これもまた大きな疑問です。

日本の教育体制の象徴

ここでもまた推測で申し訳ないのですが、いったん「三角地帯に逃げる」ことに決めてしまったため、その考えにとらわれ、とっさの柔軟な判断ができなかったのだと考えることはできないでしょうか。

いや、もしかしたら最も地震や津波に詳しい教師の「裏山に逃げよう」という主張が無視され、山に逃げた子どもが連れ戻された時点で、すでに「裏山に逃げる」という選択肢は、「あり得ないこと」になってしまっていたのかもしれません。

こんな指摘をする人がいます。

「最後に子どもを救うのは、危険を肌で感じ、子どもの訴えに耳を貸しながら、事態に対応する能力を持つ教師。大川小事件は、そうした教師を育成してこなかった日本の教育体制の象徴だ。最終報告が提言するマニュアル整備や防災訓練・研修よりも、教師が日常から子どもに顔を向け、自分で考えられるように教育体制を見直さなければ。提言(※)(11・13)は『子どもが自分で判断・行動できる能力を育てよ』と言うが、教師ができていないことをどう子どもに教えるのか」(子どもの権利に詳しい福田雅章一橋大学名誉教授/『週刊金曜日』2014.3.14(983号))

検証委員会の罪は重大

生き残った子どもたちなどの証言によると、大川小では、何人もの子どもが「山へ逃げよう」と教師に訴えていました。「このままでは死んでしまう!」「先生、どうして山に逃げないんだ!」と、泣きながら叫んでいました。

それなのに、その悲痛な子どもたちの叫びは無視されました。
そうやって無念の死を遂げた友達に代わって勇気を振り絞った子どもたちの証言も、我が子に代わって真実を明らかにしようとする遺族の思いも、ずっとずっと無視され続けてきました。

大川小事件は、子ども一人ひとりの命の重さを軽んじ、自分の思いや意見を横に置き、命令に従う人材を育てることで、力を持った人々の利益を優先しようという、日本社会を映す鏡です。

子どもの命というかけがえのない犠牲を払いながら、検証を放棄して、日本社会の持つ問題を隠蔽した検証委員会の罪は計り知れません。

※検証委員会がまとめた『最終報告』にある提言
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