道徳や説教で子どもが救えるか?(3/4)
2019年5月29日
こうした現実を放置、いえ助長してきた官庁の最高責任者でありながら、「世の中は君を放っているわけじゃない」「必ずだれかが受け止めてくれることを信じてください」「素晴らしい人生を送ってください」と、まるで他人事のような口調で言う彼らは、いったいどういう感覚を持った人たちなのでしょうか。
そもそも、今、死のうとしている子どもに対して、「どんなことがあっても、自らの命を絶ってはいけません」と説くこと自体、理解に苦しみます。
自らの命を絶ってはいけないことくらい、子どもは百も承知です。命を絶とうとしている子どもだって、できることなら友達と遊び、両親にかわいがられ、将来を夢見たいと望んでいます。1日1日を楽しく、生きていきたいと望んでいます。
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少し、視点を変えてみてください。
カウンセリングルームには、アルコール依存症、買い物依存症、摂食障害、暴力・・・さまざまな問題を抱え、苦しむ人たちが訪れます。そうした人たちもみな、「素晴らしい人生を送りたい」と思っています。素晴らしい人生を送るために、アルコールを、ショッピングを、過食(拒食)を、暴力を「やめたい」と願っています。
でも、その症状を手放すことはとても困難です。頭では「やってはいけない」と分かっていても、心がそうは思えないからです。だれかに「こうしなさい」と言われて、その通に振る舞えるくらいなら、悩む人などいないでしょう。
頭で何かを理解することと、心から何かを実感することは違うのです。「〜〜しなさい」と、道徳や説教で規範を教え込めば、正しく行動をする子どもへと「つくりあげることができる」というのは、おとなの傲慢以外の何ものでもありません。子どもは、正しいプログラムを組み込めば、正しく動くロボットのようにはいかないのです。
たとえば「人をいじめてはいけない」などの“ルール”は教え込むことができます。しかし、それだけでは「いじめられた人が辛い思いをする。だからいじめはやめよう」と考えられる子どもにはなりません。いじめられた人の辛さを考えられるようになるためには、他人の痛みを自分の痛みとして感じられるようになることが必要です。そのためにはまず、いじめる側の子ども自身が、「自分の痛みを分かってくれる人がいた」という体験がなくてはいけません。(続く…)
Posted by 木附千晶