子どもの権利条約と家族(4/5)
こうした国の態度の背景には、やはり「“子ども”という存在をどんなふうに考えているか」という根本的な問題があると思います。
かつて、このブログの「『教育の原点』を取り戻すために」ほかでも書いたように、日本という国は、常々、子どもを「国の発展に役立つ人材」ととらえてきました。
その考えがオブラートに包まれていた時期もありましたが、2006年末の教育基本法「改正」では、真意が鮮明になりました。
以後、子どもが“世界でたったひとつの宝”として成長発達する機会は次々と潰され、国に役立つ人材づくりのための施策が堂々と行われるようになりました。
それは教育だけの話ではなく、保育や養育などさまざまな分野で、同様のことが行われています。
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社会の空気に敏感な子どもたち
こうした社会の空気を子どもたちも敏感に感じています。
3月20・21日にあった「子どもの声を国連に届ける会」の合宿でのことです。
集まった子どもたちの中から、次のような話題が飛び出しました。
「『役に立つ人間でないと受け入れてもらえない』と思うから、キャラを考えちゃう」
「本当の自分を出すのってとても危険。相手の期待に応えて、キャラをつくっておく方が無難」
「ありのままの自分を見せたら、浮いちゃったり、『KYじゃね?』とか思われる」
「学校とか、他の場所ではここみたいに安心して自分を出せない。いつも評価されている感じ」
「なんか、友達に対しても、その役に立ってないとダメって感じとかするかも」
「つかえねぇ」が飛び交う日常
そんな話を受けて、ある中学生がこんなふうに言いました。
「そう言えば『つかえねぇ』って言葉、よく使うよね。あれって、友達が『こうして欲しい』っていうときに、その通りのことができないときに言われる言葉だよね」
確かに私も、若い人たちが「つかえねぇ」と言い合うことをよく耳にします。その多くは、冗談めかした言い方であることが多く、とくに注目してはいませんでした。
でも、合宿での子どもたちの話を聞いていて、「相手の利用価値を評価する」かのような言葉が日常的に飛び交うことの異常さを改めて感じました。
少なくとも、私が中高生だった頃、友達が自分の意向にそった言動を取ってくれないからといって「つかえねぇ」と言うことはありませんでした。そんな発想自体が、まったくなかったと言った方がいいでしょう。
今の子どもたちが、常に他人の評価を受けながら生きており、それがあたり前になっていることを実感した合宿での出来事でした。(続く…)